第2話
近づいてはいけないもの
魔族の話は、いつも遠くの出来事だった。
夜に聞こえる遠吠え。
帰ってこない誰かの名前。
地図の端に、黒く塗られた土地。
村の外で起きている“何か”。
それが、レイン・グレイブにとっての魔族だった。
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「今日は、外に出るな」
朝、母はそう言った。
声は静かだったが、
いつもより短かった。
それだけで、
レインは剣を握るのをやめた。
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昼過ぎ、村の見張り塔から鐘が鳴った。
一度。
二度。
三度。
――警戒。
村人たちは、慣れた動きで家に入っていく。
扉を閉め、窓を塞ぐ。
誰も叫ばない。
誰も慌てない。
それが、この村の日常だった。
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「レイン」
フィア・ルミナが、息を切らして駆けてきた。
「……森のほう、見ないでって言われた」
「うん」
「でも……」
言葉が、続かなかった。
フィアは、魔法の才能がある。
それは村でも知られ始めていた。
だからこそ、
彼女は“感じてしまう”。
――近い。
何かが、近づいている。
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鐘が、もう一度鳴った。
今度は、長く。
――侵入。
レインの胸の奥が、じわりと熱を持つ。
剣を握りたい衝動を、必死に抑えた。
(……まだだ)
自分は、強くない。
それは、ちゃんと分かっている。
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村の外れ。
畑の向こう。
黒い影が、動いた。
獣のような体。
だが、歩き方は人に近い。
――魔族。
見た瞬間、
レインの体が、言うことをきかなくなった。
逃げろ。
近づくな。
頭では分かっているのに、
足が動かない。
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「……レイン」
フィアの声が、震えていた。
その指先に、
かすかな光が集まっている。
(だめだ)
レインは、反射的に彼女の前に立った。
「……やめて」
「でも……!」
「……見られる」
魔族は、魔力に敏感だ。
そんな話を、本で読んだ。
未熟な魔法は、
呼び鈴みたいなものだ。
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そのときだった。
――ギャアァァ。
叫び声。
畑の向こうから、
村の外へ向かって、誰かが走ってくる。
狩人だ。
血を流している。
魔族の影が、そちらを向いた。
一瞬。
本当に、ほんの一瞬。
それだけで、
レインは理解した。
(……勝てない)
剣があっても。
魔法が使えても。
今の自分では、
何もできない。
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鐘が、激しく鳴った。
見張り塔の上から、
矢が放たれる。
魔族は、舌打ちのような声を出し、
森の奥へと消えていった。
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その場に、
誰も追わなかった。
追える者が、いなかった。
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夜。
村は、いつもより静かだった。
誰も、魔族の話をしない。
それが、生き延びるためのルールだ。
レインは、家の隅で剣を握っていた。
手が、震えている。
悔しさか。
恐怖か。
どちらでもあった。
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「……ねえ、レイン」
フィアが、小さな声で言った。
「私、何もできなかった」
レインは、首を横に振った。
「……それでいい」
「え?」
「……生きてる」
それだけで、今は十分だった。
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眠る前。
レインは、魔法書を開いた。
いつもより、文字が目に入ってくる。
魔力の流れ。
術式の構造。
そして、ページの端に書かれた一文。
剣と魔法は、同時に使うものではない。
それを破ろうとした者は、皆、壊れた。
レインは、そっと本を閉じた。
壊れるかどうかは、
まだ分からない。
でも。
(……このままじゃ、守れない)
それだけは、
はっきりしていた。
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その夜。
レインは、初めて夢を見た。
剣を振る自分と、
魔法を使う自分が、
同じ場所に立っている夢を。
まだ、届かない。
けれど、確かに――
そこにある道。




