笑わない電柱の見分け方
「ねえ、知ってる? うちのクラスの片岡さん、援交してるらしいよ」
放課後の教室。仲の良い友達数人とだべっていると、美穂がおもむろにそう切り出した。あの、大人しくて地味な片岡さんが援交? そんなわけないじゃん。私を含めた他のメンバーがそう言ってバカにすると、美穂は自分のスマホを取り出し、辺りを気にしながらそっと一枚の写真を画面に表示させた。写真に写っていたのは、私服姿の片岡さんと、彼女と手を繋いだスーツ姿の中年サラリーマン。お父さんじゃないのと私が指摘すると、美穂は次の写真を画面に表示する。先ほどと同じ中年男性と手を繋いだ片岡さんの姿。そして、二人がまさに中に入ろうとしている建物。詳しいことは私も知らないけれど、少なくともその建物は自分の父親と入るような建物ではなかった。
「私以外の人も何人かここの通りで片岡さんを見たんだって。それも、毎回違う中年男性。これはもう間違いないでしょ」
美穂と他のメンバーが一気に色めきたつ。ビッチじゃん、とか、気持ち悪いよね、とか、この場にいない片岡さんの陰口で盛り上がる。共感と同意を繰り返し、ただ自分が仲間はずれじゃないという安心感を得るためだけの中身のない会話。他の子と歩調を合わせつつも、私は一人、違うことを考える。
ブスではないけど、いつも教室の隅っこでぱっとしない女子同士で固まっていて、時々授業で電波的な発言をしてその場をしらけさせるような女の子。それが私の片岡さんのイメージ。私はちらりと写真に写った片岡さんの姿を確認する。いつも学校で見ているはずの彼女が、どこか別世界の住民であるかのように見えた。私服のせいなのか、それとも援交という非日常的な言葉のせいなのか。それは私にはわからない。だけど、少なくともここにいる他の子みたいな、どこにでもいる人間ではない。そんな気がしてならなかった。
沙知もそう思うよね。話を振られた私は慌てて顔をあげた。聞いてなかった話に反射的に同意して、笑う。美穂たちはやっぱそうだよねと嬉しそうに頷き返し、再び片岡さんの悪口を続けた。
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片岡さんが援交をしている。美穂からそんな噂を聞いたばかりだったあから、その翌日の下校中に片岡さんとばったり出くわした時、私は心臓が飛び出るほどびっくりした。私服姿の片岡さんが私に気がついて、小さく片手を挙げて挨拶をする。そして、彼女は立ち止まって会話をするわけでもなく、そのまま私とは違う方向へと歩いていこうとする。
同じクラスというだけで接点のない私たち。いつもなら社交辞令的な挨拶だけで済ませるはずの関係。だけど、気がつけば私は片岡さんを追いかけ、後ろから彼女を呼び止めていた。片岡さんが振り返り、どうしたのと不思議そうな表情を浮かべる。ちょっとだけ聞きたいことがあるんだけどいいかな? 私は彼女から一瞬だけ顔をそらし、尋ねる。片岡さんが私の目をじっと見つめてくる。それから、少しだけ間が空いて、別に良いよと彼女は感情のこもっていない口調で答えた。
「片岡さんが知らない男性とエッチなことをして、お金をもらってるって噂を聞いたんだけど。これって嘘だよね」
住宅街の中の公園。端っこに置かれたベンチに座り、私は少しだけおどけた口調で片岡さんに尋ねた。地味で大人しくて、クラスでも目立たない私がそんなことするはずないじゃん。私は斎藤さんの周りにいる他の子と同じ、どこにでもいる平凡な高校生だよ。私は片岡さんにそう言って欲しかったのかもしれない。私は片岡さんの横顔を見つめる。ピンと上を向いたまつげに、薄っすらと引かれたアイライナー。私は無意識のうちに胸の前で軽く手を握りしめる。
