最終楽章:天使見習いが落ちる訳
放課後にナツさんの居る教室を訪れると、一人の女の子が教室から出てきた。見覚えは無いが、制服から同じ学校の生徒だと分かる。女の子が扉を閉める寸前、「天使になろうとしちゃ駄目だからね」という声が教室の中から聞こえてきた。女の子はそれに頷くと、深刻そうな面持ちで、私には目もくれずにその場から立ち去った。
教室の中に入ると一昨日と同じ場所にナツさんが坐っていた。周りを取り巻きが囲んで、何か談笑していた。私が入ると笑いが止まり、視線が私に集まった。
「あのナツさんちょっと良いでしょうか?」
取り巻きが何かを言う前にナツさんが答えた。
「勿論。みんなはちょっと出てくれるかな」
ナツさんの言葉に従って、取り巻き達は教室の外へと出た。途中、あからさまに嫌悪を向けてきた者が何人か居た。
私が席に着くと、ナツさんは言った。
「それで、どんなご用事?」
「今回の飛び降りについてなんですけど」
「昨日天使に話を聞いたみたいだね」
「知ってたんですか?」
「勿論。私は占いをするんだもん。でも、天使に話を聞いたのに、その上でまだ私に聞きたい事があるの?」
「はい、どうしても気になったんです」
「なになに?」
「どうしてナツさんは嘘を吐いたんですか?」
ナツさんは突然肩を震わし始めた。何かと思うと、ナツさんは楽しそうに小さく笑っている。
「どうして分かったの?」
「ついさっき退院した陽菜の後輩と話をしてたんです」
「うんうん」
「天使になろうとするなってナツさんに忠告されたのに、それを破った事を後悔してました」
「そう、他人の忠告はちゃんと聞かないと駄目だよね」
「ナツさんは近付くなっていう警告を出してたって言ってましたよね? 私達と話をして、それで次からは天使にならないように注意するって言ってましたよね」
「ええ、言った覚えがあるわ」
「でも実際にはずっと天使になっちゃ駄目だって言ってたんですね。ナツさんは敢えて注意を促せば、飛び降りる様に意識を向けられると考えてたんじゃないですか?」
「半分」
「半分?」
「飛び降りるかなっていう期待が半分とそれに打ち克つかなっていう期待が半分。私はね、とにかく相談してくれた人の問題を解決したかったの」
「飛び降りて死ねば解決出来る。天使を退ける心を持ってても解決出来る」
「だから違うんだよぉ。天使になった経験が人を変えるし、天使の誘惑を払いのけても成長出来る。なのに、みんな凄い高さから飛ぼうとするからね、それは本当に誤算だったかな」
「止める気は無いんですか?」
「うん、私は一番の解決法だと思うからね。ただ羽を生やして飛べない事に気が付けば分かるからなと思ってたんだけど、どうやら高い所からなら飛べるって考えるみたいだね。私には良く分からないけど。まあ、仕方が無いよね。残念だけど」
「もう一つ、天使に会った事は無いって言ってましたよね?」
「うん、それも言ったね」
「でも天使は私達の前にも誰かに会ったって言ってました。もしかしてナツさんじゃないですか?」
「どうして?」
「色んな噂を聞いても、みんな天使になりたかったって思うばかりで、天使に会いたいって人は見つかりませんでした。それに、天使に会ったって話も聞きませんし。何となくですけど、ナツさんなのかなって」
「それも正解」
「どうして嘘を吐いたんですか?」
「そんなに怖い顔しないでよ。だって会ったって言ったら天使から聞いた話を話さなくちゃいけないでしょ? 本人から聞いた話を私が歪めて伝えるのも筋違いかなって思って」
「そうでしょうか」
「うん、他人の秘密を洩らしちゃう様な人は信用されなくなっちゃうよ」
「でも」
「ふふ、ごめんごめん。でも天使から話は聞けたんだから良いじゃない」
ナツさんは笑って謝った。友達に関するほんの些細な秘密を隠していた事を謝る様に。一切の罪悪感を持っていない。それどころか自分が正しい事をしたと信じている。
私と見ている世界が違うのではないだろうか。
ナツさんの見える恐ろしげな世界を想像して、私は身体を震わせた。
「それにね、月歩ちゃん達にも成長してもらいたかったの。特に月歩ちゃんと健志君は色々思い悩んでるみたいだったからね。事前に私が話の内容を教えてたら、衝撃が薄くなっちゃうでしょ? 私、推理小説の犯人を人に教える程悪趣味じゃないよ」
「ナツさんは……何がしたかったんですか?」
