『〜四月十二日〜』
三月二十日 晴れ
佐伯と神田の裏通りを歩く。風がやわらかく、街の埃さえ、春の光に紛れていた。彼は少し痩せたようだ。頬のあたりに、何かを拒むような翳りが浮かんでいた。歩きながら、ふと立ち止まり、私に言った。
「自分というものが、誰かの目の奥にだけ、あるような気がするんだ」
その言葉が、風に紛れながら、心の底にそっと残った。私は何も言えなかった。ただ、彼の横顔を見つめながら、どこか遠くのものを見ているような気がしていた。
三月二十七日 曇り
佐伯の部屋を訪ねる。机の上に鏡が置かれていた。彼はそれを見ながら、ぽつりと言った。
「鏡って、揺れるだろう。光が少しでも揺らぐたび、鏡のなかの僕も、形を変えていく。……僕は、そんなものに頼って、自分を見てきたのかもしれない」
彼の声は静かだった。まるで、誰かに聞かせるためではなく、自分の深みに向かって、落ちていくような話し方だった。私はその言葉を受け止めきれず、ただ窓の外の曇り空を見ていた。
四月五日 雨
綾子さんと喫茶店で会う。彼女は佐伯のことをあまり語らなかった。ただ、彼の手紙を一通、私に見せてくれた。
「夜になると、すべてが静かになる。鏡も、僕も。何も映らないそのなかで、ふと、自分がほどけていくような気がする……」
文字は細く、震えていた。綾子さんはそれを読み返しながら、何も言わなかった。私はその沈黙のなかに、彼女の悲しみが静かに横たわっているのを感じた。
四月十二日 晴れ
佐伯が姿を消した。下宿の部屋には、開かれたままの鏡と、誰も座らぬ椅子とが、ただそこに、静かに置かれていた。窓から差す光が、鏡の表面を静かに照らしていた。
私はその部屋にしばらく立ち尽くしていた。春の風が、誰にも届かぬ声を、そっと運んでいた。彼がいた気配だけが、部屋の隅に残っていた。
四月十五日 曇り
綾子さんから便りが届く。「彼の言葉は、誰にも届かなかったのかもしれません」とだけ書かれていた。
私はその一文を何度も読み返した。そして、佐伯がいつか呟いた言葉を思い返していた。
「僕は 本当に 存在しているのだろうか──。僕は自分の声が 誰かの口から響く事だけを求めていた……」
その声は、私のなかで、静けさとともに、かすかに揺れていた。春の終わりの風が、窓の隙間から静かに吹き込んできた。
四月二十日 晴れ
今日は、佐伯の部屋の前を通った。誰もいないはずなのに、ふと、鏡のなかに彼の姿が映っているような気がした。もちろん、それは錯覚だったのだろう。
けれど、あの椅子はまだそこにあった。誰にも座られず、ただ静かに、春の光を受けていた。




