第7話
『人形』
『にんぎょう』
こう読むとおもちゃとしての『人形』という意味が強くなる気がする。またこれは個人的な印象が色濃くなるが、西洋の『ドール』の方を思い描く。したがって日本人ながらも、その延長線上に『日本人形』があるように思えてしまう。
『ひとがた』
しかしこう読むと陰陽道など、呪い、御払いなどで用いられる『形代』の方の『人形』を思い浮かべる。千と千尋の神隠しで出てきた白い紙の群れ、アレだ。
しかし結局『人形』と書いてしまえば同じなのだ。
どちらも人の形を成しており、どちらも人ではない道具。そしてその用途はほとんどどちらも同じなのだ。
『にんぎょう』を使った呪いなど山ほどあるし、
『ひとがた』をお守りとして、ある種どこかに大事に置いて観賞している人も、手では足りないほどいることだろう。
結局何が言いたいかというと、…………
・・・
僕『中山健太』は『司馬田徳久』さんの家を出て、階段を上っている。
彼を先頭に、向かっている場所は僕の部屋の横。203号室の隣の『202号室』だ。
いや、その前に寄る所があった。
階段を上り切ってすぐ。
目的の202号室の一つ前の部屋、『201号室』。
そのドアの前に司馬田さんは足を止めた。それに倣って僕も止める。
「……」
インターホンに手を伸ばし、司馬田さんは少しだけ迷った後、申し訳なさそうにボタンを押す。
司馬田さんの家でチラリと見えた時計では、時刻は二十一時を回っていた。
この時間から他人の家を訪ねるというのはさすがに申し訳ない。
それにここの住人の『草城亜紀』さんはご高齢な方だし、もしかしたらもう寝てしまっているかもしれない。
しかし返答はインターホンを鳴らしてすぐにスピーカーから帰ってきて、僕と司馬田さんだと分かると草城さんは快く扉を開けてくれた。
「こんばんは」
そう言って扉を開けて微笑む草城さんは…………バスタオル姿だった。
それに僕は「あえて触れないでおこう」と出てきた驚嘆を心の中にしまった。チラリと横目に司馬田さんを見ると、彼も何も言わず「すぐに話題に入ろう」という気構えを僕は感じ取れた。
しかし、
「どう? 私もまだいけそうじゃない?」
((いいえ無理です))
そんなサービスシーンあってたまるか。
そう二人は心の中で失笑するが、司馬田さんも僕も、顔と喉には長年の経験で培った『愛想』というものが染みついているので、
「40代でも行けますよ!」
「僕と同じ大学生に見えましたよ!」
なんて冗談を半場反射的に飛ばす。それに草城さんは「それは言い過ぎよ」と少々照れながら笑い、
「それでどうしたの、こんな時間に?」
と、ようやく本題に入ることができる。
そこで司馬田さんは彼女にこれまでの経緯を説明し、僕に見せるために鍵が欲しいという旨を伝える。それに草城さんはゆっくりと頷いて相槌を打ち、
「ならちょっと待っててね。私も着替えていくから」
といったんドアを閉め、着替えに行ってしまう。
鉄の擦れる音、次いでガチャンとドアが鳴る。
この様子だと、草城さんはあの『人形』に対してさほど嫌悪を感じていないようだ。それどころかさっきの様子だと薦めているようにすら思える。一カ月間で何回か草城さんとは話したことがあるが、やはりあの人に限らずお年寄りというのは独特の『何でも許してくれる雰囲気』がある。僕も祖母が生きていたころは、よくお小遣いをねだりにいったものだ。
なんて、天国の祖母を懐かしんでいると、再びガチャリと音がして草城さんが出てくる。
「お待たせ。行きましょうか」
その手には202号室のものと思われる鍵がある。
三人はそのまま隣の部屋の前に行き、草城さんがその鍵を入れて、回す。
……カチッ―――――――――――――――――――
ただ鍵が開いただけなのに、それがひどく異様に思えてしまうのは、きっとこの部屋への印象からだろう。
そう思っていたが、違った。
「ッ!」
突如、
掻ぅ、―――――――――――――――――――――――――
僕の背中を何かが撫でた。
全身に鳥肌が一斉に勃ち、踵の先まで毛虫が這ったような感覚が貫けた。
――――――なんだ、
手先足先が冷たく凍える。しかし心臓はその音が外部にまで聞こえそうなほど激しく動悸し…………まるで……
ガチャ、……………ギィィ――――――――――――……
『警鐘』
その単語が出てきたときにはもう遅く、202号室――――――異界への扉は開かれていた。
草城さんを先頭に、司馬田さんは中に入っていく。
しかし、
――――――ダメダ
そう、本能が訴えている。
街灯や灯りのおかげで仄暗い外、から、濃い闇が充満するドアの向こうへ……
「ん? 中山君?」
そう司馬田さんに声をかけられて、僕はつい「……何でもないです」と返してしまう。
何が原因か分からない。
その一枚の言の葉が僕の制御を奪った。いや、良し悪しを省くなら、返したというべきかもしれない。
僕はそのまま司馬田さんの後ろを着いていき、ついに入口をくぐる。
パチリ、と電気を付ける音がした。
中は司馬田さんの家と同じく、人形で満たされていた。しかもここにあるのは日本人形だけではない。
マリオネット、ピスクドール、ブリキの兵隊や戦隊系のものまである。
まさに異界。
だが、違うと思った。
僕の感じたものは、もっと………
しかし玄関で突っ立っている訳にも行かず、先に入った二人と同じく、ダイニングに腰を下ろして靴を脱ごうとする。
その瞬間だ。
「ッ!」
はっきりと感じた。
ここはダメだ、と。
――――――空気が………
『淀んでいる』とか、『汚い』とか、正直『空気がうまい』という言葉が理解できない僕は、空気の状態なんて「測ってみるまで分からない」としか思えない。
しかし、これだけは分かる。
―――――――――――ここの空気は…………死んでいる
マズい!
