熱血漢の彼女
『……あ~あ、私ってそんなウザいかなぁ?でもさぁ、やっぱりグラホって一番最初にお客様に対面するじゃない?その印象が悪かったら、どんなにCAが気を配っても、パイロットが安全運転に気を配っても、技術の人が頑張って機体を整備したとしても、お客様の気分が嫌な先入観で台無しになっちゃうでしょ?河合さんもさー、コネ入社かもしれないけどグラホになりたいって希望したって事は―――少なくともカッコイイ、素敵って思って入ったんだと思うんだ。じゃあ、本心ではそう言うグラホになりたいって思ってるって事でしょ?本当に親戚に幹部職員の人がいるなら尚更会社の評判って大事だって、本当は分かってる筈なんだよね―――』
「……」
出た。と思った。
仕事場での、ともすれば完璧過ぎて冷たく映ってしまう彼女の姿勢を支えているのは―――ひと昔前のスポ根漫画のような『熱血』だったりする。
前回は体調を崩しがらも熱い想いを持ち続け、最後には綾乃の『熱血』に相手が根負けし、鼻もちならないエリートパイロットの卵が、ツンデレ気味なものの素直に応対する小マシなエリートパイロットになったってていう、彼氏の俺にしては少々面白く無い結果になったわけだが。
が、今回は相手が更に悪いと思う。
なのに綾乃の言葉には、まだその女が何とかなるかもしれないと言う細やかなニュアンスが混じっている。当の本人は其処まで深く考えてはいないようだが。
俺はそう言う彼女の性質を(これ以上熱血暴走されては困るので口には決して出さないが)結構好ましく思っているのだが……前回の件もあるので、何となくハラハラしながら聞いてしまう。
『結婚相手を探す事自体を悪いとは言わないけど……その十分の一で良いから仕事に熱意を向けてくれればさぁー。飲み込みも悪く無いし、本当は要領も良いと思うんだ……男の人の前で出来ない振りしているだけで』
男とは本田の事だろうか。とふと思う。
『俺に話しかけて来る時はご機嫌だから、雪谷さんに迷惑掛からないように適当に相手してる』
本田の台詞を思い出した。やはりその『河合』とか言う女はパイロット狙い―――と言うか本田狙いなのかもしれない。一瞬本田には婚約者がいる―――と綾乃経由でバラしてやろうかとも考えて―――止めて置く。
仕事中は澄ました様子の『カッコいいお姉さん』に見える綾乃だが、素の彼女は感情豊かで隠し事が不得意だ。プライベートで気を抜いていると、考えている事がすぐに顔に出てしまう。
仕事に関わらない色恋事で、しかもうっかり河合に同情なんかしてしまったら―――綾乃の場合気を回し過ぎて余計な事をポロリと言ってしまう気がする。そしてますます、河合のような腹黒そうな女に八つ当たりされる羽目に陥るだろう。
多分河合は、自分と違い不器用なくらい真面目で、意中の本田が素直に尊敬の態度を向ける『雪谷さん』に嫉妬しているのだろう。二十六歳の、社会的には十分小娘で通じる彼女を『オバサン』と言い切った真意が透けて見える。自分に無い物を持っている、眩しい存在を貶めずにいられない悔しさが。
「ほっとけよ。時間の無駄だろ?」
『う~~でもさ~~』
「自分の仕事に集中しろよ」
そんな下らない女に気持ちを向ける必要は無い。
綾乃は河合とか言う鼻もちならない女に、貶められて良い存在じゃないんだ。そんなのは放って置いて自分の事に集中した方が、綾乃の為になるに違いない。
