彼女の望む自殺、自殺が嫌な彼女
病室のドアが音も無く滑り、黒い姿がゆらりと入り込んできた。長い黒髪が腰まで垂れ下がり、人の手で塗り上げられた様な真白い肌が黒い制服の間から覗いている。黒髪の影に隠れた、表情の無い美しい顔は時の止まった死人の顔だ。
白昼に現れた幽鬼に動揺して、陽菜は声を張った。
「おい、月歩! 病院でその登場の仕方はびっくりするから止めろ!」
「ちゃんとノックしたのに」
「分かっても怖いんだよ、お前は。もっとバーンと開けて、やっほーって入ってこい」
「嫌に決まってるでしょ、恥ずかしい」
「もっと元気にしてないと、病室にぶち込まれるぞ」
「そっちは入院した割に元気ね」
「大した怪我じゃないしね。さっきから声出す毎に腹が痛いけど」
これだけ元気なら入院する必要も無いだろうに。明るく染まった短い髪に筋肉質な体、患者なのに今にも病院の外へ飛び出していきそうな晴やかな笑顔を浮かべた少女が病室のベッドに座っていた。試合中の事故で怪我をしたそうだが、全くそうは見えない。それに病室という場所がまるで似合っていない。これだけ病院と縁の無い人間もいないだろうに。ベッドに座る本人を目の前にしても、月歩は未だに陽菜が入院している事を信じられなかった。
「ご愁傷様とでも言っておけばいいのかしら?」
「まあ、選手生命って意味では合ってるかな」
「そんなに酷い怪我なの?」
「いや、丁度良い機会だからさ」
「期待のエースでしょ?」
「そんなの入部ん時だけだよ。みんな真面目だから、あたしなんてすぐ追い抜かれたし」
「勿体無い気もするけど」
「やりたい奴だけやれば良いんだよ」
陽菜は抜かれたと言っているが、話に聞く限りでは未だに部内の誰よりも上手いと評判だった。才能があり、人から認められていながら、それをあっさりと捨て去る気持ちは、取り立てて能力を持たない月歩には理解出来ない。優遇される立場に甘んじていれば、色々と上手くいくだろうにと、他人事ながら残念な気持ちになった。
「まあ、今回の事で色々と良い事があったしね。見ろよ、これ」
陽菜が指差した先には雑多に物が積まれていた。全てお見舞いの品だ。陽菜が贅沢にも使っている個室は、病室か物置か分からないという有様だった。
「まー訳の分からん物も多いけど、友人知人知らん人から色んな物貰っちゃって。で、月歩は何持ってきてくれた訳?」
陽菜がおねだりの形で両手を突き出して来たので、月歩は呆れながら袋に入った蜜柑を手渡した。
「……蜜柑?」
「そう」
「そんだけ?」
「そう」
「無いわー。それは無いわー。果物ってだけでべた過ぎるのに、その上蜜柑とか。せめてメロンとかそこらを」
『ほらね』
勝手な事を言う陽菜に缶詰が同調した。月歩が鞄の上から缶詰を叩くと、陽菜は目ざとく聞いてきた。
「何? 缶詰も来てんの?」
「うん、どうしても来たいっていうから」
『お土産は持ってきてないけどね』
「お土産は無いけどだって」
「缶詰に土産なんて期待してないよ。来てくれただけで嬉しいって」
『どういたしまして』
「私も来ただけで喜んでよ」
「えー、蜜柑食べさせてくれるんなら良いけど」
月歩が溜息を吐きながら蜜柑を剥いて一粒を突き出すと、陽菜は楽しそうに咥えて飲み込んだ。缶詰は呆れた口調で子供みたいねと言った。
月歩が持っている缶詰は喋る。月歩にしか声が聞こえないので、本当に喋っているのかは分からない。あるいはただの妄想かも知れない。人に言えば笑われ、ともすれば心配される様な事なので、月歩は出来るだけ秘密にしている。知っている人は陽菜だけだ。
月歩がまだ小さかった頃、缶詰が喋る事を喧伝していた時に唯一信じてくれた女の子。月歩とはまるで性格が違うけど、月歩にとって唯一人自分の秘密を知る親友。後は軽薄と言うか、適当と言うか、勝手と言うか、な性格をどうにかして欲しいと月歩は思っているのだが、きっとそれは望みすぎだろうとも考えていた。
