天使の語る天使の真実
陽菜の手には小さな鍵が握られていた。それは古びた錆びかけの鍵で、もう何年も使われていない屋上の鍵だった。久しぶりに職員室から持ち出され、何年ぶりかの仕事を行う。
陽菜が錆びついた鍵に苦心しつつ扉を開けると、奥には埃と泥に覆われた屋上が暗闇の中にぽつりと広がっていた。屋上は安全柵に囲まれていた。
誰も来ないのだから、安全柵にだって意味は無い。その事実を否定する様に、羽を広げた天使が安全柵に坐っていた。
「あれが天使」
月歩の呟きが響いた。
陽菜は屋上に出て天使へと近づいた。
すると背後から困惑する声が聞こえた。
「天使? どこにいるんだ?」
まだ見つけられていない健志の為に、陽菜は天使を指差した。
「そこに居るだろ。見ようとしろよ」
陽菜が振り返ると、健志が驚いて眼を見開いていた。
どうやら見つけた様だ。
視線を天使に戻すと、天使がこちらを向いていた。陽菜達と同じ位の年齢に見えた。美人、とは言えない。大きく丸まっこい鼻が印象的な、何とも田舎者らしい垢抜けない顔だった。衣装も西洋の絵画に見る様な純白の衣装では無かった。黄ばんで汚れた、もう何年も洗っていない様な布を纏っていた。ただ背中に生えた翼だけは、己の無垢を誇示する様に真白で、偉大さを誇示する様に大きく広げられていた。
天使は軽やかな動きで柵から降りると、陽菜達に向かって歩いてきた。
慈愛を湛えた笑顔は洗練されていて、息を呑む様に美しく、素地の愚鈍さを消し去っていた。
「まだこの町で私に会いに来くる人がいたなんて」
少女の声を塩で枯れさせた様な声だった。
「私に何の用?」
何の威圧も無い優しげな口調だった。それなのに陽菜は気圧されていた。何か見えない圧力に上から押さえつけられている様な気分だった。
月歩からも健志からも声が上がらない。
ここは自分が食らいつかなければ。そう考えて、陽菜は天使を見据えた。
「飛び降りについて聞きたい」
「飛び降り?」
「今、この町で起きてる飛び降り事件があんたの所為なのかを知りたい」
「うーん、私良く知らないよ?」
「何も知らない?」
「久しぶりにこの町来たらねぇ、あ、そういえば、良く人が飛んでるなぁと思ったかも。でもそれ以上に、私の事見える人が沢山居てびっくりしたけど」
「ちょっと待て!」
横から健志が進み出た。勇んで天使を睨みつける健志に陽菜は道を譲った。
「お前がやったんじゃないのか?」
「何を?」
「お前が俺の妹を殺したんじゃないのか?」
「なんで?」
「お前が、お前が、妹を操って、それで妹が死んだんじゃないのか?」
「操る? そんなの出来ないけど?」
健志はふらついた身体をなんとか持ちこたえて、立っていた。
良く踏ん張った。
陽菜は思わず口の中でそう言っていた。
天使が犯人であって欲しいと願っていた健志には、天使の言葉が凄まじい衝撃だった筈だ。それでも気を保っている健志を見直して、陽菜は健志の言葉を継いだ。
「今、この町じゃ、あんたの姿に憧れて、自分も天使になったって思って飛び降りる奴が沢山居る。それについて、何か知らないか?」
「ああ、それならあれだよ。多分私みたいに天使になったんじゃないの?」
「天使になった? ならなんで、飛べずに落ちるんだ?」
「それは簡単。天使が飛ぶにはね、この世の全てを捨てなくちゃいけないの。そうしないと重たくて飛べないの。当たり前でしょ?」
「全てを捨てるって、裸で飛べって事か?」
「違う違う。そうじゃなくて、周りの色んな物に対する興味を無くすの。あらゆる執着を捨て、身一つで空を駆けよ。我は天狗。連なる空を走る者ってやつだよ」
「執着を捨てる?」
「そそ。きっとその落ちちゃった人は未練があったとか、何かが気になってたとか、だったんじゃない? 最初の頃は何かが気に入ったり、ちょっと集中乱されただけ飛べなくなるからね。きっとその人達も。およよよ、かわいそう」
おどけた様子で天使が言った。背中の羽が強く羽ばたき、見せつける様に浮き上がった。
