第三楽章:天使見習いが落ちたので
あんたさえ居なければ。
母親がそんな事を言った気がした。もう何度目だろう。繰り返し繰り返し同じ事ばかり言われていると何も感じなくなる。
人間て慣れるもんなんだなぁ、と考えながら俺は正坐をしていた。
顔を張られて口の中が塩辛くなった。顔をやられたのは久しぶりだけれど、顔の痛みもほとんど無い。心も体も、痛み全体に慣れてきているのだろう。
再び母親が何かを言っているがほとんど頭に入って来ない。多分、いつもの通り、お前はいらないだとか、代わりに死ぬべきだったとかそんなところだろうと思う。
けれど聞こえない。昨日までは聞こえていたのに。
もしかして顔を張られた衝撃で耳をやられたのだろうか。耳を澄ませてみると、遠くでサイレンの音が聞こえた。やっぱり慣れきってしまった所為だろうか。
今までずっと日常生活なんて同じ一日の繰り返しだと思っていのに、何も感じなくなる事は無かった。同じ様なものだと思っていた日常が実は変化に富んでいたのかもしれない。
そう思い立つと確かめてみたくなるが、確かめる術は無い。もう俺が普通の生活に戻る事は出来ないだろうし、記憶にある体験はやっぱり同じ様な繰り返しとしか思えない。たった今新しく得た知見で日常を透かして見る事はもう出来ない。
ふと母親の手が赤く染まっている事に気が付いた。
多分、俺の血ではなく、母親の血だろう。
あまり見ていると、目に塩水を流し込まれるので母親の手を詳しく見る事は出来ない。体を動かせば、自分の意志では動かなくなるまで踏みつけられるので、自分の体も確認出来ない。
髪の毛を振り乱して、奇妙な手振りをしながら、身体を躍動的に動かし、泡を吐き散らしながら延々と口を動かし続けている母親の様は、呪いの儀式に見えなくもない。いや本当にそうなのかもしれない。きっと俺の事を呪っているのだ。
そう考えると愉快に思えた。
それで罰されて俺の罪が消えるのならそんなに楽な事は無い。
思わず笑っていたのだろうか。鼻の奥に刺激が来たと気が付いた時には、仰向けに寝転んでいた。
母親の手が俺を抱き起して、もう一度正坐の姿勢にさせてくれる。母親の神経質な几帳面さは俺の正坐にミリ単位の正確さを要求する。母親が思い描く正解図に当て嵌まるまで、母親は俺の身体を人形遊びの様に弄び、正坐の姿勢を整える。その間、母親は俺の耳元で何かを囁いている。いつも通り優しく諭しているのだろうが、やはりそれも聞こえない。
俺はこの時だけ安心出来る。
少なくとも後々に尾を引く怪我をしないで済む時間だから。
病院に行けばすぐにでも入院させられる位、俺の身体は傷んでいるはずだ。多分取り返しがつかない位に壊れている。でも病院に行く気は無かった。きっと理由を尋ねられて、正直に答えれば母親が捕まるだろうし、嘘を答えれば見破られてやっぱり母親は捕まるだろう。
勿論、母親に捕まって欲しくはない。それだけでなく入院させられれば身動きが取れない。今、飛び降りの数は減り続けている。いつ止まってしまうか分からない。止まったら多分犯人は逃げおおせるだろう。それだけは認められない。
だから幾ら壊れても動かなくなるまで病院に行く必要の無い、この痛みの感じない体になったのは幸いだった。
俺の態勢が気に入ったのか、母親は再び呪いの踊りを踊り始めた。そろそろかなと思っていると、案の定掛け時計の鐘が鳴り、夕食の時間がやって来た。母親は重そうに夕食を抱えてきて、俺に一掬い浴びせた後、俺の口の中に思いっきり夕食を流し込んだ。
苦い。不味い。臭い。
まだ味覚と嗅覚は慣れていないらしい。むしろこちらの方が先に慣れて欲しいなと思いながら、流し込まれる夕食を流れに逆らって吐き出そうとして、流れに負けて更に押し込まれ、それを吐き出そうとしてやっぱり流れに負けるというのを繰り返し続けた。
初めの頃に感じていた息の出来ない苦しさなんかはもう感じなくなっていて、随分楽になった。
ようやくバケツの中に入っていた夕食が無くなって、母親が再び俺を呪い始めた頃に父親が帰って来た。今日も遅かったなと思いながら、俺はじっと母親を見ていた。
父親の気配が俺達の居る居間の扉を開けた。視界の端に哀れみを浮かべた父親が映った。父親は母親の呪いの踊りを見たくないらしい。母親が踊り始めてから、帰りが遅くなった。見たくないのなら帰って来ないなり、ここを覗かないなりすれば良いのに、哀れそうに俺の事を見て、そして何も言わず、何もせずに自室へと引き上げる。
あるいは責任を感じているのかもしれない。もしかしたら機会を窺っているのかもしれない。
まあ何にせよ、父親が踊りを止めようとすると、母親は途轍もない力で大暴れして俺の首筋に刃物を突きつけるので、この先、父親が踊りを見ないで済むには、俺か母親のどちらかが居なくなるしかないだろう。
やっぱりいつも通り、父親の姿が見えなくなって、俺はまた目の前の変てこな踊りを眺めつづけた。特に考える事も無いので、ぼんやりと今日の事について考え始めた。
今日はかなり確信に近付いた。
出会った二人は中々信用できそうだが、まだ分からない。あの優しかった母親がこうなったのだから、あの二人だって何時変質するか分からない。何とかあの二人を利用して明日もまた犯人へ近付けると良いのだが。
もしも……もしも妹を殺した犯人を捕まえて、母親の前で3階の病室から突き落とせば、母親は元に戻るだろうか。
無理だろう。妹は戻って来ない。
母親に必要なのは妹だ。
なら俺は何で犯人を捜しているのだろう。
母親の為ではない。父親の為でもない。妹の為だろうか。それも何か違う。
いよいよ犯人を見つけられるかもしれないという今になって、実際に犯人と出会う場面を想像してみれば、見つけた瞬間で止まってしまい、決して殺す瞬間は思いつかない。
どうやら俺は復讐しようというのではなく、犯人をただ見つけたいだけらしい。
俺の為にだろうか。それもまた理由が分からない。
俺は犯人をどうしたいのだろう。殺したいのか、謝らせたいのか、見てみたいのか、何もして欲しくないのか。思考は鈍く霞んでいて、答えは出せそうにない。
仕方が無い。目の前で母親が滑稽な踊りを踊っているんだから。