最終章:天使見習いが落ちた訳
天使になりたい。
夕闇に染まった教室で溢れ出た、そんな願望はもう私の中から消えていた。昨日の願望はまるで蜃気楼の様に、渇望は一瞬で、今、こうして公園の高台の上に立っても、飛び立とうという気は起きない。柵の向こうにある虚空への、落ちれば一溜りも無いという恐怖だけだ。
翼も消え、飛び立ちたいという欲求も消え、私は自分が只の人間だと確信できる事にほっと息を吐く。
「飛び降りる気か?」
その思いを切り裂く様に、鋭い声が背後から聞こえた。
振り返ると、健志が険しい表情で私の事を見ていた。
「ううん。私は飛ぶ気ないよ」
「そうか」
息を吐きながら、表情を緩めた健志を見て、私も少し気が楽になった。
もしかしたら、健志は精神を病んでいたり、死を選んだりするかもしれないと心配していた。けれど健志は人の心配をするだけの余裕があり、緩んだ表情は、治りかけた片目の痣以外、元気そうに見えた。
安堵したのも束の間で、私は今回の飛び降り事件が私の所為だったと謝ろうか迷い始めた。
そんな事を言ったら殺されるだろうか。
どうしようかと少し考えてみたが、結局言う事にした。
死ぬ事も嫌だったが、黙ってるのも嫌だ。
「ごめんなさい。あなたの妹さんの事は私の所為だったみたい。私が天使を呼んだからこんな事に」
「そうなのか。でも、いいさ。誰の責任でもない」
健志の諦観した様な微笑みはここ数日見てきた彼の表情とはまるで違う。きっと事件が終わった事で心境に変化があったのだろう。あの追い詰められた様な必死さはやはり健志の素では無かったのだ。
良かった。
あの張りつめた状態を続けていたら、きっといつか心を病んでしまう。
「それにな、妹の事は俺の所為だ」
その言葉に疑問を感じると、健志は答える様に言葉を接いだ。
「妹が飛び降りようと、いや、飛び立とうとした時、俺は妹に声を掛けたんだ」
その言葉を皮切りに、健志の被っていた仮面が剥がれ落ちた。
始めは眉を顰めただけだった。
それが段々と悔しげに、顔が皺くちゃになっていって、最後は涙を流し始めた。
「俺はあいつが飛び立つ時に名前を呼んだんだ。それで落ちてったんだ。天使が言ってたろ? 何かを気にしたり、未練があると落ちるんだって。あの話を聞いた時、もしかしたら俺の所為でって思ったんだ。でも信じたくなかった。妹の周りには沢山の良い人達が居るから、きっとそれに未練を感じたんだって思おうとした」
涙の量は増え続け、頬から零れ落ち、地面に黒い染みを作っていった。
まるで血の様だ。
洗い流される前の自殺現場の跡を思い出した。
「でも出来なかった。母親に何度も言われたよ。俺の所為だって。気が付くと死んだ妹にも言われてた。やっぱり俺の所為だったんだ。俺が声を掛けなければ、そうすればきっと妹は空を飛べたんだ。それなのに」
ああ、壊れてしまったんだ。
そう思った。
もしかしたら出会った時から壊れていたのかもしれない。
妹の死に縛り付けられ、健志は多分正常な思考を失っている。
私が何かを言ったところで無駄だろう。
実の妹から掛けられた強烈な言葉を上書きする事は出来そうになかった。
「あんた達に会えて良かったよ。あんた等は良い奴等だ。妹の周りに居た人達みたいにな。それにもし、あんた等に会えなかったら、俺はきっと妹の死を勘違いしながら、安穏と生きてた。だからそれを気付かせてくれただけで、感謝してもしきれない」
健志は涙を流しながら、私の横を通り過ぎた。
点々と涙の道が、高台の切れ目へと作られていく。
「飛び降りる気?」
私が振り返ると、健志は首を振っていた。
「羽が生えたんだ。天使になりたいんだよ」
「どうなるかは分かってるでしょ?」
健志は答えずに、進んでいく。
「誰の責任でもないって言ったじゃない」
「そうだな。だから別に妹の仇打ちって訳じゃない。妹が出来なかった事を俺が成し遂げてやりたいんだ」
「間違いなくあなた落ちるわよ」
「分からないだろ」
「だって屋上で天使を見られなかったじゃない。あの時、天使を見たくないと思ってたあなたが、天使になれるとは思えない」
「あの時は俺が自分の罪から目を背けようとしてたんだ。心の何処かで天使に会ったら、俺が妹を殺した事に気が付いちまうって思ってたんだ。今なら大丈夫。この世界に未練なんて欠片も無い」
「そんな事無いでしょ。あなたは妹さんに縛られてる」
健志の足が止まった。
けれどまた動き出す。
「そうかもな」
「なら無理よ。止めときなさい」
「それでも俺は飛びたい。飛べる気がするんだ」
健志は高台の切れ目に立って、こちらを振り返った。
涙は止まり、晴れやかな笑顔を浮かべている。
健志に言わせれば、それは笑顔の仮面を付けているのだろう。
「悪いな。本当は一人で勝手に飛ぶつもりだったんだけど、最後に誰かと話をしたくなったんだ」
「言っとくけど、憶えとく気は無いわよ」
「それでも良い。ただ、俺自身が吐き出したかっただけだ」
「勝手ね」
「悪い」
健志が再び崖に向き、下を覗き込んだのを見て、私は聞いた。
「止まる気はないのよね?」
