第三話
その夜、カイルは夢を見た。
前後左右も自分の姿もわからないような暗闇を、延々ともがく夢。目を閉じても、開いても、腕を伸ばしても、曲げても。なんにも感じられない空間の中で光を求める夢。
耳をすませば、時折蒸気を吹き出すような音がする。皮膚に意識を向ければ、少し暑い。空気を吸えば生臭さが鼻をつく。次第にカイルは手足の動きを止め、身体が揺蕩うままに任せていた。
きら、と何かが光った。どこかからの弱々しい光を反射して、一瞬だけ。それだけなのに闇の中ではとても目立って、いつまでもカイルの目に焼き付いて離れなかった。その残像を追いかけるように、必死に手を伸ばし、足を動かす。前に進もうと身体をねじり動かすが、現在地がわからない以上、近づいたかどうかは不明だ。酷く粘着質なぬかるみを泳いでいるような不快感を覚えながら、残像が消えても進み続けていた。
その時、手に何かが触れた。久しぶりの感覚に、忘れていたように背骨に電流が走る。けれど、想像していたのとはかけ離れているような。金属のような冷たくて硬い感触ではなく、柔らかくて、熱くて、ねっとり、している……?
カイルがハッとして上を見上げた途端、タイミングを合わせたかのように明かりがつく。黒くて、ぬらぬらと光る袋のような空間の一辺にカイルは佇んでいた。汚い天井から、何かが透けて見える。見慣れたような、変形した顔。黒い、その顔にはあるはずもない口が、嘲笑うかのようにぱっくりと裂けていた。
「インアーティ……キュレーター?」
カイルが口を開いた途端、ギギ、ギギと金属を擦り合わせたような不快な音が響く。口の動きと連動していて、まるで笑い声のよう……いや、本当に笑い声なのかもしれない。
(ここは、インアーティキュレーターの中なのか……?)
考えると、ゾッとした。自分は取り込まれてしまったのか。だが、コイツらはこんなに大きかっただろうか。そういう考えにふける間もなく、壁から手が生えてきて――
「――ッ!!」
驚いて、後ろへ飛び退く。黒い手はそれ以上伸びることなく、ふよふよと何かを掴むように動いていた。瞬きするよりも短いほどの刹那の時、音を立てながら手がまた生える。左から、右から、前から、後ろから。そして、カイルを探そうと動き回っている。素早く動けない身体で後ろに、後ろに、追い詰められ、中央まで来た瞬間。重力がやっと働いた。
生ぬるい風に吹かれ、きりもみ回転しながら落ちていく。何かを掴もうと、腕を真っ直ぐ伸ばした。
……どうして、俺の腕が黒いんだ。どうして、俺の手が大きいんだ。どうして、どうして、どうして。これじゃまるで……
「ああああああああぁぁぁっ!」
絶叫とともにがばりと身体を起こした。荒い呼吸を繰り返しながら辺りを見回す。まだ暗い空、真っ白な壁、同じく白いベッド。……さっきのは、夢だったのか。
夢にしてはリアルな感触を思い出し、嘆息しながら髪をかきあげる。汗でぐっしょりと濡れた額に触れる指は、小刻みに震えていた。
(さっきのは、まるで……)
――俺がインアーティキュレーターになったみたいじゃないか。
そう思った瞬間、最後の光景がフラッシュバックする。伸ばした腕はおぞましく醜穢で、遠くから見たような目線、誰の目線かは知らないが、そこから見たカイルの姿は、完全にアイツらと一緒だった。
……吐き気がした。もっと形容しがたい感情が蠢いているが、とにかく言うならば、吐き気がした。そんな思いを押し隠すようにして、カイルは心の中で唱えるように考えた。
気持ち悪い、自分はアイツらと違う。自分は人間なんだ。理性を持って動いて、ちゃんと声を出して、かけがえのない親友がいて。アイツらの敵として、アイツらを狩るために自分は生まれたような気もしてる。だから、違う。自分はアイツらじゃない。
――どこが?
「……全部だよ」
カイルは聞こえた幻聴に咄嗟に反応してしまった。確かに白髪の女が見えた気がしたのだが……どこを見てもいない。ついに幻覚も見え始めたなんて、疲れているのだろうか。
再び寝る気になれなくて、頬杖をつく。ぬとりとした手のひらが…………ぬとり?
「うわぁぁああっ!!」
黒い、汚い、ゴツゴツした皮膚が、顔に触れている。ゆっくりと手を離すと、粘液がつーっと糸をひいた。それは、紛れもないカイルの腕?そんなの、違う。ガシャンと音を立ててベッドの枠に腕を打ち付け、果物ナイフで突き刺した。……痛い。
「カイ、大丈夫かー? ……っておい、何やってんだよ!」
扉を開けたのはフレッドだった。こんなに早い時間に起きてるのか。いや、カイルの声で起こしてしまったのだろう。入ってきた時、まだ眠そうな目をしていたから。
「フレッド、違う。俺は違うんだっ……」
「落ち着け、なんで腕を刺して……?」
「俺は、俺はインアーティキュレーターじゃない。フレッド、俺は……!」
「わかってる、お前は人間だよ。どっからどう見ても人間じゃねーか」
「……あ、俺の腕……」
カイルが腕を見下ろすと、普段見慣れた白い腕が赤い血を流していた。また、幻覚? それとも、まだ夢の中なのだろうか。よく考えてみたら、サイズがカイルと同じだったから、幻覚だったのだろう。
「よかった……」
「なにがよかったんだよ、自己完結すんなってー。オレにも教えてよ」
「……なんでもない。悪かったな、起こしてしまって」
「はぁ。お前一人で抱え込むクセがあるからなぁ。オレ心配だよ〜」
「ありがとう。でも本当に大丈夫だから」
フレッドとしては、涙をボロボロと流すカイルを放っておけなかったのだが、そう言われると何も言えなくなる。カイルの涙なんて何年ぶりに見ただろうか。それくらい緊急事態のはずなのに、無理やり聞き出す勇気がない。心の中で自分を叱咤しながら、フレッドは笑みをつくった。
「じゃ、傷だけ治して帰るな」
「あぁ……ごめんな、フレッド」
「謝んなよなー。オレだっていっつもお前に助けられてるし」
フレッドのおかげで魔法のように消えていく自らの傷を、カイルは治るまで食い入るように見つめていた。