楔荘 ∼おまけ編「新年号」
縁側でお茶をすすり、新春の風の香りを楽しむ。風がそっと前髪を揺らし、伏せられた黒い目がぼんやりと光を映す。
「旦那様、ニュースですよ」
白銀姫がそう言って縁側でくつろぐ禊の側にやって来た。
「日本の年号が改正されました。令和って言うらしいですよ」
「あぁ……そうか、そっちだとまだそのくらいだもんな。……お隠れになられたか……」
「いえ、まだご存命ですよ。自ら退位を申されたんですって」
禊は目を見開いて、庭で風に小さく揺れる桜を見つめると、そっと口元を緩め、
「そうか……そうか。そうだったか……」
小さく笑い声を漏らす。
「あの、旦那様……」
「何、嬉しいんだよ。こんなに悲しくないのは初めてでね。そっか……」
禊は笑顔をほころばせて、泳いできた桜の花びらを摘まみ上げた。
「では、平成には見届けてもらいたいね。先輩として、令和が同じ過ちを繰り返さないよう、背中を押してもらいたい」
禊は立ち上がると、
「何か贈呈品を用意しよう。我々が望んだ平和がきちんと訪れるよう、忘れないよう目に見えるように」
「何にしましょう! 職人にもご連絡を……」
「あ、その前に」
禊は白銀姫を手に取るとその上に飛び乗り、風に乗って家を飛び出した。
和室の畳の柔らかい香りと、コーヒーの香ばしい香りが戯れる。
「のう、兄宮よ。その匂いは少し……苦手なんじゃが」
百足は怪訝そうな顔で尊を見る。
「何だよ、いい加減慣れろ。海外で言うお茶なんだぞ?」
「うむ……だが、そんな炭をこした泥水……」
「おい、尊!」
そこに禊がやって来る。
「なんだ、お前から来るのは珍しいな。何か問題でも起きたか?」
尊は少し気構えて禊の前に立つ。禊は笑顔で首を横に振ると、
「年号が改正された」
すると尊は顔に曇りを見せ、
「そうか……お疲れさまだな」
「いや、そうじゃない。まだ生きてる」
尊はよくわかっていない様子で顔を上げた。
「退位を申されたんだ。お前ならわかるように、あれを80もの年寄りにやらせるのはさすがにきついだろ? お前の頃は年寄りってのは随分若かったから成し得たが、今はもう時代が時代だ」
「そうか……なるほど。確かにありゃ無理だ。マーサにやらせるのも忍びない」
「何じゃ、元号が変わったのか。して、上様はまだご存命で?」
「あぁ、元気だそうだよ」
「そうかそうか……それは嬉しいね。悲しくない元号改正は初めてじゃ」
百足は扇で口元を隠し、目を閉じて笑みを溢した。
「して、今度は何て言うんじゃ?」
「令和だ」
「どのように連ねるのじゃ?」
百足は嬉しそうに紙と筆を手に取る。禊が教えながら筆を走らせていく。
一枚の和紙に黒く塗れた二文字が目を開ける。
「まぁ……! 厳かで、それでいて温かい。とても縁起が良いの」
「万葉集の梅花の歌から取ったそうだよ」
「あの歌か!」
「知ってんのか?」
百足は嬉しそうに庭の梅の木を見つめ、
「知ってるも何も、妾は都におったよ。よく友と写本を読んだ。気に入った歌を書き写して、障子の穴を埋めたりもした。まぁ、かか様に怒られたけど。友が書いた中にこれがあったよ」
百足は袖を目元に当てると、
「友も喜ぶだろう……好きな歌が使われ、そしてお上もお隠れにならなかった……とても素敵な事だ。平と成った時代とはまた違って、より一層、よい年になる事を願う」
百足は小さく頭を下げると、鼻歌を歌いながら書斎に吸い込まれるように入って行った。
「随分上機嫌だな」
「俺らは弥生人だから、わかんないだろうよ」
「うん、わかんねぇ」
二人は庭の桜と梅を見上げる。懐かしき故郷で見た月が、空の上に横たわって微笑んでいるのが目に浮かぶようだった。