片岡さんが私の方を振り返る。驚くそぶりもなく、慌てふためくこともなく、彼女は怪しげに微笑む。それから抑揚のない声で、半分は当たってるかな、と片岡さんは答えた。
「確かに知らない男の人とセックスはしてるけど、別にお金をもらってるわけじゃないから」
それがどうかしたのと片岡さんが私に問い返す。
「え、いや、他の子たちがそういうのどう思うだろうなって。私は別に気にしないけど」
「他の子って?」
「えっと、うちのクラスの男子とか、美穂とか……」
私がしどろもどろに答えるのを、片岡さんは黙って聞いていた。私はその姿を見てさらに緊張してしまう。学校の先生からじっと見つめられた時みたいに、別にこっちが悪いことをしているわけでもないのに、なぜか意味もなく謝りたくなるような、そんな感覚。だけど、私は混乱した頭の中で片岡さんの言葉の意味をもう一度繰り返し、そしてそれから、自分の気分が高まっていくのを感じた。普通の高校生が経験することのないような世界に足を踏み入れている人。私の友達とは違う、非日常を送っている人。そのような人間が私のすぐそばにいて、こうして面と向かって会話をしているという事実が、私の気持ちを高ぶらせる。
「すごいね、片岡さん。他の人とは違う感じがして。私はわかる。クラスの他のみんなとは違う、特別な人間ってこと」
私は頭に思い浮かんだ言葉を、少しだけ大袈裟に伝えてみる。だけど、少しだけ媚を含んだ私の言葉にも、片岡さんは表情を変えることはない。代わりに私から顔をそらし、公園に面した通りへと目を向けるだけ。気まずい沈黙。夕暮れが近づき、影の色が濃ゆくなっていく。何か話題を振らなきゃと必死に考えるが、美穂たちと話す時みたいにうまく頭が働かない。沈黙でどんどん気分が悪くなっていく。私は片岡さんにどう思われているのだろう。そんな思考がぐるぐると私の頭を駆け巡る。そして、何とか思いついた言葉を発しようと口を開いたそのタイミングで、片岡さんがおもむろにつぶやいた。
「ねえ、笑わない電柱の見分け方って知ってる?」
言葉を飲み込み、私は聞き直す。片岡さんは返事をすることもなくベンチから立ち上がり、そのまま通りの方へ歩き出す。私は訳もわからないまま同じように立ち上がり、片岡さんについていく。
「ほとんどの電柱は笑う電柱なんだけどね、極稀に笑わない電柱があるの。普通の電柱とは違う、特別で、珍しい電柱。外見に違いなんてないの。珍しい型だったり、大きかったり、目立った場所にある電柱でも、実際に耳を当ててみると他の普通の電柱を同じように笑ってる。逆に、普通の電柱に見えても、耳を澄ましてみると笑ってないことがある。それは特別な電柱。たくさんある笑う電柱とは違う、特別な電柱」
片岡さんは公園の出口近くに建っていた電柱にそっと手を置きながらそう説明する。どういう意味なのかと私が聞く前に、片岡さんは自分の耳をその電柱につけ、そのまま目を閉じた。私が見つめる中、片岡さんがしばらくそのまま電柱に耳をつけていて、しばらくしてから、これは笑う電柱と、小さく呟いた。
「斎藤さんもこの電柱が笑ってるか、笑ってないか確かめてみる? 普通の人にはわからないかもしれないけど」
片岡さんが私の方を見て言った。私は片岡さんに促されるまま、そっと自分の耳を電柱にくっつけた。片岡さんを真似して目を閉じて、息を止めてみる。だけど、いくら集中しても、電柱の中からは何も聞こえてこない。私は耳を澄まし続け、しばらくしてからようやく耳を離す。どうだった? 片岡さんが私に聞いてくる。その瞬間、先程の片岡さんの言葉が急に脳裏をよぎり、私は反射的に嘘をつく。
「よくわかんないけど、なんか、内側から笑い声っぽいのが聞こえた気がする」
