憧れの仕事に就いたものの
ポンちゃんが入社した航空会社で働く、グラウンドスタッフ綾乃視点のお話です。
高校生の頃喫茶店のバイトをした。接客って面白い。天職だと思った。
家族旅行で初めて飛行機に乗って沖縄に行った時、トイレから出たら何処にいるのか分からなくなってしまった。携帯は荷物の中だと気付き、冷や汗が出る。
ビシッと一部の隙も無く制服を着こなしているカウンターのお姉さんに泣きそうになりながら尋ねたら、包み込むような笑顔で話を聞いてくれ、目的の場所まで案内してくれた。
その時思ったの。私もこんな風になりたい……!ってね。
短大卒業後四苦八苦&七転八倒の末、大手航空会社で憧れのグラウンドスタッフ(通称グラホ)に採用された。あれから六年。あまりのキツさに二十六歳の私は転職を考え始めている……と言うか常にその事は、採用当初から頭にあると言ったほうが正確かもしれない。
チェックイン対応でモタつけば怒鳴られ、チケットにPCの予約記録にパスポート&エトセトラを早業で確認し(一人頭九十秒が理想らしい)、万が一ミスがあれば飛行機が出発できないかもしれないと言う緊張感に足を震わせ。搭乗荷物超過なのに超過料金を払いたがらない外国人観光客と押し問答をし、手荷物検査で危険物が無いか神経を尖らせ―――トランシーバー片手に空港を走り回る。どんなに腹が立っても焦ってても、にこやかな笑顔を張り付けて対応するのが基本姿勢。
おまけに職場は女の園だ。同期の清子が新しく配属になった部署のお局様はストレスが溜まると後輩虐めに走るらしく、元々転職を考えていた清子は本格的にハローワーク活動に着手したようだ。
私の所属する部署の先輩は厳しいけれど正論しか言わない人達ばかりだからまだマシだなぁ……と思いつつ、生理中の不安定な時期に理不尽な事でお客様に怒られたりすると―――空想していた転職のイメージが現実味を帯びて来る。
清子と同じく最近私も職場環境に悩んでいる。原因は分っている。新しく採用された新人の河合さんだ。
彼女は明らかにやる気が無い。その様子を見ていると幹部の娘で縁故採用だと言う噂もあながち嘘では無いような気がしてくる。英語が話せると言うのは基本中の基本なのに、ヒアリングが不得意なのかお客様の言っている事が分からず、即座に周りの人間を頼る。私に頼む時は特に、こちらが急ぎの作業中でもお構いなし。
作業に慣れず新人がモタつくのはしょうがない。だけどお客様がはけると待ってました!とばかりにペチャクチャおしゃべりし始めるのはいただけない。しかも一番言ってはいけないお客様の悪口。
そして特に目につくのが―――河合さんは地上勤務中のイケメン訓練生に媚びっ媚びの態度で纏わり付いているのだ。彼がいると途端にやる気を出し始め、何かと話し掛ける。どうでも良いけど彼も同時期に配属されたのだから、作業の質問なら私にして欲しい。そして私語は止めて欲しい。
それを私が指摘すると、あからさまに目を逸らし聞く気が無いのをアピールするので、声を荒げないようにするのにかなりの忍耐を要するのだ。
まあ優秀なパイロットの卵、本田君は既に一通りの作業を把握していて何でも答えられる能力があるので河合さんの初歩的な質問になら大抵対応する事が出来るのだけど。でも彼が何処に住んでいるのか、休日は何をやっているのだとか―――個人情報を聞き出そうとする河合さんに少し眉を寄せていたから、彼も私語厳禁っていう常識はあるのだと思うし、迷惑がっているんだと思うけどなぁ。
お前はここに男漁りに来てるのかっ!―――って、勤務中にその光景に出くわすたびに声に出さずに突っ込みを入れてしまう。言い寄るのは時間外にして!そしてその熱心さの三分の一いや、十分の一で良いから仕事に熱意を持ってくれ~~!!と、心の中で血の涙を流してしまう。
