天使を見た幽霊
「よう、月歩。生きとっと?」
月歩が玄関を開けると、陽菜が爽やかな笑顔を見せた。
結局、陽菜が退院するまでに一週間掛かった。だが、陽菜は入院している間も元気に歩き回っていたので、本人が言っていた通り怪我はすぐに治ったのだろう。それでお見舞い目当てに入院を引き伸ばしていたというのは、我が親友ながらと月歩は呆れてしまう。
「退院して早々、家にも帰らずうちに来て、よりによって一言目がそれ?」
「だってー、月歩ったら全然お見舞いに来て下さらないんですもの。あたい寂しくてー」
「その奇妙なしな作るの止めなさい」
「いやー、でも実際心配でさ。親友の月歩なら毎日でも来てくれると思ったのに、なんでかなーっと」
「別に。ただメロン買うお金が無かっただけ」
「ああ、お見舞いの話を根に持ってたの? 何を、あたしとあんたの仲じゃん。手ぶらで良かったのに」
「そんな事言って、行ったら行ったで物が無いならあれしろこれしろって言ったでしょ?」
「まあね」
歯を見せて笑う陽菜を見て、月歩は溜息を吐いたが、ふと気が付いた。
「心配っていうのは、もしかして私が飛び降り自殺でもすると思ったの?」
「ふふん、そうだよ。月歩って目を離すとどこかに飛んで行っちゃいそうでしょ?」
「そんな事無いけど……私はむしろ陽菜の方が心配だったけど」
「私が? なんで?」
「世間じゃ、飛び降り自殺の起点はうちの高校の集団自殺って話だけど、あの病院の自殺の方が先でしょ? もしかしたら同じ病院にいる陽菜もって」
「そもそも自殺でしょ? 別に同じ病院とか関係ないと思うけど」
「私は自殺じゃないと思ってる。上がって」
陽菜の観察した月歩の眼は、いつも通り深く暗い沼の様だったが不思議と輝いて見えた。その眼差しに違和感を持ったがその正体は分からない。
どうせ話す中で分かるだろうと陽菜は疑問を打ち切って、月歩に促されて家へと上がった。何度も来た事のある御馴染みの廊下を通り、いつも通りの階段を昇って月歩の部屋に入ると、そこは見慣れた質素すぎる部屋だった。徹底的に無駄と色を省かれた部屋には、茶色と白と黒しか無い。家具も無く、小物も無く、窓とカーテンと電灯とふすまと壁紙だけがそこにある。
「お前の部屋は相変わらず色気と言うより、人間味すら無いな」
「片づいてた方が良いじゃない」
月歩が淡々と襖を開けて押入れから折り畳み式の丸テーブルを取り出した。部屋の中央にテーブルを広げ、その傍に陽菜が坐った。月歩が紅茶を入れに部屋を出て階段を降りる軋みが、陽菜の耳に聞こえてきた。
手持無沙汰になった陽菜は改めて月歩の部屋を眺め回した。部屋にはテーブルと自分だけで、まるで書割の前で坐っている様な気持ちになる。
月歩の部屋は押入れの中に詰まっている。
テレビや机などの重たい物まで全て襖の奥に仕舞われて、使う時だけ取り出される。陽菜はもう慣れてしまったので微かな諦めを除いては何とも思わないが、初めてやって来た人は面食らうだろう。
再び軋みが聞こえ、紅茶とビスケットの載った盆を持った月歩がドアを開けて現れた。
「あんたが飛び降りた後に誰かがこの部屋を見たら、きっと誰でも自殺だって納得するだろうね」
「なんで?」
「ああ、変な人だったんだなって」
「変な人だと自殺するの?」
「変な人なら死んでもおかしくないかなって思うんじゃね?」
「ふうん。まあ、死んだ後の事まで気にする気は無いけど」
月歩は盆と共に空き缶も机の上に載せた。置かれた空き缶を陽菜が弄りまわし、腰を下ろした月歩はそれをじっと見る。しばらく空き缶と肌の擦れる音が薄ら薄らと流れた。月歩が逡巡する様子を窺いながら、陽菜はひたすら月歩が喋り出すのを待っていた。