「だから、みんなの悩みを解決してあげたかったの。悩みを相談されてもアドバイスだけじゃ色々と限界があるからね、実践的な解決方法をなるべく伝える様にしているんだけど、たまたま天使っていう打って付けの存在が居たからね。本人の心の悩みなら天使の存在を知れば大体解決出来るし」
「本当にそれだけですか?」
「本当だよ? 全部、誰かの悩みを解決する為。分かるよ、月歩ちゃんは私が悪意を持って今回の騒動を引き起こしたんじゃないかなって期待しているんだよね?」
「期待してる訳じゃ」
「ううん、しているよ。もしかしたら気が付いてないだけかもね」
「どうして私が期待しなくちゃいけないんですか?」
「だって、月歩ちゃん、自分が原因だったのは嫌でしょ?」
ナツさんの言葉に私は頭の中を思いっきり叩かれた。
気が付いていた事だ。そうじゃなければ良いとずっと思ってた。それでも面と向かって言われると、耐えられない程息苦しかった。
「そんな事」
「月歩ちゃんは不思議を呼び寄せる力がある。それは自分でも分かっているよね。本当なら天使がこんなに長い間、留まっているなんてありえない。そうしたら飛べなくなっちゃうからね。それでも留まっているのは月歩ちゃんがいるから。気が付いていたよね?」
「……私は」
「月歩ちゃんが悪いとは思わないよ? 仕方の無い事でしょう? 月歩ちゃんはわざとやってる訳じゃないんだから。それに今回の事は誰の所為でもないと思うよ。誰か一人が歌い上げたんじゃなくて、みんなで合唱したんだよ。だからね、責任なんて感じる必要は無いんだよ。健志君の妹さんだって月歩ちゃんが責任を感じる必要は無いの」
痛い言葉が耳から入り、私の胸に突き刺さっていく。
どうしてこうも的確に私を抉る言葉を紡げるのだろう。悲しみが膨れ上がりそうになった時、ナツさんは立ち上がった。私が見上げると、ナツさんは優しげに微笑んで私を見下ろしていた。
「だからね、天使になろうなんて考えちゃ駄目だよ」
にこにこと微笑みながら私に手を振って、ナツさんは教室を出て行った。
○ ○ ○
教室に私は一人取り残された。
赤く染まって影の立つ静寂の中で、私は一人考えた。
私の所為なんだろうか。
ずっと考えてきた事だった。私はそれを一度たりとも否定する事が出来ないでいた。
私は昔から不思議に巻き込まれやすい。それだけならまだしも周りにすら影響を与えてしまう。
今回の事件は飛び降りた人の勘違いで出来ていた。その勘違いを産みつけたのは天使だ。ナツさんはほんの些細なきっかけに過ぎず、町中に広まった飛び降り自殺は既にその手を離れている。
なら原因は天使だ。
その天使を呼んだのは誰だろう。きっとその人が犯人に違いない。
それは私だ。
私はそれを否定出来ない。
ナツさんは信用ならない。明らかに私を自殺へと誘導しようとしていた。
けれど私はそれを否定出来ない。
天使になる。
ナツさんが忠告したそれは酷く甘美な事に思えた。
屋上で見た時には天使に魅力なんてほとんど感じなかったけど、今思い返せば美しい羽が私を魅了する。闇の中で恣に己を振るい、飛び立っていった純白の翼が美しい。あの羽が私の背に合ったら、きっと私は何かに憚る事無く、ただ愉悦に任せて生きていけるだろう。
それがとても魅力的に思えた。
気が付くと私の背に羽が生えていた。背中に力を込めるとふわりと風が起きて、身体が軽くなった。何度も力を込めると、その度に羽ばたく音が快く私の耳朶を打った。
掻き乱される空気が私の頬を撫でて心地良い。手を背中に回してみれば、滑る様に柔らかな手触りが私の掌に帰って来た。
何だか愛おしくなって、赤ん坊にする様に撫でさすった、その度に羽は微かに脈打って、まるでそれ自身に命が宿っている様に、私の手を押し返してきた。
白い羽を器用に操り、体の前に持ってきて見える様にした。白い羽が私の髪を押し上げて、絡みつかせ、細く混じった黒いせせらぎがその白さを際立たせていた。
綺麗だな。
夕日を映して、赤く染まった羽は凄絶に美しかった。
私は鞄の中から缶詰を取り出した。缶詰にもこの美しい羽を見せてあげたかった。缶詰が何かを言っているが聞こえない。きっと賞賛を挙げているのだろうと、私は嬉しくなって、外を見た。
窓は開いていた。向こうに夕日が見える。あの赤い星に届けば、私は浮き上がる様に軽く生きていけるだろうか。
考えてみれば、それはとても簡単な気がした。ただ助走をつけて、窓から飛び立つだけで良い。あとは羽がその身を撓めかせて私をあそこまで運んでくれる。
ナツさんの言葉を思い出した。
天使になっちゃ駄目だと言っていた。