だって今は本田君に頼れても彼は研修のため直ぐに他の部署に移ってしまうし、試験に合格すれば半年後には副操縦士として空の上なのだ。河合さんが自分で出来るようになってくれなきゃ、周りの皆も困るし、何より当人が大変な思いをするのは目に見えてる。
この職業に憧れてなったって人は多いけど、現実の過酷さに挫折し辞めてしまう人も後を絶たない。だからドンドン新しい人が入って来る。けれど激務で人手不足―――常に忙しい所に、新人指導まで背負わなければならないのは現場の職員にとってはかなりの負担だ。
そうしてこうして何とか一人前になったかな?……と思った頃に転職や寿で辞められてしまい―――ガックリと肩を落とす事もしばしばだ。二十代にして私はもう中間管理職のおじちゃんと共鳴して語り合えるくらいの心境になっている。
120%やっても追い付かない作業の時間を割いて指導していると言うのに、知らんぷりされちゃ、そりゃ怒りたくもなるよ……!人間だもの。
そして今まさに。―――悲しい現実にショックを受けて固まっている所だ。
場所はトイレの個室。
その外側で私の悪口を同期の女の子に捲し立てているのは―――あの『河合さん』だった。
「あのオバサン、ホンットうるさいんだよね!ちょっとおしゃべりしただけで注意して来てさぁ。『貴女は軽く考えているかもしれないけれど、お客様ってよく見ているのよ。この制服を着て行動している限り、私達の挙動一つで会社のイメージが変わっちゃうの。おしゃべりして騒いでいたら、不愉快に思う人も多いから気を付けなさい』だって……!偉そうにさ~ただの下っ端が何言ってるのよって思うよね?会社背負ってるような口振りで、名前も知らないような短大卒のクセにさ」
「へー?あの先輩って偉そうなの?いつも笑顔で優しそうに見えるけど……」
「トンでも無い!本田さんに話しかけた後なんかヒドイよ!私が彼に特に目を掛けて貰っているから、きっと嫉妬してるんだよ!せっかくグラウンドスタッフになったのに、パイロットと結婚も出来ずアラサーで居残ってるぐらいだからねえ!嫉妬で虐めって酷くない?」
「アハハ……パイロットと結婚したいのは、河合さんの希望でしょ?」
「まーね!あ!本田さんは『私の』だから獲らないでよ!……それにしてもさー、グラホになればちやほやされて楽しめると思って入ったのに、仕事キツイし本当に辞めたいよ~。でも本田さんを落とすまで、我慢しなきゃね」
「本田さんカッコイイよね~。優しいし見てるだけでも本当に癒される。でも航空大から採用だから、他の訓練生と違って地上勤務短いんでしょ?『落とす』って言ってもあんまりゆっくりしてられないんじゃない」
「だから焦ってるんじゃない!」
「連絡先聞けたの?」
「まだ!ガード固くてさ~それっぽい話振っても、乗って来ないの。正面切って聞くしかないかなぁ」
「河合さんに言い寄らない男の人って珍しいよね」
「難しい相手ほど、攻略するのって燃えるのよね!」
「河合さんってお嬢様っぽい見た目なのに、肉食だよね~。私も今度の合コン、頑張ろ」
彼女達のおしゃべりが終わり、十分な時間が経った後個室を出た。疲れ切って肩を落とした私の背中は二、三歳老けて見えただろうって思う……。
はあ~~ショック。『オバサン』って!河合さんと私、学年は四つだけど年齢は三つしか違わないのに!
『嫉妬』って何だ……!本田君だって迷惑そうだったから注意したのに……!
それに良かれと思って―――今はあんなんでもいつか指導している内にやる気出してくれるのかも―――わざわざグラウンドスタッフを選んで入って来たんだからって。そう思って指導していたのに~。
貴重な仕事時間を割いて、でもいつか分かってくれれば良いのにと願ってザルに水を汲むような気持ちで頑張ってたのに……あんな風に言われたら―――現実に耳をしたらショックだよ~!
