セックスを知らない僕が知る最大限の快楽がまさしくこの瞬間だろう
昼休み、教室のざわめきの中で僕らは再びキャプテンの席に向かった。
野球部の誇る硬派の男。そのストイックさは学年でも有名で、部活を休むことも、授業中に寝ることもない。体育の時間には見本のような動きをするし、文化祭では裏方を黙々とこなすようなタイプだ。
「交渉は俺がやる。ニッカ君は横についててくれ」
「わかった」
キャプテンは難しそうな顔で席に座っている。机の上にはや野球の技術書が置かれていた。
「キャプテン、さっきの話だけどさ。」
K君は早速会話を切り出すと、キャプテンの返事も待たずに黄色いノートを彼に手渡した。『羽化』だ。
「何も言わずに、まずはこれに目を通してほしい」
「なんだ、これ?」
怪訝な顔をしながらキャプテンはそれを受け取る。エロい話を期待して、手渡されたのがただのノートならそういう顔にもなるだろう。だが、次の瞬間、彼は目を見開いた。
「…な?」
K君が心配するなど言わんばかりに、こちらを伺うように目配せをした。
『羽化』は決して大作ではない。たかが数千文字程度、ある程度読書に慣れていれば読み進めるのにそれほど時間は掛からない。
キャプテンは今自分が読んでいるものが何なのか、すぐに理解したようだった。
「単刀直入に言うと、」
「待て、話はこれを読み終えてからだ。」
キャプテンは食い入るように、ノートに目を落とす。K君は早く話を進めたいようだった。それもそうだ、ここは昼休みの教室、僕らが会議をしていた男子トイレや放課後に比べて人の目が多い。
K君はキャプテンが警戒しないように昼休みの教室で交渉を始めたが、なるだけ短期決戦で済ませたいのが本音だろう。
だが僕はそんなK君の気持ちは関係なく興奮していた。目の前の男が、周りを気にしなくなるほど集中して僕の小説を読んでいる。
クラスの中で僕なんかより地位の高いこの男が、今僕の作品から目を離せない。見向きもされないモブキャラの僕が今、主人公みたいなコイツを支配している。
セックスを知らない僕が知る最大限の快楽がまさしくこの瞬間だろう。僕は知らず知らずのうちに笑っていた。
「フヒッ………」
我ながら気持ちが悪い。でもこれは、止められるような喜びではなかった。
結局、昼休みが終わるギリギリの時間までキャプテンはノートを手放さなかった。休み時間残り数分といったところで、ようやくキャプテンは口を開く。
「大体察しはついてる。これの代わりに野球のエロ本を見せろって言うんだろう。」
キャプテンは鋭い目をして、K君にノートを返す。
「俺が野球部の部長になってから、どこから聞きつけたかは知らないが、俺にあの本を見せろと言ってくる奴はいた。だが、野球部以外の奴に見せたことはない。理由はわかるか?」
「持ち去られたり、騒ぎになったり。トラブルが増えそうで野球部にメリットがないから、だろ?」
「その通りだ」
キャプテンは腕を組んでそう答える。事前にK君が話していた通り、キャプテンは受け継がれる本を守っている。その噂は真実で間違いなさそうだ。
「そういう奴らはただ、読ませろ見せろって騒いだだけだっただろ?俺達は違う。今日、交渉をしに来たんだ」
K君は黄色いノートの表紙をキャプテンに見せながら、ニヤリと笑った。
「キャプテン、俺達の秘密結社に入らないか?」
「はぁ?何を言ってるんだお前は」
キャプテンはひどく困惑している。何をふざけているんだと言いたげな顔。だけど、僕達は本気だ。
僕も、何か言おうと一歩前に踏み出す。が、
「あー、時間だな。」
そうK君が言った瞬間に、授業開始5分前の予鈴が鳴り響く。
「話は後でだ。部活終わりの6時くらい、裏門で待ち合わせでどうだ」
「キャプテンからそう言ってくれるならありがたいぜ。いいよな、ニッカ君!」
「あ、うん、もちろん」
僕の部活動が終わるのも大体そのくらいだ。結局僕はひと言も話さなかったが、交渉は順調、と考えて良いのだろうか。
「大丈夫さ、ニッカ君。キャプテンは釣れてるよ」
そんな僕の内心を察してか、自席に戻りながらK君はそう言った。
「読者の表情見てただろ?」
「うん、食い入るように読んでた」
鬼気迫る表情で読み込むキャプテンの姿、僕はまた顔がにやける。
「さ、今日の授業と部活は程々にして、夕方に備えようぜ」
「そうだね」
交渉が不安なような、待ち遠しいような。だが僕はそんなことよりも、また新たな読者の反応にふわふわと酔いしれていた。
そうだ、大事なことを忘れてた。僕は結局一言も話さず、大事なことを聞けていなかった。早く聞かなきゃ。そう思うと、放課後が楽しみて仕方がなくなった。




