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序章:天使見習いが落ちる時

この小説は「Arcadia」にも投稿させていただいております。

残酷描写という程ではありませんが、人が飛び降りて亡くなる場面があります

 背中の羽はとても軽い。

 ほとんど感じられない重さだけど確かに私の背にそれはあった。


 窓の外は白く塗りつぶされている。

 どこまでもどこまでも、見渡す限りの白さが外を覆っている。

 どこまで行っても窓の外は何も無い。

 何の重石も無い自由が広がっている。


 私の憧れていた自由。

 今、そこに踏み出せる嬉しさに震えながら、私は段に足を掛けた。

 窓は既に開かれて、後は飛び立つだけ。

 もう一歩踏み出し、窓枠に足を掛けて、私は小さく笑った。


 飛び立つ際に声が聞こえた。

 心に掛かるその言葉が誰のものかは分からない。

 そこに誰がいるのだろう。

 心残りを抱えながら、私は翼を広げて飛び立った。


   ○ ○ ○


「よう、美奈」


 そう声を掛けると妹ははにかんで読んでいた本を閉じた。こちらを見る顔も本に載せた手もほっそりとやつれているのはいつもの通りだが、血色だけは常より良い。普段は病室の白さに埋ずもれる程、真っ白だったが、今日は色付いて仄かに明るく浮き上がって見えた。

 何か嬉しい事でもあったのかと、幾分安堵して、買ってきた雑誌を妹に渡した。


「ありがとう、お兄ちゃん」


 臆面もなく言った笑顔に、俺には無い心の清らかさを感じて、そんな妹が何故病院に縛られているのかとやるせない気持ちになった。


 病気に倒れて3年、妹は病室のベッドの上で常に笑顔を振りまいている。両親にも俺にも誰にも弱気を見せずに笑っている。密かに涙を流す所を見なければ、きっと俺は妹の鬱屈とした心に気が付く事は無かっただろう。


 俺が居る事に気が付かずに涙を流す妹を見て、情けない事に俺は自分の存在を気付かれぬ様に足を忍ばせ、その場を離れた。以来、妹の顔に笑顔の仮面が見える。周りに心配させぬ様に、取り繕う安物の仮面。その仮面に気付かぬ風を装う為に、俺も仮面を付けている。妹と俺だけじゃない。みんなみんな、すぐに仮面と分かる安物の仮面を付けている。

 仮面を付けると視界が悪くなるから、他人が仮面を付けている事に気付かない。



 妹の顔を見ていられなくなって、風がそよいでくる窓を眺めた。ベッド越しでは青い空しか見えない。妹のベッドは窓のすぐ近くにあるので、妹なら少し覗き込めば下の景色を見る事が出来る。せめて外の風景だけでもという両親の希望の結果だが、満足に病室の外に出られない身分に、外の景色は残酷だろうと思う。妹は外を見るのは楽しいと笑顔を見せるが、その笑顔はやっぱり仮面の笑顔だ。


 そんな事を考えていると、掛布団がもぞりと動いた。雑誌を読み終わったのかと妹に視線を戻すと、驚いた事に仮面が外れていた。妹はどこか遠くを眺めて、仮面では無い、直の笑顔を浮かべていた。


 俺がその横顔に驚いて固まっている前で、妹はすくと立った。載せていた雑誌がばさばさと落ちた。ベッドのシーツを踏み締める悠然とした足取りは巡礼を思わせた。妹が何をしようとしているのか分からなかった。妹が窓枠に足を掛けた所でもまだ俺は呆然と座っていた。


 やがて助走をつけるでもなく、静かに片足に力を入れて、


「美奈!」


分からぬままに俺は妹の名前を呼び、俺に押された様に妹が窓枠を蹴って、ゆっくりと妹の体が宙に浮きあがり、未だ固まる俺の意識の前で、妹はコマ落ちしたように突然消えた。


 俺の体だけはいち早く事態に気が付いた様で、椅子を蹴り倒して窓に駆け寄っていた。下を覗き込むと、妹がいつも口惜しく眺めていた風景に、赤と白と黒の混じった染みが出来ていた。ぼんやりと眺めていると、虫の様な黒い点が染みで出来た妹に近寄り、黒い円を作り始めた。


   ○ ○ ○


『お見舞いに果物だなんて定番ね。しかも蜜柑とかしょぼい』

「ならどうすりゃ良かったのよ」

『そうねぇ、例えば桃とかをどっさりとバスケットに入れて』

「身内びいきでしょ、それ」


 私は病院の門の前まで来て口を噤んだ。ここから先は人が多くなる。下手に独り言を喋っていたら、私が病院に入れられる。


 私は缶詰に再度念を押した。


「良い、絶対に喋らないでよ?」

『どうせ私の声はあんたにしか聞こえないのに』

「それでも。良い?」

『はいはい』


 私は不安な気持ちで、鞄の中にお喋りな桃の空き缶を押し込んだ。普段の口数を思うに黙っているとは思えない。缶詰の言う通りどうせ私にしか聞こえないんだから、別に気にする事は無いんだろうけど。


 それでも病院という一種神聖な場所で話しかけられ続けるのは嫌だった。居心地が悪いのは目に見えていた。高校に行っている間みたいに缶詰を置いて来れば良かったのだが、何故か執拗に病院に行ってみたいという缶詰に押されて持ってくる羽目になった。


 鞄に触れて、確かに缶詰が収まっている事を確認して、私は病院の敷地に入った。中には三階建ての白い病院が横に大きく広がっていた。過疎化の進む町だけあって病院は古く、ぼろい。見える人はまばらで、そのほとんど老人ばかり。後は親子が少しで、精気溢れる若者なんて全く居ない。それがまた寂しい印象を出している。


 ぼんやりと古い病棟を見上げながら、入り口へ向かう途中、三階の窓に一人の少女が見えた。体は小さく、私よりかなり幼い。


 窓から身を乗り出すなんて危ないなと、中に居るであろう親に非難を憶えていたが、はたと気が付いた。少女は下を覗き込むどころか、窓枠に足を掛けて全身を晒していた。飛び降りと私が思った時には、少女が飛んでいた。


 ちっぽけな体を白いパジャマに包み身体を重力に預けた少女は、人形の様だった。人形が落ちていく様は虚構の様でまるで現実感が無い。現実感の無いままそれは落下して、病院の壁に沿って植えられた低木に隠れて見えなくなった。風に紛れて何か音が聞こえた気がした。それを合図に悲鳴があがり、何処に居たのか沢山の人が低木の向こうに集まっていく。


 私も駆け寄ろうとしたが、途中で止めた。


『見に行かないの?』


 缶詰は鞄の中に居るのに外の事を把握していた様だ。


「黙ってろって言ったでしょ」

『まあまあ、誰も気にしないって。で、見に行かないの?』

「行かない。見たくないし、私が行っても邪魔なだけだし」


 地面に張り付いた少女を見る代わりに、少女が飛んだ窓を見た。ただ下を向きたくないだけで、上を見るのならどこでも良かった。


 少女が飛んだ窓に少年が一人身を乗り出して、少女がへばり付いている辺りを覗き込んでいた。私以外にも少年の姿に気が付いた人が居た様で、飛び降り現場の辺りから少年を問いただす怒鳴り声が響いている。


 怒鳴り声が上がる度に少年の体は叩かれた様に震えている。


 少年の震えは一階からも分かる程で、少年の顔は今にも泣きだして自分が突き落としたと告解しそうだったが、私が病院の自動ドアを潜るまで少年は一言も喋らなかった。

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