近いうち、そんな奴は自滅してすぐ目の前からいなくなるだろう。航空会社に様々な期待を持って入社した人間の中には、現実に失望して離職を決意する者も少なくない。特にグラウンドスタッフは、不規則な勤務時間、精神的にも体力的にもキツイ仕事内容に付いて行けなず早々に諦めてしまう新入社員が多いらしい―――結婚相手を探すのが目的なら、本田とどうにかならなくても、河合と言う奴はアッと言う間に退職してしまうだろう。
自分の大事な彼女が、そんなつまらない相手に労力を割いていると思うと我慢がならなかった。その上その彼女の貴重な労力をソイツが無下にしているなど……とんでも無いと思う。
怒りがフツフツと込み上げて来て、口を開いたら至極マズイ事になりそうで、そのまま沈黙してしまう。
『仕事……辞めようかな……』
ポソリと吐息と共に呟かれた台詞に、時が止まった。
そんな弱音を吐く彼女は―――初めてだった。
「……」
どれ程疲れているのか、と思う。
そして今すぐ飛び出して彼女の部屋に忍び込みたくなった。
弱っている時に、傍に居てやれない事がひどくもどかしい。
俺は口が上手く無い。もし俺がもっと言葉を上手く操れて、彼女を一発で掬い上げるようなそんな励ましの言葉を送る事が出来たなら―――傍に居なくても彼女の気持ちを明るくする事が可能だったかもしれない。でも現実にはそんな事、口の上手く無い俺には無理だ。だからせめて寄り添って抱き締め、背を擦ってあげられたら良いのに―――そう思った。
一緒に住めたら……。
そんな事を考えたのは、本田の影響かもしれない。
本田のように子供が早く欲しいとまでは考えられないけれど―――仕事人間の俺達が二人の時間をもっと増やして支え合うとしたら、一緒に住んだ方が良いのでは?と言う考えが焼き上がったトーストがポップアップされるように、ポンと浮かんだ。
同じ職場にこのまま二人で残るなら、同棲して変に勘繰られるよりいっそ結婚して籍を入れてしまった方が都合が良い。どうせ総合技術職の俺と数年前に出来た子会社に出向しているグラウンドスタッフの彼女とでは、同じ職場になりようがない。だから稀にある整備士同士の結婚みたいに職場を離すための異動を心配する必要は無い筈だ。
彼女がその台詞をどのくらい本気で言っているのかは分らないが―――もし綾乃が仕事を辞めると言うならいっそ寿退社にしてしまっても良いのじゃないだろうか。
いや、それは性格的に流石に嫌がりそうだな……例えば彼女が転職すると言うのなら、仕事が決まってから結婚した方が良いだろうか?あまり周りに気を使わなくても良いし……それに本気で転職を考えているのなら、事前に結婚する事は就活に不利に働くかもしれない。
『「……」』
考え事に沈んでいた所為か、再び沈黙が続いた。
それを気まずげに破ったのは、やはり綾乃の方だった。
『あっほら!清子が転職活動始めたって言ったでしょ、私もそうしよっかなぁ……グラホって先の見えない仕事だしさぁ。ホラ、河合さんみたいな若い子に言わせると”オバサン”って言われる年齢だし?いつも辞めよっかなって、頭の端で考えてはいたし』
『いつも考えていた』なんて、とって付けたような言い方が引っ掛かった。
どうしても本気で言っているようには思えない。それとも表面上は強がっているが、つい本音を漏らしてしまうほど、堪えていると言う事なのだろうか……?