片岡さんが私の返事に嬉しがるわけでもなく、ただ納得したようにうなずき返す。
「人間も一緒。ほとんどは笑う人間だけど、中には笑わない人間がいる。外側からはもちろん見分けがつかない。一見普通の人に見えたり、なんでもなさそうな人でも、実際に耳を当てて聞いてみると、実は笑わない人だっていうことがある。たくさんいる笑う人間じゃなくて、特別な、笑わない人間」
特別な人間。片岡さんが私の方をちらりと見る。私は彼女の表情を見ながら、少しずつ自分の体温が上昇していくことに気がついた。笑わない人間か笑う人間かが片岡さんにはわかるのと私が聞くと、片岡さんは知りたいの? と質問で返してくる。その問いに、私はうなずく。
それを合図に、片岡さんがそっと私の胸に右手を当てた。手は私の胸から腹をなぞり、そのままゆっくりと腰へと回る。片岡さんは身体を私に寄りかからせて、そのまま自分の耳を私の胸に当てた。触れ合った場所から彼女の体温が伝わってくる。片岡さんの手が私の背中をなぞる。耳を済ませると聞こえる彼女の浅い吐息。私は感じたことのない高揚感を覚えていた。平凡な日常とは真逆の、非日常。自分は今、その類のことを経験していると考えるだけで、自分の鼓動が早くなっていく。さっきまで聞こえていたはずの辺りの雑音が、いつの間にか聞こえなくなる。
実際には数分程度だったはずなのに、私のとっては途方も無いくらいに長い時間に思えた。ようやく片岡さんが私から身体を離す。彼女の頬はうっすらと高調していて、上目遣いで私の目を覗き込む。つやっぽい彼女の唇が、うっすらと濡れているような気がした。
「斎藤さんは……」
どうだったと尋ねる私に、片岡さんが小さな声でつぶやく。
「斎藤さんは笑う方の人間だよ」
街の雑音が再び聞こえ始める。国道で車が走り去る音、下校途中の話し声。彼女のその言葉が私を現実へと引き戻した。私は聞こえなかったふりをして、片岡さんの言葉を聞き直す。だけど、片岡さんは首を横に振り、同じ言葉を繰り返すだけ。斎藤さんは笑う人。たくさんいる、笑う人。私の言い聞かせるようにその言葉を繰り返す。
鼓動は落ち着き、熱を帯びた身体が冷えていく。日没がいつの間にか近づいていて、辺りはいつの間にか暗くなっていた。私の目の前の片岡さんの顔に深い影ができる。別に気にすることじゃないよという片岡さんの言葉が、私の耳を通り抜けていく。
私は笑う方の人間。片岡さんの言葉がもう一度耳の中に響き渡った。
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「ねえ、この前片岡さんと一緒にいたけどさ、いつの間にそんなに仲良くなってたの?」
放課後。美穂が獲物を見つけたようなハイエナのように、舌なめずりをしながら聞いてくる。昨日の出来事が頭にフラッシュバックする。それから私はたまたま道端ですれ違っただけだと伝えた上で、そもそもそんなに仲良くなんてないからと訂正する。
「本人から聞いたんだけどさ、本当に援交してるらしいよ。それを何とも思ってなくてさ、引いちゃったよ。何ていうのかな、自分のことを特別だって勘違いしてる、痛い子って感じ」
私は無理やり笑顔を作りながら美浦に言う。分かる、本当に痛い子って感じだよね。笑いながら美穂が同意してくれる。美穂がいつものメンバーを呼び寄せる。もっと聞かせてよ。美穂がゴシップを、片岡さんの悪口を求めてくる。私はちらりと片岡さんの席へと視線を向ける。いつものように彼女はとっくに下校していて、そこには誰もいない机と椅子があるだけ。私は視線を、美穂たちへと戻す。そしてそれから、私は片岡さんと昨日話したことについて、あらん限りの嫌味を込めて、話し始めた。