「ああ。何度か思い直したんだけど、高い場所に来る度に飛びたくなるんだ。一度、二階から飛び降りて足を怪我したんだけど、それでもまだ気が済まないみたいだ」
「完全に死ぬつもりじゃない」
「かもな。でも飛ぶ気だ。天使になりたいんだ」
説得できない。
健志は天使になる事を言い訳にして、自殺をしようとしている。
多分、もう天使なんて関係なく、ただ死にたいだけに違いない。
止める術がない。
その場しのぎで止めても無駄だろう。
死んでしまった妹さんの声を聴く程、健志は壊れてしまっている。
きっと今止めても、またすぐに飛び降りる。
私に止める事は出来ない。
私はそう思って、背中を向けた。
「人が死ぬところなんて見たくないから私は帰る」
「ああ、悪い。もう一人の方にも礼を言っといてくれ」
「私は遺言なんて伝える気は無いから。自分で伝えなさい」
「悪い」
私は歩き出した。
けれどどうしても後ろが気にかかる。
何か止める手立ては無いだろうか。
そう思って振り返ると、健志は消えていた。
その意味を理解して、私は追いたてられる様にその場から駆け出した。
次の瞬間、崖の下の方から悲鳴があがった気がした。
私は一刻も早くその場を離れる為に、全速力で駆けた。
○ ○ ○
「あ、月歩!」
走っている途中で横から声を掛けられた。
見ると、息を切らした陽菜が立っていた。
「良かった。大丈夫か?」
「どうしたの?」
「いや、何でもないんだけど」
「もしかして健志君の事を追って来たの?」
「見たのか?」
「うん。でも、もう遅いよ」
「そうか」
二人で息を整え合わせながら、高台へ伸びる遊歩道を下って行った。
陽菜は言った。
「この公園で健志を見つけたんだ。話してみたら天使になりたいなんて言うから止めようと説得してたら、いきなり走り出して逃げちまって」
「健志君、ありがとうだって」
舌打ちをした陽菜だったが、驚いて私の顔を覗き込んできた。
思わず後ずさると肩を掴まれて、引き寄せられた。
「あいつと話したのか?」
「うん、少しだけ」
「いいか。あれは止めようがなかった」
「え、う、うん」
まるで私の心を見透かしている様だ。
さすがだなぁと思って頷くと、陽菜も頷いた。
「まあ、そうは言っても、どうせ止められたかもとか気に病むだろうから予め言っとくが、止められなかったのはあたしも一緒、それなら責任はあたしと二分だ。いいな?」
「うん、ありがとう」
「やっぱり抱え込んでるじゃねぇか」
「大丈夫」
私はそう言って、鞄の中から缶詰を取り出した。
「ちょっと持ってて」
困惑する陽菜に缶詰を持たせて、私はその中に十円玉を入れた。
すると一気に甘さが広がって、色々な事が溶けて崩れて行った。
健志の事も同様に。
まるで霧のかかった風景の様に薄らいでいった。
私の経験は缶詰に入れられて封をされた。
ラベルから中身は分かるけど、その中身が外に出てくる事は無い。
「これで大丈夫」
「いつも思うんだが、何やってんの?」
「いつも言ってる通り、甘さが広がるの」
「良く分からないんだよなぁ」
陽菜は呆れながら呟いた。
けれど私の沈み込んだ気持ちが浮かんできた事に満足した様で、顔には笑顔が浮かんでいる。
「ああ、そういえば知ってるか? 今日、警察が、自殺は完全に事件性が無いって発表してたよ。社会不安の所為だってさ。それに、飛び降りの数は減っていって、昨日はついに零だったらしい」
「そっか。なら天使がどっかに行っちゃったのかもね」
「かもな」
「その最後を飾るのが健志君か」
「かもな」
ふとした沈黙は陽菜の言葉で直ぐに破られた。
「辛気臭くしても仕方無い。あたし達が思い悩んでもしょうがないしな」
「そうだね」
「じゃあ、他の友達呼んで遊び倒すか」
「良いけど、お酒を飲む気は無いからね」
電話を掛け始めた陽菜を尻目に、私は天使を探して空を見上げた。
当たり前だけど、妹に縛られた少年の天使は飛んでいなかった。
けれど残念だとか悲しいだとか、そういった気持ちは浮かばない。
やっぱりという気持ちだけだ。
今更思い悩んでも仕方が無い。
起きてしまった事は戻らない。
私に出来る事は何も無い。
過去の悲しみを消し去ろうとする私は冷たく醜いだろうか。
そうかもしれない。
けれどそんな私を受け入れてくれる人達が居る。
私は過去を捨てて、その人達と一緒に未来を歩む。
誰に言われようと、私はそうする。
私がこの世界に飽きるその日まで。
天使が落ちた理由は様々だが、全ては過去に押し込まれて、この世界から消え去った。
未来を歩む人間達が振り返っても、ラベルが見えるだけで、中身の味は分からない。
思い描いていた話はすべて詰め込みました。
ホラーかなとちょっと疑問ですが、ホラーだと押し通します。
未熟ではありますが、少しでも楽しんでいただければ幸いです。
何となく不思議な雰囲気を感じていただけたら、してやったりといった感じです。
途中から心苦しい災害があり、そんな大変な中で人が死ぬ話を書くのもどうだろうと悩みましたが、心配するあまり生活を疎かにしても仕方が無いので、書き上げました。
落ち込む様な小説を書いた後で恐縮ですが、みんなが元気になる日が一日でも早く来る事を祈っています。