「ねえ、陽菜」
「はいよ」
空き缶を力強く机の上に置いて、陽菜は月歩の視線を受け止めた。缶詰からうめき声と文句の声が聞こえたが、陽菜には聞こえないし、月歩は気にしない。
「天使って信じる?」
「どの?」
「どのって……翼が生えて空を飛んでる」
「キリスト教的な?」
「うーん、多分そう……かな?」
「まあ、居てもおかしくないんじゃない? 正直あんたと一緒にそれ以上に訳の分かんないのを見てきたし、今更天使が何なん? って感じだけど」
「そっか」
「何? 見たの?」
「うん、陽菜のお見舞いに行こうとした時に、病院の屋上を飛んでて。陽菜のお見舞いに行けなかったのは、その所為なのもあるんだけど」
「そんな恐ろしい奴だったのか?」
「ううん、そういう訳じゃないんだけど」
月歩は財布の中から十円玉を取り出して、机の上に立つ缶詰にからりと落とした。落とした十円玉を取り出して、再びからりと落とす。
それは月歩の癖だった。
嬉しい時でも悲しい時でも辛い時でも楽しい時でも、何かあると月歩は缶詰の中に硬貨を落す。どんな意味があるのか聞いても、甘い味がするとかなんとか言って、はっきりとしない。多分気分を落ち着かせているのだろうと陽菜は見当をつけている。
心を平静に保つ為の一種の自己暗示。
かつてたった一度だけ月歩が泣き顔を見せた事があった。多分二度と見られないその表情は缶詰に硬貨を入れた瞬間、一気にいつもの無表情へと返ってしまった。その余りにも急な変わり様は、陽菜の心に深く印象付いている。
とはいえ、今の月歩の心が深く沈んでいるというのは早計だ。月歩が缶詰に硬貨を落とすのはいつもの事だし、表情もまたいつもの通り無表情で内心は窺い知れない。
続く言葉が何なのか、陽菜はやや緊張しながらも、普段通りに笑顔を絶やさずに待った。
「陽菜は飛び降り自殺の事どこまで知ってる?」
「んー、見舞いに来た人達の土産話が大体その話題だったからなぁ。まあ、人並みには。うちの高校の集団自殺が最初で、もう町中歩いたらすぐに人が飛び降りて来て、しかも全く原因不明で、なんかうちの高校の先輩が犯人かと思われてたけどそれは間違ってたって事位?」
「うん、大体そんなところ。ただ、そんなそこら中で飛び降りがある訳じゃないよ」
「やっぱり? 道理でここに来るまでに何も見なかった訳だ。まあ、噂話ってのは誇張されるもんだからな」
「如何にも自殺がありそうな高い場所で一日待ってれば人が飛び降りてくる位だって」
「それでも十分多いよ」
「うん、でも意識して避ければ見なくて済む。私も意識して避けて、なんとか死体だけはまだ見た事無いよ」
「もしも自殺じゃなくて殺人なら、そういう場所に近寄らなければ良いって訳だな」
「そう。だから飛び降りを見たい人はみんな高い所じゃなくて、高い場所の近くの低い場所に集まってる」
「酔狂なもんだね」
陽菜は紅茶を啜って上目遣いに月歩を見た。
まだ本題には入っていない。
外堀から埋めて行こうという月歩の考えが透けて見えたが、陽菜はまだるっこしく感じたが、折角迂遠に回り込もうとしている月歩を無視して直接踏み込むのも悪いので、折衷案で出来るだけ近道を作ってやる事にした。
「でも、その割には町中落ち着いてるみたいだけど」
「段々数が減って来たからね。多分あと一週間もすれば収まるだろうって」
「自殺だってんなら数に意味は無い気がするけど」
「まあ、自殺っていうのは、気分の問題って事もあるんじゃない? 警察が自殺だって断定したら、一気に数が少なくなったらしいし」
「うちの高校の先輩が捕まった後のやつね」