「……本気で言ってるのか?」
少し苛立ちが混じったのは、綾乃に対してじゃない。
いや本音を言うと―――少しは綾乃にも感じていると言えるかもしれない。
大事な彼女を『オバサン』と言われて怒らない男がいるだろうか。
そして彼女自身が、例え冗談でもそれを真に受けて自分を卑下するような言い方をしたのが気に食わない。俺の大事にしまっておいた宝物を―――勝手に奪われ踏みにじられたかのように感じてしまう。
その訓練生連中に人気があるという『河合』がどんな顔をしてるか知らないが、綾乃が『オバサン』なのでは無い。間違いなくその『河合』って奴の方が子供で―――『ケツの青いガキ』なだけだ。
完全に嫉妬だろう。
素の綾乃はごく普通の感情豊かな、少し惚けた感じのする若い女だが―――仕事場で姿勢を正し、柔らかな笑顔で客に接する綾乃はハッキリ言って美人だ。いや贔屓目もあるので言い過ぎかもしれないが、雰囲気美人と言うか―――何と言うか彼女はとてもそこで、輝いて見えるのだ。
以前体調を崩した時無理をしていないか心配になり、休暇中に彼女の職場であるカウンターを遠目に訪ねた事がある。
すぐにその場を去ったし、その後も彼女にはそんな事があったとは一言も伝えていないのだが。
俺と話したり会ったりしている時に見せる危なっかし気な、年より幼く見えがちな感情豊かな様子は微塵も表面に出さず―――綾乃は制服でキチンと武装し、笑顔で闘っていた。
闘っていると言う表現がしっくりこないほど、綺麗な『カッコいいお姉さん』だった。
その時研修で綾乃に付いて回っている男を目にし……瞬時にその男の苛立ちの訳を理解した。
奴は綾乃に見惚れていた。なのに時折、悔しそうな表情を見せる。
パイロット訓練生は二年間の地上勤務中に結婚する事が多いと言う。つまり彼等は異様にモテるのだ―――特にグラウンドスタッフの女性陣に。
勿論、外で合コンに出たとしてもかなりモテるだろう。パイロットは言わずとしれた高給取りのエリートだ。しかも制服を着るとどんな男でも、うっかり惚れそうなくらいカッコ良く見える。
だから見た目とかはあまり関係ない。ソコソコの容姿でも、パイロットであれば女性陣にはモテてモテて困ってしまうと言うのが現状らしい。だから本田みたいな見た目も体格も良い―――おまけに性格も良い(金持ちの息子と言うのは隠しているようだが)男の人気たるや相当な物だ。
つまり何が言いたいかと言うと―――お洒落に気を使っているちょっと見栄えの良いパイロット訓練生は、普段から女性にチヤホヤされる事に慣れ切っている筈だ。
それなのに熱血スポ根漫画の主人公が服を着ているような綾乃が、ちっとも絆されず甘い顔を見せないもんだから―――かなりジリジリしているらしい。
綾乃からずっとこれまで奴に対する愚痴を聞いていたから、その態度を見てピンと来た。
おまけにズバズバ駄目だしを受けているのであれば―――プライドの高い男で有れば、本業でも無いのに、と拗ねてしまう事も有り得ない話では無い。……そう言う浅はかな奴が、どんな危機にも沈着冷静に対応しなければならないパイロットに向いているかどうかって言うのは全くの別問題だが。
そんなワケで綾乃自身は気が付いていないが―――働く綾乃は十分魅力的な女だ。若いだけで何の取柄も無いひよっこが、羨望と嫉妬をぶつけてしまうくらいに。
事前に情報を入れてくれた本田に、密かに感謝した。
そして彼が、綾乃に何かあれば庇ってくれると保証してくれた事に安堵する。
確かに、綾乃はかなりダメージを受けているようだ。
彼女が仕事を大事にしている事は痛いほど理解している。
けれども―――
『仕事……辞めようかな……』
なんて普段陽気な彼女に似合わない、弱気な台詞を聞いたなら。
「辞めろよ。辞めて俺の所にくれば良いだろ?」
なんて、安易に口走ってしまいそうになった。
そんな事を口に出せば、忽ち綾乃はパニックになるかもしれない。更には目をまん丸にして言葉を失うかもしれない。
だけど、そんな様子も見てみたい―――そんな気がした。
むしろ彼女が弱っている時こそ、チャンスなのではないかと考えてしまいそうになる。
そんな訳でその日。
俺は自分の……いや俺達の『結婚』について、具体的に考え始めたのだった。