ナツさんは信用ならない。
私は急に苛々して、一刻も早く飛び立とうと考えた。
窓は開いている。この高さなら十分に飛び立てるはずだ。絶好の機会を前にして、私は興奮していた。
飛ぼう飛ぼう。
からり。
私の興奮に水を差す様に、固い物が落ちる音がした。口の中に甘さが広がり、それが胸に、お腹に、手足を通って、頭に昇り、私の全身に温かさと甘さが広がった。ゆっくりと溶け崩れる様な甘さが、私の中を実際に溶け崩していった。飛び降りも、天使も、ナツさんも、全てを溶かして、私の喉の奥に流し込んでいった。
気が付くと、私は闇に落ちた教室の中で缶詰に十円玉を落としていた。缶詰が何かをぼやいている。ぼんやりとした頭が、自分は寝てしまっていたのかと結論付けた。
「おはよう、缶詰」
『あ、正気に戻った』
きんと響く様な少女の声に私の頭が揺さぶられ、一気に覚醒した。全てがはっきりとして、自分の居た状況を思い出し、そして身震いした。頭から段々と、ざわめく冷たさが降りていって、私に今更ながらに危機を知らせた。
「私、危なかった?」
『かなり。しようとしてた事も、ぶつぶつ独り言言ってたのも』
「あたしもどこの病院に入れようか迷ったし」
振り返ると陽菜が居た。
「よっす」
私の後ろの席に坐っていた。笑顔で片手を挙げる陽菜を見ると、なんだかとても安堵した。
「何時から?」
「んー、まあ、ずっとベランダの所から中の様子を窺ってたんだけど。教室に入って来たのは、お前が何だかぶつぶつ言い始めて、気持ち悪くなったところからかな」
「どうしてここに?」
「何か無茶苦茶思い詰めてたし、後輩の退院に付き合った時には居たのに、何時の間にか居なくなってたから、まあ、家か学校だろうなと。んで、家に居なかったから、学校に先回りして、校門からずっと付けて来た」
「ご迷惑をおかけいたしまして」
「どう致しまして。さ、帰ろう」
私が頭を下げると、陽菜は立ち上がって、私に手を差し伸ばした。私はその手を取って立ち上がり、陽菜と一緒に家へと帰る。
「しかし、危なかったな」
「うん」
「明らかにあのナツって先輩は月歩の事を殺そうとしてたし」
「うーん、どうだろう」
「何でそこで庇うんだよ」
「多分、ナツさんは本当に悩みを解決しようとしていたんだと思う」
「ふーん」
「実際に私の心も軽くなったし」
「まあ、なら良いんだけどさ。何? やっぱり今回の事は私の所為だとでも思ってたの?」
「うん、まあちょっとは」
「はぁ、まあ終わったから良いけどさ。ずっとはらはらしながら、寒風の中にいた私の身にもなってくれ」
「ありがと」
「どう致しまして」
心の中で何度も何度も繰り返し、陽菜にお礼を言った。
ありがとう、陽菜。
こそばゆいので、心から湧き上がる言葉を全て伝える事は無かったが、代わりに陽菜を後ろから抱きしめた。
「歩きづれぇ」
「んー」
「たく」
為すがままにされてくれる陽菜にまた感謝しながら、私はゆっくりと自分の居る世界の温かさを味わった。嬉しくて涙が出るのを、陽菜の背に擦り付けて、「おい、冷たい」と言って笑ってくれる陽菜にまたも感謝しながら、私は陽菜と一緒に家に帰った。
家まで付いてきてくれた陽菜にお礼を言って別れ、家に上がった。
両親は出かけている様だ。
玄関の寒々しさに幸せな気分が少し削がれて、私は足早に自分の部屋へ行って、缶詰を置いた。
『まあ、今回は何とかなったけど、止めてよ? あんたに死なれたら私話し相手が居なくなるんだから』
そう言って、私を励ましてくれる缶詰にもお礼を言って、一つキスをして、私はカーテンの開いた窓の外を見た。お向いさんに阻まれて見えないが、光に照らされた真っ黒な町並みが広がっているはずだ。
今日もまた誰かが飛んでいるに違いない。
私はそれを悲しく思いながらも、同時に私の幸せが対比され浮かび上がって嬉しくなった。見も知らぬ人の死をあっさりと喜びに変える自分を酷い人間だと思っても改める気は余りない。きっとナツさんよりも酷い人だなと思いつつ、私はカーテンを引いた。
「ねぇ、缶詰。私、他の人が死んでいるっていうのに、私は恵まれてて幸せだなって思ってる。嫌な奴だなって自分でも思うけど、缶詰は私から離れて行っちゃう?」
『だからあんたしか私の声聞こえないでしょ』
「もし他に聞こえる人が居たら」
『嫌な奴っていうのは、私に対して嫌な奴って意味だから、しばらくはあんたと一緒に居てあげるわよ』
私はその言葉を聞いて、もう一度、缶詰にキスをした。