「逮捕した訳じゃなかったみたいだけど」
僅かに月歩の指が動いた。
震える様なその一瞬を陽菜は見逃さなかった。この話を掘り下げればいいのだろうと、更に陽菜は話を進めた。
「しかしその先輩はなんで栄養剤なんて配ってたんだろうな?」
「なんか有名な変わった人だったんだって」
「お前が言うか?」
「不思議ちゃんとか電波系とか霊感少女とかって言われる様な人で」
「聞くだけでお腹一杯になる語群だな」
「信者みたいな人がいっぱいいたんだって」
「あー、もしかしてあの人か?」
「知ってるの?」
「ああ、なんかふわふわしてる人だろ?」
「私は見た事無いから分からないけど」
「で、その人が?」
「その人が天使を見られる様になる薬だって言って配ってたんだって」
「なるほどね」
陽菜は口の端を釣り上げて、月歩の眼をまっすぐと見据えた。
天使という言葉は前に出た。
やっと繋がった糸を手繰りながら陽菜は言った。
「つまり月歩はその天使を見て、自分も他の奴らと同じ様に自殺するのが怖い訳だ」
「ちょっと違う」
「ん?」
「その、もしかしたら、私が天使を見つけた所為でみんなに天使が見える様になったのかなって」
陽菜は一瞬意味を捉えかねたが、すぐに病院での会話を思い出して、乱暴に頭を掻いた陽菜は確かに言ったのだ。月歩と缶詰の所為で異常な事に巻き込まれたと。その巻き込む相手を町全体に広げて考えても決しておかしくはない。
「あれか? あたしが月歩の所為で不思議な事に巻き込まれたって話か? まさか見舞いに来なかったのも私に危害が加わらない様に?」
「うん」
「ありゃ言葉のあやだよ。大体天使を見てから自殺するってのも信憑性が薄いし」
「でも、自殺に失敗した人が天使になりたかったからって言ったらしいの」
「だとしても、お前が天使を見たのは女の子が病院で飛び降りた後だろ? あの子が天使の所為でってんなら日付が合わないだろ」
「うん、分かってる。真剣に思い悩んでる事じゃないよ。今までだって事ある毎に私と缶詰の所為って陽菜に何度も言われてきたし」
「そうそう、気にする事無いって」
「でも、もし少しでも私に責任があるのならって」
「一緒じゃねぇか! じゃあ、どうすんだ? 責任とって遺族の前で自殺でもする気か?」
「まさか。私が原因かも知れないけど、私が悪いとは思ってないし。こういう事の責任取ってたら命が幾つもあっても足りないでしょ」
「まさしくその通りだ。いいから気にすんな。絶対に関係ないから」
「でも、事件を解決する事位なら出来るかなって」
「あほか! 結局責任取るんじゃねぇか」
「そんな事無いよ。ただ私が関わってるかも知れないなら、それを収めないと気持ちが悪いでしょ?」
「同じ事だろうが」
そう吐き捨て更に説得をしようとした陽菜だったが、月歩の眼が期待に輝いているのを見て口を噤んだ。
その眼を見てようやく気付いた。玄関先で見た時にはその意味を知る事が出来なかったが、今分かった。
それは不思議な現象に触れたくて触れたくてたまらないという眼だ。
今すぐにでも駆けて行って、その天使とやらに会いたいという眼だ。
単純に喜んでいる訳ではないだろう。沈鬱に沈んでいる様子は間違いなく今回の件に責任を感じていた。それでも、その沈鬱で濁ったベールでは隠しきれない期待が輝いていた。
陽菜は自分にもその期待が宿っている事に気が付いた。月歩への心配で隠されていたが、確かに心の奥に強い期待が宿っている。思い返せば、病室で飛び降り自殺の事を話していた人々にも、被害者に対する哀れみ、犯人や無神経な野次馬達に対する憤慨に彩られて隠れていたものの、類を見ない事件を前にして、サーカスを見る様な好奇心が見え隠れしていた。