「なるほどねー。缶詰と一緒にきてたんだ。道理で」
「道理で?」
「さっき何かあったろ? 外も騒がしかったし、病院の中も慌ただしいし」
女の子が飛び降りた場面を思い出して固まった月歩に気付いて、陽菜は理解の表情を浮かべた。
「お前と缶詰と一緒に居ると決まって変な事に巻き込まれっからな。もう慣れたけど」
『まるで私の所為みたいじゃない。失礼ね』
「で、今度は何があったん?」
「さっき女の子が飛び降りて多分亡くなった」
「見たの?」
「飛び降りたところだけ。死体は見なかったけど」
「自殺かねぇ。病院だし在り得ない訳じゃないけど。しかしあんたは良くもまあそんなもの見て平然としてられるね」
「これでもショックだったんだけどね」
月歩としてはかなり衝撃を受けたし、哀れさであったり、恐ろしさであったりを感じているのだが、表情や声色に変化が無いので他者から見れば何も感じていない様に見えてしまう。
「まあ、そうなんだろうけどさ」
長い付き合いの陽菜は月歩は感情を表に出さないだけだと知っている。しかしそんな陽菜でさえも時たま、月歩の人形の様な外見も相まって、本当に感情を持っているのかと疑問を抱いてしまう。
「怖い物がある時は、月歩の無表情っぷりは安心するんだよね。どう今夜泊まってかない? 両親はいないんだけど」
「襲われたくないから止めとくわ」
大笑いし始めた陽菜を無視して月歩は立ち上がった。
「もう帰るの?」
「元気そうだって分かったし」
「まあね。実際入院する必要も無いくらいなんよ。だから見舞い客が少なくなったら適当に退院する」
「馬鹿じゃない」
扉に手を掛けた所で、月歩は振り返った。一つ、唐突に気になったのだ。
「ねえ、死にたくなった事ある?」
「あるよ」
あまりにも呆気無く陽菜は答えた。その答えは月歩の予想していた答えとは正反対で、月歩は何故だか打ちのめされた様な心地がした。
月歩が内心驚いて何も言えずにいると、陽菜は月歩の無表情を笑った。
「そんな驚く事ないじゃん。あんたはどうなんよ」
「あるけど。まさか陽菜が? それこそ、無いわ」
「誰だって死んでみたくなる事位あるんじゃないの? 面白そうじゃん。みんなどうせいずれ死ぬんだから死なないだけでしょ」
「違うと思うけど」
「死んだ後の事なんてほとんどの人が分かんないんだし、みんな適当に想像してんじゃん。無だとか、天国だとか、地獄だとか。その想像が今の世界よりも良いと思う人は結構居ると思うけどね」
月歩は死後の世界をはっきりと想像出来ない。あやふやな想像が現実よりも良いなどとはとても思えない。
陽菜はまた笑った。
「あたしはこの世界が楽しいよ。面白い事ばっかだし、良い人ばっかだし、月歩も居るし。ああ、赤くなるな赤くなるな。だから私は全力で適当に生きてんの」
「全力で適当って」
「ただね、例えば死後の世界が今の世界よりも良いって分かって、しかもその時にだけしか行けないんなら死ぬかもね」
陽菜は冗談めかしているが、笑いながら言ってのけた陽菜の言葉は何処までも本気だろう。月歩には良く分かった。それでも月歩には陽菜が死ぬ瞬間を想像出来ない。自分の死も陽菜を前にすると想像できない。
自分が死んだ後、陽菜が死んだ後、そんな死後の事について考えて月歩がようやく想像できたのは、墓場に入った自分を陽菜が不敵な笑みを浮かべで引きずり出し、拍子抜けする程簡単に自分が生き返る場面だけだった。
「しかし飛び降りの話は不思議だなぁ。死ぬにしても、死にたいって願わなくちゃ死ねないでしょ? でも、その女の子が死ぬ様な理由があるとは思えないんだけどね」