そう感じて振り返った先では、草城さんが奥の洋室への扉を開けようと……いや、
「ここにもあるんだよ」
そう微笑んで、たった今開けた。
そこにあったものを見て、僕と司馬田さんは凍り付いた。
別段変わったものが出てきたわけではない。
そこにあったのは、やはり日本人形だった。
三体の、
日本人形だ。
「あれ?」
そう首を傾げたのは司馬田さんだった。
彼はその洋室の前、草城さんの隣で腕を組み、
「草城さん。ここにあった人形どうしたんですか?」
その声は若干だが叱咤の念を含んでいるように聞こえた。彼の言葉と態度、そしてさっきの草城さんの言葉から、本来その部屋には溢れんばかりの人形が陳列しているのだろう。
だが今はない。
あるのはその三体の人形のみ。しかも何だか妙に汚れているような気がする。
そして司馬田さんの声に、草城さんは、
「……」
僕からは背中しか見えないが、司馬田さんはよりその様子の変化を感じ取っただろう。
彼女はその『人形』を見たまま、ピタリと動きを止めてしまっていた。
放心、というよりは凍結してしまったような。
呼吸をしているかも怪しいくらいに、
「……草城……さん?」
そう僕が背中に呼びかけた。
それと同時に、起こった。
『カタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタカタ!!!!!!!!!!!!!!!!!!』
部屋にある全ての人形が、一斉に笑い出したのだ。
「ひっ―――――――――――――――」
そう引きつるような悲鳴を漏らしたのはこの人形たちを蒐集していた司馬田さんだ。
彼はいきなり起こったこの現象に部屋中の人形を見回す。
余すことなく、全ての人形の笑っている。いや、嗤っているのか。
無数の無機質な瞳はいつの間にか部屋にいる僕たちに向けられており、
じっと何かを訴えるように、
瞬きもせず、
揺らぎもせず、
ただじっと視線だけを注いでくる。
そして耳を塞ぐほどの無機質な笑いは渦を巻き、脳を犯す。まるでたくさんのクルミ割り人形にかみ砕かれているような、そんな錯覚さえ覚えるほどに。
笑う
嗤う
哂う
わらう
ワラウ
ワラウ
ワラウ
ワラウ
ワラウ
ワラウ
ワラウ
ワラウ
ワラウ
ワラウ
「うわあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッッッ!!!!!!!」
そう叫び声をあげたのは司馬田さんだった。
彼は耳を塞ぎ、その場に蹲ると頭を振って笑いから逃げようとする。しかしそれでも逃げきれず、次は床にガンガンと血が出るほどに叩きつける。
「やめろ! やめろ! やめてくれええええええええええええええええええええ!!!」
しかしそれでも鳴りやまない喝采に、彼は遂に耳を塞いだまま転がるように走り、僕を突き飛ばすようにして外に出る。
「司馬田さん!」
そう僕は手を伸ばそうとするが、
「うるさあああああああああああああああああああい!」
彼はそのまま裸足で玄関を出て、
そして、
「あ……」
そう彼の口から零れた時にはもう遅く、勢い余った体は手すりを越え、宙に投げ出されていた。
「あ、アハハ……」
アハハハハハハハハ! アハハハハハハハハ! アハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハッ!