とはいえ、すぐさま月歩に同意する訳にはいかない。今はまだ月歩に対する心配が勝っていた。
「大体下手に首突っ込んだら死ぬかもしれないだろ」
「うん、でも私はもう天使を見てるから」
既に天使を見ている以上、いつ自殺してしまうのか分からない。
全く予断を許さない中で僅かでも関わりがあるという事は、次の瞬間には死ぬ可能性があるという事だ。事件を解決しなければ陽菜が大事に思う月歩が死んでしまうかもしれない。
陽菜が月歩を大事に思っている事を知った上で、月歩は自分の命を人質にした。月歩の命を天秤に掛けられたら、さすがに抗えない。
「お前は……魔性の女だな」
「あなたがいつも幽霊みたいだって言うからよ」
「しかしあたしまで死ぬかも知れないのに。酷い奴だな」
「大丈夫。入院してた時は心配だったけど、今日会って確信したから。陽菜は絶対に死なないって」
月歩からの無根拠な信頼はこそばゆく恥ずかしい。同時に爽やかな嬉しさがあった。
思わずにやけた頬をそのままに、陽菜は月歩へ大げさに手を差し伸べた。
「おうおう。お人形姫様にそこまで言われちゃ仕方が無い。渡し守をぶっ飛ばして、果ての地獄に連れてってやるよ」
「その言い方は止めて」
陽菜の手を取った月歩の眼に一瞬影が差した。不思議に対する期待、事件に対する責任、それに加えて自分の死に対する不安もあるはずだ。
沢山の感情を溜め込んだ月歩は、脆く儚く見えた。
いつもは幽霊などと冗談を言っているが、陽菜の月歩に対する本当の印象は少し違う。月歩は陽菜の考える人間という枠からどこかはみ出ていて、何かの拍子に完全に抜け出して見えなくなってしまう。そんな印象があった。それは幽霊の様にはっきりとした異質ではなく、かといって狂人の様にずれているのでもなく、文化や生活の違いでは説明できない程度には理解しがたい。
陽菜は月歩が消えてしまう事を危惧していた。その危惧だけを抜き出した場合に当てはまるのが幽霊だった。いつか枠を突き抜けて消えてしまうそんな印象。それに対して何が出来るか考えれば、二つの選択肢がある。相手を引き留める事と自分もはみ出す事。
陽菜は今回の事件が月歩を連れ去ってしまう可能性があると直感していた。だから必死で止めたのだが、こうなってしまっては仕方が無い。もしも連れ去ろうとする者が現れるなら、常に傍に居て引き留めなければならない。
半ば妄想じみた決意を漲らせていると、陽菜の携帯が鳴った。
陽菜が携帯を取り出すと、陽菜が妄想に熱くなっている間中、缶詰の中に硬貨を入れ続けていた月歩は、手を止めてどうぞと言った。
出ると辞めた筈のバスケ部からの電話だった。後輩が飛び降り自殺を図ったとの事だった。安堵と悲しみの混じった鼻声が、一命は取り留めたと電話口から言っている。連絡をくれた部員に礼を言って、後輩の容体を聞くと、もう喋れるとの事だった。案外怪我は軽いのかも知れない。
後輩への伝言として、後で見舞いに行くという旨を伝えて携帯を切ると、目の前で月歩が興味深そうに陽菜の顔を見ていた。
「うちの後輩が自殺を図ったみたい。怪我は軽いみたいだけど、天使について聞きに行くか?」
「迷惑じゃない?」
「何言ってんだ、あたし達は事件を解決しようとしてるんだぞ。後輩だって喜ぶさ」
「強盗の理論ね」
「お前だって行きたいくせに」
「でも幾らなんでも今日は無理でしょ。日を置いてからにしましょう」
「そうだなぁ。じゃあ、明日行くか」
「もうちょっと後の方が良い気がするけど」
「早く行った方が良いんだよ。つー訳で、今日は泊めてくれ」
「あんたはさっさと帰って、ご両親を安心させたげなさい」