そう思ってるかもって、態度では分かっていたけどさぁ……。
『ほっとけよ。時間の無駄だろ?』
「う~~でもさ~~」
『自分の仕事に集中しろよ』
整備士の高志とは付き合い始めて二年になる。
理系四大卒の彼はあまりおしゃべりが得意じゃないからか、単に主義なのか、仕事の愚痴なんか滅多に口にしない。そう言う話題を出すのは私ばかり。何となく呆れられている気がして、嫌われたくないから最近仕事の愚痴は封印していたのに、流石に河合さんの『オバサン』発言がショック過ぎて……定時連絡で、とうとう愚痴ってしまった。
「仕事……辞めようかな……」
『……』
本気じゃない。でも愚痴っぽい自分が嫌になって弱気の虫が顔を出してしまった。
沈黙が響いて、我に返る。
もしかして―――『催促』してると思われた?
そんなつもりは無かったけど、寿退社していく同僚達の話題を昨日上げたばかりだと気が付いた。もしかして羨ましくて言ったと思われてないかな?いや、羨ましくはあるんだけど―――辞めたいから結婚したいとかそう言うんじゃなくて。そんなの高志を利用するみたいで何か嫌だし。
それに何よりまだ、結婚とかできる覚悟が―――私には無い!
私は慌てて話題転換を図った。
「あっほら!清子が転職活動始めたって言ったでしょ、私もそうしよっかなぁ……グラホって先の見えない仕事だしさぁ。ホラ、河合さんみたいな若い子に言わせると『オバサン』って言われる年齢だし?いつも辞めよっかなって、頭の端で考えてはいたし」
『……本気で言ってるのか?』
低い声にビクリとした。
もしかして高志、不機嫌になっちゃった?
飛行機大好き、オタクが高じて整備士になった高志は仕事一途で―――私もなりたくてこの職業に就いたから、親睦会で隣になった時すぐに意気投合した。「一所懸命に仕事にしがみついている所いいよな」って彼が揶揄うように言ってくれて、凄く嬉しかったのを思い出す。
その日はあんまりスッキリしない感じで電話を終えた。
いつも高志と話した後は、仕事の疲れもとれてスッキリするのに。
あ~~、もう!私のバカ~~!
さて、いくら気分がスッキリしなくても、朝は来るのです。今日も私は早番で、六時から十四時までの勤務。と言っても時間通りスッキリ終わるかどうかはその日に寄るのですが……それはどんな仕事でも、きっと同じだよね。
朝三時に起きてお弁当作ってメイクして出勤!お給料はそれほど多く無いし、この仕事いつまで続けられるか分からないから節約はとっても大事。
今日も今日とて旅客ハンドリング業務に勤しみます。何と本日はあの、人気ナンバーワン訓練生、長身で王子様のような精悍な外見の本田君が―――私の隣で作業する事になってます。私は一応彼の指導係と言う事になっているのだけれど―――覚えが早く、堂々とした態度が似合う彼にいつもちょっとだけ気圧されてしまう。なのに本田君って丁寧で腰も低いんだよな~。
私は今時点この現場では先輩だし、彼は確か年齢では一個下だった筈。
腰が低いのに威厳もあるってどういうコト?!しかもイケメンのパイロット候補生?なんじゃそら。―――漫画の設定かっ!それとも幻?
