(6)
「少し思考が鈍くなってきたわね」
シフォンが囁くように言った。
時計を見ると、あれから、二時間以上は経過していた。そろそろ、限界が近い。酸素が残っていても意識を失ってしまえば、扉を開ける事ができない。
「なあ、そろそろ諦めて引き返すべきだと思う。例え、捕まっても」
こちらの提案にシフォンは反応せずに目を瞑って、ゆっくりと呼吸していた。酸素を無駄に消費しない為だろう。
そんな態度に苛立ちを覚え始める。
「聞いているか?」
シフォンは頷いて反応を返す。
「あと……もう少しだけ。理解したいの。バイザー越しになってもこの目で見て判断したい」
真剣な表情だった。ここで引き返してもシフォンの命は永らえるだろうが、それは生物として生きているだろう。けれど、人として生きていると言えるのか。
「……待つのはあと十分だけだ。それで」
悩みながら、はっきりと言葉だけは口から出た。自己嫌悪に陥りそうになる。生きていればチャンスはあるだろう。生きていれば。
「駄目だったら諦めるわ。これで良いかしら」
右手を挙げて、シフォンが宣言する。神妙すぎる態度に不安を感じるが口にして問題が解決する訳ではない。
持ってきた懐中時計をストップウォッチモードに切り替え、時間を計り始めた。
ボルドーはただ黙って懐中時計を眺め続ける。
……残り9分……残り8分……残り7分……残り6分……残り5分……残り4分……残り3分残り──。
その時、電子音がなった気がした。
「ボルドー、聞こえた?」
シフォンが促すようにボルドーの肩を揺らす。
離れた時に彼女が扉を開けるんじゃないかと言う想いが過ぎる。だが、彼女を信じて立ち上がった。
コンソールの前に移動して音の原因を調べる。懐中時計の残り時間はもう三十秒を切っていた。
急がなくては間に合わなくなる。ここで二人とも倒れたら、宇宙服の酸素を使わずに気絶し無駄死にだ。
ディスプレイの隅に表示されているアイコンを見つけ、それを開く。もう、残り十秒を切っていた。
其処には臨時メンテナンス終了と記載されていた。
「シフォン! 出れるぞ。急げ」
空気を抜く設定を終え、バイザーを下ろしながら叫ぶ。忠告するまでもなく彼女はバイザーを下ろして準備を整えていた。
バイザーが下りると同時にエアロック内の空気が抜け始める。
『言われるまでもなくてよ』
憎まれ口を叩きながら外へ出る扉の前に立ち、素早く手動に切り替え、レバーを引っ張る。
ボルドーも急いで手伝う。しばらく、使用されていなかったせいでレバーは硬く動かない。
『少し動いた』
シフォンの声と同時にレバーが動き、ロックが解除された。
「開けるぞ」
外への扉の取っ手を力一杯後ろに引く。ボルドーの手にシフォンの手が覆うように重なる。
『せーの!』
掛け声と共に力一杯引っ張るが音がするだけで扉は動かない。
『せーの!』
もう一度、同じように引っ張ってみるが扉は動かない。
『せーの!』
三度、引っ張るがビクともしない。このままでは──
『諦めないで!』
祈るように引っ張ると同時に扉が僅かに動いた。
『邪魔するな!』
シフォンの声に扉が屈したのか、扉は完全に開いた。その勢いで彼女が倒れた。
慌てて、ボルドーは取っ手から手を離して、床とシフォンの間に割って入る。
一瞬、意識を失ったのか、床に倒れた状態でシフォンを受け止めていた。
「大丈夫か?」
『当たり前でしょう。では、光を見に行きましょう』
シフォンは素早く立ち上がって、こっちに手を差し出した。
「態度デカイよ」
『当然でしょう』
シフォンがいつもと同じように不敵な笑みを浮かべる。
トリエステを出て、衛星の地表へと辿り着いた。
図鑑で見たような茶色の岩石だらけで無愛想極まりない風景が続いている。
虚空を見上げれば、目的だった太陽は既に地表の彼方に沈んだのか、この位置からでは見えない。おまけに辺りには細かい岩石が霧のように漂って視界が良くない。
まるで黒いキャンバスに砂をこぼしたようだ。
『折角、辿り着いたのに。スターダストが酷いわね。これだから、ボルドーは』
「失礼だな。時間を食わなければ、間に合ってた」
憎まれ口につい反応して、また、自己嫌悪に陥る。
「それより、大丈夫か?」
シフォンがこちらの話を聞いていない事に不安を覚えたがその視線の先を辿るとスターダストの合間を縫って、他の衛星が月のように、半月の状態で輝いていた。
『月って自分では輝けないのに……こんなに美しいのね』
生まれて初めて本当の光を、月光浴を行なうシフォンは感動して心を奪われていたのか、身じろぎ一つしなかった。
そして、こちらに振り返って宣言するように告げる。
『……わたくし、生きるわ。例え、残された時間が僅かでも……まあ、わたくしの場合、太陽の光を浴びなければ、まだまだ大丈夫だから、一年や二年で死んだりしなくてよ』
ボルドーはここに至ってようやく騙されていた事に気付いた。
[了]