「死ぬ理由なんて分からないでしょ? 入院してたっていうなら病気が辛かったんじゃない?」
「こんな小さな病院で過ごす病気なんて大した事無い気もするけど。重病なら別の病院に移されるだろうし」
「病気っていうだけで嫌なものじゃない? ずっと外に出られないってだけでも」
「それで死ぬの? 死にたくなるのと、死ぬのじゃ大分開きがあると思うけど」
「それこそ、さっき言ってた様に、その子の死後の世界が魅力的だったとか」
「そんな魅力的な想像を普通の子供が持てるかなぁ」
「ならこの世がよっぽど酷いと思ったんじゃないの? ほら、私達が言えたものじゃないかもしれないけど、子供って自分の周りが全てだと思うって言うでしょ。例えば家族が酷かったりしたら」
「どんだけ酷い家族だよって話だわな」
「何にせよ、さっき言った通り、死ぬ理由なんて誰にも分かんないでしょ。そもそも自殺なのかだって分かんないんだし」
「そりゃそうだ。何か悪趣味な話しちゃったな。しかし……」
「ん?」
「もしその女の子が事故じゃなくて殺人だったら怖いなぁ。泊まってかない? 今日は親が居な」
「あんたなら勝てるでしょ」
月歩は今度こそ扉を開けて外に出た。来た時には気にしてなかったが、陽菜の言う通り病院の廊下に漂う空気には忙しさとは別の慌ただしさを感じる。
「ああ、そうだ。ノートよろしく」
「良いけど、入院してなかったとしてもでしょ」
月歩は背中から聞こえてきた声に返事をしてドアを閉めた。
慌ただしい廊下を歩きながら、月歩は自殺について考えていた。
自殺するには何か理由が必要だと陽菜は言っていた。死ぬ事に理由がいるのなら、生きる事にも理由がいるのではないだろうか。
陽菜は楽しいから生きていると言っていた。私が生きる理由も楽しいからだ。けれどいつか楽しさは無くなってしまうかもしれない。陽菜は生きている事に強い楽しみを見いだしている。陽菜の性格的に多分その楽しみは尽きる事が無いだろう。
けれど私はきっとそうじゃない。飽きるか何かして、生きる理由が無くなるかもしれない。今は家族がいる、友達がいる、家庭がある、学校がある、缶詰がある。けれどそれはいずれ無くなるかもしれない。その時に私は生き続ける事が出来るだろうか。
陽菜はずっと傍に居てくれる気がする。けれどそれは単なる願望だ。想像出来ないけどきっといつかは離れ離れになるに違いない。
誰もいなくなった時、私は死んでしまうのだろうか。
「ねえ、缶詰」
『あんたが話すなと言っときながら、話しかけるなんて良い度胸ね』
「缶詰は私の傍から離れたい?」
『離れたいも何も、自分じゃ動けないんだけど』
「離れたい?」
『私の声が聞こえるのはあんただけだし』
「なら他に声が聞こえる人が居たら?」
『そうねぇ……あんたが嫌な奴になったらそっちに付くわ』
「そっか」
外に出る時に、死体の傍を横切らなければならない事に気が付いた。出来る事なら見たくなかった。
月歩は身構えながら外に出たが、既に少女の着地点はブルーシートで覆われ警察が囲んでいた。少女が飛び降りた病室の窓にはカーテンが掛かっていた。当然、少年の姿は見えない。
少年は少女の何だったのか。
少女は何故死んだのか。
死ぬってどんなのだろう。
陽菜は大丈夫だろうか。
取り留めも無く思考を彷徨わせながら帰り道を歩いていると、繁華街の一角が妙に盛況だった。不思議な程人が集まっているので、気になって近寄ろうとした月歩の耳に、飛び降りという言葉が入り込んできた。遠くでサイレンの音が響いている。飛び降りた、男の子が、何故、何が、うわんうわんと頭の中に言葉が反響して体が傾いだ。
見ない様に見ない様に。
月歩は人が集まる一角を避ける為に回り道をした。回り道の先も何か騒がしい。そこにもまた別の人々が集まっていた。