そんな、笑い声が聞こえた後、彼の体は宙から消え、
次いで湿った衝突音がした。
ドチャッ――――――、と。
「司馬田さん!」
そう急いで下に行こうと思ったが、それよりも僕は残された草城さんの方が心配だった。
さっきから彼女は可笑しい。
一体彼女の身に何が起こっているのか。
もしくは起こってしまったのか。
「……草城さん」
少し迷った後、司馬田さんに向けた声量よりも遥かに小さな声で、僕は彼女の背中に近づく。
恐る恐る、すり足気味にゆっくりと近づき、そして安否確認のために肩を叩こうとする。
その時、彼女の顔が見えた。
彼女はまるで何かにくぎ付けになったように放心していて、ある場所、彼女の前にある物を凝視していた。
「…………」
それはあの人形だ。
あの三体の人形。
部屋に響く硬質な笑い声。
充満した嫌悪。
耳を犯す呪いの声の中、その人形たちだけが
嗤っていなかった。
ただ、
ただただ冷たい瞳はまっすぐに草城さんを無機質に見返し、そこから目を離すことを忘れた様に草城さんも人形と目を合わせて硬直していた。
刹那。
……カタッ――――――――
「ッ―――――!!?」
その三体の人形の口がゆっくりと開いた。
それと同時に草城さんも我に返ったように後ろに腰を抜かす。
次の瞬間、ぎぎぎぎぎぎ、と人形の瞳が上を向いた。
「はる……な……」
そう草城さんが言った瞬間、
『『『アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア』』』
軋むような叫びとともに、人形の口から出てきたのは真っ赤な液体。
否。
半液状の何かだ。
…………………否。
ソレの正体はすぐに理解できた。
肉だ。
人の肉だ。
人形の頭は、まるで水を勢いよく吐き出すホースのように震え、その肉塊を吐き出し続ける。
そして三体の前に、真っ赤な、ぬめりと濡れたミンチが溜まる。
「ぁ……―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――」
声なんて出ない。
ハンマーで思い切り叩かれたように言葉は体内から抜け落ち、息が引きつって呼吸を忘れる。
見えない何かが喉の奥につっかえてしまったように空気は喉を通らず、鼓動だけが速度を速めていく。吐き気はする。しかしショックでそれすらも遠くに感じるほどに……
無理だ。
逃げる。
戦う。
そんな選択以前にそう感じた。
何もできなかった。全身の筋肉に信号が通らない。
べちょ、―――――――――
べちょ、べちょ、べちょ、――――――――――――――
やがて肉を吐き終えると、それは徐々に湿り気を増していく。
内臓だ。
大腸、小腸、胃、食道と、つながった消化管。
肝臓、すい臓、心臓に胆のう……
そして最後に脊髄がぬるりと這い出てきて……
しん、―――――――――――――――――――
ピタリと笑いが………止んだ。
「……」
もはや動くことなどできなかった。
自らの鼓動がはっきりと聞こえるくらいの静寂。沈黙。
呼吸すらも忘れて、考えることも忘れて、
ただ白紙の紙のように僕はそこで硬直するしかなかった。
しかし、しばらくして、
「……ぁあ……」
草城さんが小さくそう零した。
その顔に浮かんでいたのは間違いなく『恐怖』だった。
だが、その恐怖は、
「ああぁ………あ、発いたな!」
「ッ!?」
次の瞬間、彼女の顔は僕の方に向けられた。そして鬼気迫ったその顔で、彼女は僕に向かって腕を伸ばし、首を掴む。
「なっ!? ぐざじ、ろ、ざん……!?」
なぜ。
なぜ?
いや、その顔を見れば一目瞭然だ。
もはや彼女の顔に心はなく、理性はなく、完全に壊れてしまっている。
今まで話していた草城さんではない。完全に精神が崩壊し、もう、誰の声も届いていないだろう。
「発いたな! 発いたなお前! 発いたなあああああああああああああああああああ!!!!」
悪鬼のような彼女の顔。
『発いたな』?
どういうことだ。何を言っているんだ!?
……逃げなければ。とにかく逃げないと!
殺される!
「や、や……めろ!」
さっきまで恐怖で硬直していた体は、『人間』という新たな恐怖によって皮肉にも緩和され、僕は何とか彼女の手を掴んで抵抗を試みる。
しかし、草城さんの方が上から体重をかけているということもあり、僕は中々彼女を振り払うことができない。いや、それだけではない。彼女の腕からはおおよそ人間からは想像できないほどの力を感じる。
「あがっ―――――――――――」
まるで万力のように躊躇いなく締め上げてくる彼女の手に、徐々に僕は抵抗力を失っていき、やがては視界が霞んでいく。
「イヒイヒ、イヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒヒアハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ…………!!!!」
世界が混濁し、朧になっていく。
耳が遠く、遥か地平線で草城さんの勝ち誇った笑い声が聞こえる。
そして感覚は沈むように消えていき、…………やがて……
ゴン、という硬い音と、顔にかかった生ぬるい感触を最後に、僕の記憶は闇へと沈んだ……
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