異世界転移
「きゃああああっ!?」
「うわあああっ!?」
その場は、混沌に包まれていた。
『それ』は人々に恐怖と嫌悪を与える。
そこに普段強気な男も気丈な女も関係なく、『それ』から逃げ惑う。
しかし、『それ』に近づく男が一人。
「お、おいやめろ!」
「ま、まさか素手で……!?」
静止の声も聞かず、男は歩みを進める。
誰かの呟きの通り、彼は何も持たず、『それ』に近づいていく。
彼はその場にしゃがみ込み、その手を『それ』に向けて……
「うわあ!! あの野郎、マジで素手で行きやがった!」
「信じらんない!! ちょ、それ早くどっかやって!!」
「何そんなにビビってんだよ。ただのクモだろ」
……手のひらサイズのクモを捕まえた。
教室内にクモが出ただけで何をそんなに騒ぐのか分からないという様子で、そのクモを潰してしまわないように軽く握り、逃がすために教室を出る。
俺は堺 日向。どこにでもいるような普通の男子高校生だ。
少し普通と違う点……といってもうちのクラスの中では例外的に、というだけだが、虫が好きだ。
そんなに詳しいわけでもないが、少なくとも虫に忌避感はない。あの嫌われ者の黒光りのヤツであろうと普通に触れる。
先程も、ちょっとデカいクモが出てパニックになった教室を鎮めるために、さっさと処理したのだ。
「まったく、何が怖いんだか。 それにしても……」
俺は、手元のクモをまじまじと見つめる。
この辺りでは見ない種類だ。サイズは普通だが、色合いが珍しい。
紫色に青い斑点という、正に毒々しいという表現がぴったりのクモ。
クモは結構お気に入りの虫なので、ある程度の種類の判別はつくが、コイツみたいなのは見たことがない。
新種だったりして、などと思ったりしたが、別にそういった発見者になりたくもないので、廊下の窓から普通に逃がした。
「そのへんの鳥とかに食われんなよー、と……」
クモを逃がして教室に戻ると、クラスメイト達……特に女子が騒ぎ立てた。
「ちょっと、手洗ったの!?」
「洗ってないけど」
「はあ!? マジ!? さっさと洗ってきてよ!!」
「いやでももうすぐ授業……」
「「「いいから洗ってきて!!」」」
俺はため息を吐いて、回れ右をする。
別に他の奴らに俺の価値観を押し付けるわけではないが、そんなに避けなくてもいいのにな。
渋々と教室の戸に手をかけると、背後から声が聞こえてきた。
「ん……? なんだこれ?」
「えっ、何か光ってない?」
何やら騒がしくなってきたので、振り返る。俺の手が汚いとかそういう話ではなさそうだ。
振り返るとそこには、教室の床を注視するクラスメイト達。
そしてその視線の先には、淡く光る、複雑な紋様が描かれた魔法陣のようなものが。
「なんだ……これ……!?」
すぐに視界が白く光り、思わず目を瞑る。
次に目を開けると、周囲に広がっていたのは説明の難しい光景だった。
恐ろしく速い速度で周囲の景色が流れるのは分かるのに、その景色は何というか、虹色のモヤのようなものだった。イメージとしては、某国民的猫型ロボットのタイムマシン使用中の引き出しの中身だ。
近くには、クラスメイト達の姿があった。全員混乱しているようだ。
俺と同じように周りをキョロキョロして現状の確認をしているようだったが、誰一人として正しく現状の理解が出来ている人はいないだろう。
(これはなんなんだ……? まさか、ラノベとかでよく見る異世界転移とかいうやつか……!?)
異世界転移。
そこそこそっち方面の書籍も嗜んでいた俺にとっては、割とテンプレと言える展開ではある。
だが、そんなことが現実で起こるなど考えたこともなかった。
慌てる心を静め、目を閉じて黙考する。
(……もしこの考えが正しかったとして、俺たちはどうなるんだ……?
お約束の展開では、転移したら国の王様の前で、魔王を倒してほしい~とか言われるが)
『そんなことには、我がさせぬ』
「ッ!?」
今、どこからか声が聞こえた。というより、頭に直接流れ込んできた。
驚いて目を開けると、周囲に人の気配はなくなり、目に入る景色も、一面真っ暗で不気味な様相を呈していた。
「これは……!?」
一瞬にして恐怖が心を支配する。
今までは他に人がいたことと、ファンタジーの産物を目にしたことに対する喜びと驚きによって紛らわせることができていたが、このような空間に一人取り残されると、否が応でも恐怖を感じざるをえない。
(何が起きた……!? 皆はどこに行った!? そもそも俺はこれからどうなる……)
何とか冷静にあろうと思考を続けていると、急に酷い睡魔に襲われた。
意識は朦朧として足元はふらつき、ついに立っていられないほどに。
(く、そ……いったい、なにが)
その後も数分間は気合で鉛のような瞼を開いていたが、抗いきれずに意識を失った。
……意識が途切れるその刹那、俺は声を聴いた気がした。
『フフフ……そなたのこれから為すこと、期待しているぞ……』
それは悪戯を仕掛ける前の少女のような、いかにも楽しくて仕方ないというような声であった。