第5話
村を放棄する日
決まりは、いつも静かに下される。
この村では、鐘が鳴らない日は「安全」だった。
だからその朝、鐘が鳴らなかったことに、誰も違和感を覚えなかった。
違ったのは――
人の動きだけだった。
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「荷をまとめろ」
見張り役の男が、家々を回ってそう告げていた。
理由は言わない。
言わなくても、皆わかっている。
限界だ。
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魔族の斥候は、ここ数日で確実に増えていた。
畑の荒らされ方。
夜の気配。
戻らない狩人。
戦える者は、いない。
逃げるしかない。
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レイン・グレイブは、家の中を見渡した。
持っていけるものは、少ない。
剣。
魔法書。
それだけで、十分だった。
母は、何も言わずに布を畳んでいる。
「……戻ってこれる?」
レインが聞くと、
母は一瞬、手を止めた。
「……分からない」
それが、正直な答えだった。
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村の中央に、人が集まる。
年寄り。
子供。
怪我人。
武器を持つ者は、最後尾。
それが、この村の決まりだった。
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ガルド・ヴァルムは、大盾を背負っていた。
歩くのは、まだ辛そうだ。
それでも、前に立つ。
「……俺が、殿をやる」
「……一人じゃ無理だ」
誰かが言う。
ガルドは、短く答えた。
「一人でいい」
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フィア・ルミナは、レインの袖を掴んでいた。
「……怖い」
「……うん」
否定しない。
否定できない。
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出発は、昼前だった。
村を囲う柵を越え、
一本道を東へ。
抗戦都市へ続く、
生き残りの道。
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途中、獣の声がした。
遠い。
だが、確実に追っている。
隊列が、少しだけ速くなる。
子供が転ぶ。
大人が抱き上げる。
誰も、戻らない。
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「……レイン」
フィアが、小さく言った。
「魔法……使ったほうがいい?」
「……まだ」
声を落とす。
「見つかる」
それだけで、十分だった。
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森を抜ける手前。
――音が、変わった。
枝が折れる。
足音。
近い。
「……来るぞ」
ガルドが、盾を構えた。
逃げる時間を、作るために。
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魔族の影が、二つ。
斥候。
だが、今度は逃げない。
ガルドが、前に出る。
「……行け」
それだけ言った。
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レインは、剣を抜いた。
足が、前に出る。
「……だめ」
フィアの声。
「……ガルド」
ガルドは、振り返らなかった。
盾が、衝撃を受ける。
鈍い音。
それでも、
ガルドは立っている。
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「……行け!」
叫びは、もうなかった。
レインは、歯を食いしばり、
フィアの手を引いた。
走る。
振り返らない。
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しばらくして、音が消えた。
誰も、追ってこない。
ガルドが戻ってきたとき、
盾には、新しい傷が増えていた。
「……終わりだ」
誰かが言った。
村は、
終わった。
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夜。
遠くで、火が見えた。
誰も言わないが、
それが何かは、全員わかっていた。
レインは、目を逸らさなかった。
「……覚えとく」
小さく、言った。
何を、とは言わない。
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フィアが、隣に座る。
「……私、強くなる」
「……うん」
「守られるだけ、嫌」
レインは、答えなかった。
代わりに、剣を握る。
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ガルドが、盾を地面に置いた。
「……いい村だった」
誰に言うでもなく。
「……だから、置いていく」
それが、放棄だった。
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村は、もうない。
戻る場所も、ない。
だが。
前に進む理由は、
確かに――ここにあった。