「天使になった人はいるんですか?」
陽菜の後ろから月歩の声が聞こえた。
「居るけど、この町には居ないよ。みんな墜落して人間に戻ったんじゃない? 最近じゃ、天使になる人なんてほとんどいないしね。まず天使を信じてないし、信じてても天使になろうとしないし、なっても飛べる天使はほとんど居ない」
「天使になるにはどうすれば良いんですか? どうしてみんな天使になったんですか?」
「簡単だよ。胸に抱いた満ち足りない思いのままに、天使に憧れて、天使になりたいって思えば、それだけでなれるよ。あ、その前に実際に天使を見なくちゃいけないんだ。それなら、最初の天使は何だったんだろうね? 気になるなぁ」
くるりくるりと天使は回り始めた。
「うーん、分かんない。なんだか頭痛くなってきちゃった。折角休みに来たのに。私もう今日は別の所に行くね」
「待ってくれ。妹は、俺の妹は」
「もうしつこいなぁ。あれじゃないの? お兄ちゃんが大好きぃって感じで、お兄ちゃんの君に惚れてたんじゃない? その満たされぬ思いから逃れたくて天使に憧れて、けれど兄への恋心を忘れられずに地面に落ちた。わお、いっつらぶろまんす」
「そんな訳あるか。妹は、妹は」
「はいはーい。妹妹うるさいんで終了。もうここには来ない。静かに過ごしたいのに、やんなっちゃう」
天使は大きく羽を撓ませて、力強く振り下ろすと、一気に彼方へと飛んで行った。
陽菜の視界には、泣き崩れた健志が残された。掛ける言葉は思いつかない。もしかしたら心が壊れたかもしれない。
何と言おうか迷っていると、月歩が先に声を掛けた。
「天使の言ってた事は全部本当?」
健志は袖で顔を擦り、振り返った。目は赤く腫れているが、涙は止まっていた。
「ああ。妹が俺を好きだったとかいうの以外はな」
「そう。大体分かったわ。帰りましょう」
月歩が陽菜の手を取り、屋上の入り口へと引っ張った。
「あなたはどうするの? そこで泣いてても良いけど。鍵は置いていくから返しておいて」
「いや、俺も帰る」
健志が立ち上がって、月歩を追った。三人は鍵をこっそり返し、校門へと向かう。
「天使の言ってる事は本当だと思う?」
「ああ、天使の方が昨日の化け物よりよっぽど人間らしいな。あいつはちゃんと素顔だったよ。言ってる事はほとんど本当だ」
「結局、飛び降り自殺は本当に飛び降り自殺だった訳か」
「そう、だったんだろうな。飛び降り事故とも言えるだろうが、どっちにしても犯人なんて居なかったんだ。そう居なかったんだよ。そうだろう?」
「……ええ、そうかもしれない」
「そうなんだ。居なかったんだ、犯人なんて。ホントここ数日無駄な事をしちまったよ」
「どうするんだ? 仇をとるつもりだったんだろ?」
「犯人が居ないなら仕方無いだろ。俺は……日常に戻るさ。妹は居ないけどな」
「そうね。仕方が無いわね。私達も日常に戻りましょう」
「そうだな。ここんとこ、授業に身が入らなかったし」
「いつもの事でしょ」
三人は笑った。笑いながら、三人とも健志の空元気を痛々しく思った。健志本人でさえも気が狂ったとした思えない程に異様な調子の明るさが湧いて出るので、滑稽な道化を通り越して哀れな間抜けだなと自嘲していた。
終始口数の多い健志と校門で別れ、月歩と陽菜は二人きりになった。
陽菜は天使について話し合いながら、月歩が何か思い悩んでいる事を感じ取っていた。
飛び降りの事か天使の事か、健志の事か。
今は聞く気がしなかった。これ以上、悲惨な事を見たり聞いたりしたくなかった。それでも友達を思う気持ちは二人の別れ際に言葉を発した。
「何か気になる事があったら、あたしに言いな」
「うん、ありがと。でも何にも無いよ。もうこの事件は終わったんだし」
「そっか。じゃあ、また明日」
「うん、また」
月歩に何も無いと言われたらそれ以上食い下がれない。
月歩の無表情がどこか悲しそうに見えたのなら尚更だった。