第四話
結局、カイルは一睡も出来ずに朝を迎えた。眠いのに眠れない。まるで夢を見ることを心が拒んでいるかのように、意識が沈む直前に目が覚める。カアカアと不吉に鳴く声につられて、微睡む瞳で白んだ空を見上げた。
「……くんれん、しないと……」
一日も寝ていたのなら相当身体が鈍っているはずだ。よく回らない舌先で紡いだ言葉は、重たい頭の中でじんわりと響いた。その音を追うように、仄暗い室内で無機質なアラームが鳴って、ひとりでに止まる。カイルは微かにベッドを軋ませながらゆっくりと足をおろし、履きなれた靴の紐を結ぶと、長らく使われてなかった両の足にそっと体重を乗せた。
この時間では誰も出歩く者などいない。日頃の訓練や講義で疲れ果てて、起床時間ギリギリまで爆睡しているのが普通だろう。長い廊下を渡り、階段をおり、また廊下を……と目的地にたどり着くまで繰り返す単純作業。無駄に広い施設の中、初めは迷いに迷ったこの道も、今や本を読みながらでさえもたどり着けるくらいになっている。そのおかげか、ボーッとしていてもトレーニングルームへとたどり着く事が出来た。
「あれ、こんな早くから人なんて珍しいねぇ、どちら様?」
声の主は、紺色のジャージを着ていてもなお異国の王子のような凛々しい風貌、しかし優しい面持ちでにっこりとカイルに微笑みかける。男なのに肩下まである茶髪を無造作に束ねている姿には馴染みがないが、その顔には少し見覚えがあった。
「カイル・ウォードです。……オルドリッジ先輩、ですよね?」
「あれ、僕のこと知ってくれてたんだ。ありがとう。改めまして、僕はハルバード・オルドリッジ。ハル、と呼んでくれたら嬉しいな」
「ハル……先輩でいいんですか?」
「あぁ、構わないよ。……ふふ、なんだか嬉しいなぁ。男の子の後輩ってあんまり関わらないからさ。僕、戦う時も後輩側の陣地じゃなくて。それに、女の子はよく話しかけてくれるんだけど、男の子は話しかけてくれる……というか、喧嘩売られるというか……」
困ったようにハルバードは笑って、首を傾げた。状況は簡単に想像できた。それもそうだろう。廊下ですれ違う度に女子は黄色い歓声をあげて盛り上がるのだから。普段はもっとピシリと髪を整え、服もそれなりのものを着ているハルバードは、容姿から女子にはよく声をかけられる。が、一度話すと印象がガラリと変わるようで、キザっぽいイメージは皆無、むしろわけ隔てしないようなタイプで、やわらかい。
今のカイルがまさにそのギャップに直面している。ナルシストか女たらしかと思っていたのだが。一見で性格を決めつけるつもりは無いけれど、少なくとも両方あてはまらないことは確かだ。
「えぇー。どうしてかな……まぁいいか。これからよろしくね、カイルくん」
「はい、よろしくお願いします」
「堅いなぁ。もっと気楽にしれていいのに。そう言えば、カイルくんはトレーニング?」
「はい……怪我して、一日寝てたんです。身体が鈍ってしまってるかなって」
「それは災難だったね、頬の傷のことかな? 一日にしては綺麗に治っているけれど」
「それもですけど、頭を打ってしまって。あ、傷が治っているのはフレッドのおかげなんですけど。フレッドは俺の親友で、特殊能力持ちなんです。回復補助の。フレッドの力は強いのですぐに治るんですけど、これだけ治らなくて」
「回復補助、珍しい能力な上に強力なのか……気をつけないと上に引き抜かれそうだなぁ」
「引き抜く?」
先程までニコニコとしていたハルバードの顔から笑みが消え、真剣な面持ちで言う。その視線に刺されて、思わずこちらがすくんでしまいそうな程空気が重くなった。
「そうだよ。上の人って言うのは、俺たちのようなまだ学んでいる途中の人間じゃなくて、現役で死地へ向かう人達だ。俺たちのする防衛戦じゃなく、常に敵に囲まれてしまうような戦場だから、怪我人もここより多い。ここでは死ぬのは稀だけど、向こうじゃ当然だ。そんな所にその……フレッドくんかな、まだ君と同じで二十歳にもなっていないような子供なのに、その能力だと駆り出されるかもしれない。怪我が治せるなんて魅力的だからね。さらに怪我人を治すという名目なのに環境は醜悪、血の匂いと埃でまみれた小屋で乾燥したパンを齧る羽目になるかもよ。死ぬまで永遠に、ね」
「……じゃあ、俺達もいつか……」
「うーんと、怪我をしない限りは快適な生活……と言っても野宿もありえるけれど、そんな劣悪な所ではないよ。戦えない程の深手を負えば、の話。今も上には回復補助は数人いるみたいだけど、どれも弱いみたいだ。だから、気をつけなよ。今上に引き抜かれていないってことは、君たちの担当の方が必死で隠しているんだ。フレッドくんは相当良い子なんだね。君が言ったのが僕でよかったよ。他の人だったらバラされてもしょうがないんだからね」
「……以後、気をつけます……」
「あぁ、ごめんね、しんみりしちゃった。一緒にトレーニングしよっか」
カイルははい、と返事してハルバードの後を着いていく。身体を動かしながらも、頭の中はその事でいっぱいだった。フレッドはこの事を知っているのか? ……いや、知らないだろう。そんな事を知っているふうには見えなかった。なら知らせるべきか? 知ってしまったら能力を使うのを嫌がらないか? フレッドなら、笑い飛ばすだろうか。
「あぁそうだカイルくん、僕はハルバードという名前なんだけど、槍使いではないんだ。剣と腕につけるような盾をね。剣といっても細身の……って、大丈夫?」
ハルバードがジッと顔を覗き込んでいるのに気づいてハッとした。気を使わせてしまった事が申し訳なくて、カイルは小さく謝った。