心のリセット
彼と知り合って、初めて別々に生活していた大学のあの頃はある意味貴重な思い出だ
私と彼が意識してお互いに近づこうとしなかった日々だから・・・
みんなから彼への誕生日プレゼントのかばんを、彼は大学を卒業するまでずっと使っていた
扱いが雑だったから、最後のほうはもうボロボロになってしまっていたけど
でも、どうしてあの時、あのかばんを選んだのが私だってわかってしまったんだろう
そんなことを考えていたら、仕事の手が止まってしまった
いかんいかん
今日は講演会だからできるだけ早く仕事を終わらせないと・・・
昨日、メールをもらって当日、会場の前で待ち合わせた
仕事がおしていたので少し遅くなる
会場の入り口のところまでかけていくと彼が他の人と話しているのが見えた
彼の会社の人なのだろう、顔を合わせるのはちょっと気まずいので、なんとなく歩みを緩める
そのうちに彼が気がついて手を上げる
話していた人が私をチラッと見ると「それじゃあ」と行って先に会場に入っていった
「お待たせ、仕事がおしちゃって」
「いいって」
にこやかに笑った彼の顔を見ると、彼と初めて出会う人間は大抵彼に好印象を持つだろうな、と改めて思う
整った顔立ち、異性からの警戒心をなくしてしまう中性的な目、すっきりした体つき、
感情の起伏もそんなにないし、なんでもそつなくこなせる
でも実は理系で合理的でマイペース
相手に気を許すと、結構なんでもはっきりしたことを言うしわりと強引だから、仲良くなればなるほど相手の人はいろんなことに巻き込まれることが多い
大学のあの頃、毎日泣きはらしながら彼を避けていたのも
もとはといえば、彼の高校卒業前に発覚した、傍若無人ともいえるあの行いのせいじゃないか、と今からならわかるんだけど、当時は自分の気持ちばっかり優先してて気づけなかった
会場の中はかなり広いが、始まる時間が近づいてきたせいか、どんどんに入が空いている席に座っていく
席を探している間も、彼にあちこちから声がかかるし、彼も目が合うと挨拶しているからなかなか思っていた席につけない
あいさつを交わす度に相手からちらっと私は見られているので、軽く会釈しておく
席についても彼の近くに座った人がどうやら彼と親しいらしく、意味ありげな視線を送ってくるのがどうも気になってしかたない
彼は得意のポーカーフェイスで私がここにいるのが自然というような顔で平気な顔をしているので、合わせて気にしないようにしていたが内心はひやひやだ
私にポーカーフェイスは難しい・・・
そのうちに照明が暗くなって会社の役付けの人の挨拶があり講演が始める
この講演をしてくれたのは建築家で世界のあちこちに彼の作ったものがある
家やビルばかりではなくて、自然をとりいれた大掛かりな施設などもあるのだが
驚いたことに無駄な配慮だと感じたものはどんどんそぎ落としていくので
その分、手をかけないと生活できないような部分ができる
例えば、昔の京都の家のようにトイレに行くために一度屋外にでなければならなかったり、台所が土間でできているから一度靴をはかなければならなかったり・・・
斜面の土地を生かしたできた家だから家の中も階段が多かったり
その他にも自然と一体化した家だから毎日のように緑の植物の世話をしなければならなかったり・・・
それをもちろん欠陥だ、と不満に思う人は彼の作品には向かないが
その不便さに愛着を持ち、手間をかけることにひそかな喜びを感じる人にはとても向いている
建築家はそんな大胆で豪快な自分の作品をスライドで紹介しながら
その建物をつくったきっかけや建物の特徴や、その後どういう風に扱われているかなどを笑いを取ったり、真面目に考えさせたり、いろいろな手法で私達に説明する
そしていつも、その作品を語るその建築家の口調には自分の作品に対する愛情がにじみ出ている
学生の頃は、こんな彼の作品にあこがれて度々彼の建築したものを見に行ったり、彼の著作を読んだりしていた
必ずどこか不完全な部分がある存在
その不完全な部分を個性だと認め、むしろ親しみを感じ、共存する
自分自身もそうなりたいと願った
シンプルに生きようと、どこもかしこもとりつくろうことをせず
自分に自然体でいたいが為にそんな自分を外にさらけだす
でも、日本にいて、こうやって社会に出て働き始めると、どうやったら円滑に仕事が進められるか、どうやったら、効率的になるだろうか、そして面倒をかけないでいられるだろうか、そんなことばかり考えてしまう
服装や化粧や振る舞いも、浮かないように、無難であるようにと、気遣ってしまう
言葉も態度も相手に対するスタンスも全てある程度まででよっぽどでないと踏み込んでは行かない
そしてまた逆にそんな個性を持つ人ががたまにいたとしても、その人を暖かく見守ることができないくらい自分に余裕もなくて・・・
そういう没個性が『大人になること』なんだってどこかで考えていた
そういった私の心に溜まっていたしこりのようなものを今日の講演会は洗い流してくれたように思う
学生時代の冴えた感覚が私の中に戻り
今の現実にきちんと向き合おうという力がみなぎったように思う
「相変わらず、良かったよね」
講演が終わって席をたつ
「なんかいろいろ考えちゃうよね」
「まあな、その考えはまた後日話し合うとして、ごめん、これからおれ、仕事に戻んないとダメなんだ」
「忙しかったんだ、ごめんね」
私がこの講演会に行きたいだろうからと無理やり時間を空けてくれたんだ
「いや、いいんだけど、実はさ、来週、お世話になっていた英会話教室のほうからセミナーがあるから、誰かつれてきて欲しいって頼まれててさ、一緒に来て欲しいんだけど」
「セミナー?」
「現地に行く人用の、英語でのプレゼン方法とかのセミナーなんだけど、TOEICが550点以上の人向けなんだよ、おまえそれくらいはあったよな」
「一応はね、学生時代のことだけど」
「来週、水曜日か金曜日にあるんだけど、どっちか都合つかないか、合わせるから」
「うーん、水曜が無難かな」
「じゃあ予約入れとくから・・・そうだ、これ」
彼がかばんの中を探る
「これ、ここ来る途中で見つけた」
私にビニールに入った袋を渡す
「うっわぁ、懐かしい、walkersのクリスプだ」
イギリスの有名なメーカーのポテトチップス、しかも大好きなソルト&ビネガー味だ
「これよく向こうで食ってたもんな、スーパー行くと必ずカートに入れてたよな」
「最近食べてなかった、すごい嬉しい、いいの?」
「おれには酸っぱすぎでそんなに得意じゃなかっただろ?返されても困るから」
「ありがとう」
「いや、来週の保険だからさ」
なんてにんまり笑う
その得意そうな顔をみてつい私も笑ってしまった