そう言えば高志と同じ年だな~なんて考えながら、彼をチラリと見た。
確かにスッゴくカッコ良い。
河合さんを始め、独身グラホが色めき立つのも分からないでは無い。
でも私にはちょっと眩し過ぎる。カッコ良すぎるから、一緒にいたらきっと落ち着かないよなぁ……。
なんてボンヤリ考えたのは、一瞬で。押し寄せる搭乗客に直ぐにパッチリと目が覚めた。
千歳空港へ向かう中国人観光客の群れが波のように押し寄せて来て、チェックインカウンターはプチパニック。何故か今このカウンターにいるのは、私と新人の本田君に河合さん(!!)だ。恐ろし過ぎて背筋が震えた。実は何となく予想がついていたのだけど……やっぱ、このメンバーじゃ無理だ!そうそうに白旗を上げる事にする。
「本田君、ちょっと応援呼んでくれない?その後カウンタ―入って。私まず、お客様誘導しちゃうから。あ、河合さんはチェックよろしくね。すぐに私も列を誘導したらカウンターに入るから」
「「はい」」
よしよし……。本田君の手前、河合さんがヤケに素直で助かるな。彼女からビシッと一発で返事が返って来るなんて珍しい。イケメンにこんな使い道があるなんて!本田君有難う……!
日本人なら当り前に一列に並んでくれるけど、他の国のお客様にはそう言う常識が通じない事もある。私は英語とカタコト中国語ワードを駆使しながら、群がる搭乗客達を一列に並べ、更に重いスタンションを使って列を九十九折になるよう誘導し始めた。
『スタンション』と言うのは映画館の窓口とかデパートの福引なんかで行列を整理するために設置するポールを布で繋ぎ仮設の通路を作るアレである。これが中々重いし、巻き込まれた布を伸ばして連結するのに結構、力が必要で大変なのだ。
でもこれを怠ると行列が縦に長くなって通路を塞いでしまい、結果空港にクレームが行ったりとかなり大変な事になってしまう。
スタンションと格闘していると、大きな影が私の背中から覆い被さって来てアッと言う間にそれを奪われる。
振り向くと―――優しく微笑むイケメンが。
イケメン好きじゃない私の心臓も、思わずドキンと跳ねあがった!
「力仕事は俺が。河合さんパニクってるんで、カウンターお願いします」
「あ……はいっ」
「応援すぐ来るそうです」
どっちが指導係か分からなくなっちゃいそうだが、とにかく彼の言う通りの配置の方が適切だと言う事だけは瞬時に理解した。最初からそう言う指示出しておけば良かったんだよな~!と反省するのは後!
私はカウンターへ一目散。応援に清子が来てくれた。助かった!とホッとする。
何故か一瞬河合さんに睨まれたけど、今は知らん!とにかく搭乗客を捌くのが先決だ。それから嵐のように搭乗客を次から次へと捌き―――スタンションを並び終えた本田君も加わってくれたお陰で何とか事無きを得たのだった……。
「清子アリガト~」
「なんの。王子様に直接頼まれちゃあ、断れないでしょ?」
お道化て首を竦める清子に、笑ってしまう。ちなみに『王子』とは女性陣に広まっている本田君のあだ名である。
そんな軽口を小声で囁いていたら、気が緩んだ途端トイレに行きたくなって来た。が、本田君と河合さんが二人とも揃って帰って来ない。トイレだと思うんだけど……。
「本田君と河合さん、帰って来ないね。私もトイレに行きたいんだけどな」
「お姫様、また王子に絡んでるんじゃない?私ちょっとならここに居られるから行ってきなよ。王子か姫が戻ってきたらバトンタッチするから」
ちなみに『お姫様』は河合さんのあだ名だ。古株のグラホは、彼女がコネを駆使して入社した事を揶揄してそう呼んでいるらしい。でもコネ入社でも頑張ってる姿勢があればそんな風には呼ばれなかったのだろうけど……イケメン王子狙いがあからさま過ぎて、彼女をよく思えないと言う人が多いらしい。あと合コンによく参加していて、更にスッゴくモテるらしいって所もマイナス評価に繋がっているようだ。親戚が幹部職員だって噂があるから、表立って言う人はいないけど。
彼女をちゃんと叱ってるのって、実際私だけです。
はい、馬鹿ですか?馬鹿ですよね……。報われないのは慣れました。
トイレへ向かうと、曲がり角の向こうから声が聞こえて足が止まった。
「本田さん!」
「え?何?」
「私―――雪谷さんに嫌われてるんです―――!」
な、なんじゃそりゃあ!