一晩
どれほどの時間が経ったのだろうか。激しい泣き声と、光と血の匂いに満ちた蔵の闇の中で、静は気を失っていたようだった。
静が最初に感じたのは、凍えるような寒さではなかった。むしろ、自分の身体が温かく、強く抱き寄せられているという、場違いな感触だった。
かすかに目を開けると、埃と血で汚れた蔵の床に、自分が横たわっている。そして、自分の肩を抱き寄せ、静かに眠っている若者の顔がそこにあった。
彼の腕には、もはや短刀ではなく、肌理細かな銀色の金属のような、精巧な義手が接合されている。しかし、顔立ちはあの時、道端でナンパと間違えた、憎らしいほど整った顔だ。
静の頭の中は、一瞬にして千代と綾を失った悲劇と、この男への根強い不信感、そして無断で体を抱き寄せられていた恥辱で爆発した。
静は、反射的に空いた方の手で、若者の頬を思い切り平手で打ち据えた。乾いた、鋭い音が蔵の中に響き渡る。
突然の痛みに、若者は呻き声を上げ、飛び起きた。彼は反射的に光の義手を動かそうとしたが、すぐにその手を止め、腫れた頬を押さえながら静を見つめた。
「何をすんだ!いきなり」
「何をするですって! あなたこそ、わたくしの身体に何をしているのよ!」
静はよろめきながら身体を離し、警戒心と怒りで震えながら声を上げた。
「それに、綾さんが、あんな目に遭ったというのに、なぜのうのうと眠っていられるの! あなた、本当にあの悪魔の契約者の仲間ではないのね!」
若者はため息をつき、静の激しい剣幕に慣れたように、ゆっくりと立ち上がった。
「綾さんって誰だよ。落ち着けって。名前は……。いや……静って言ったよな?そうだったな。わたくし、などと、いつまでも上品ぶるのはやめろ。この状況で、お前を襲う暇があると思うか?」
「おおいに」
彼は静の言葉を軽く受け流し、冷静な口調で続けた。
「俺が抱き寄せていたのは、お前があまりに震えていたからだ。それに、あの契約が成立した直後、お前の身体からあまりにも強すぎる不思議な気が放出され、蔵の空気が冷え込みすぎた。お前震えてて凍死するところだったんだぞ、唇は紫色になるし、他に温めるもんもないから最低限の体温を分け与えていただけだ。命救ってやったのにその言い草はないぜ」
若者は光の義手を静かに持ち上げ、その輝きを静に見せた。
「どうですかねえ。少し気を許すとすぐ男って」
「許された覚えねえぞ、いっときも」
「それもそうね」
二人は初めて笑った。
「――説明はしたい。だが、ここはもう安全ではない。お前の大切な人たちを殺した、源兵衛と悪魔の妖は、必ず戻ってくる。一刻も早く、ここを離れなければならない。静、お前の身に何があったか教えてくれ」
彼は真剣な眼差しで静を見つめた。静は昨晩の事を身を切る想いでポツポツと語りだした。堰を切ったように涙が溢れる。
「――辛かったな……。その上でもう一度だけ、最後に本当にもう一度だけ問う。俺を信用しろとは言わねえ。だが、生き延びたいか? 生き延びて、千代と綾の仇を取りたいか?」
若者の真剣な問いに、静は泣き腫らした目で若者を見上げた。千代の血、綾の最期の言葉、そして源兵衛の冷酷な笑みが、彼女の心に刻まれている。もはや、悲しみに暮れている場合ではない。
静は、震える唇を噛み締め、深く、しっかりと頷いた。
「生き延びます。そして……あの男を、討ちます」
「わかった。尽力する」
若者は静の決意を認めると、光の義手を握りしめた。
「俺の名は一刀。この神具を御する者だ。まずは現状を把握する。源兵衛は逃げたが、必ずどこかに痕跡を残しているはずだ。人も動き出した。直日も昇れば更に往来も活発になる。人混みの多い町では迂闊に手出しも出来まい」
二人は荒れ果てた蔵から抜け出し、源兵衛の質屋へと向かった。
質屋の周辺は、静たちが逃げ出した夜とは一変していた。
店先には、明治時代の警察官、いわゆる巡査たちが集まっており、西洋風の制服姿で忙しなく立ち回っている。店は固く閉ざされ、物々しい雰囲気に包まれていた。
一刀は静を路地の陰に引き込み、身を潜めさせた。
「警察が動いている。これは、源兵衛がただ逃げただけではない証拠だ」
二人がそば耳を立てていると、巡査たちの生々しい会話が聞こえてきた。
「……酷い惨状だ。まさか、この質屋の主人を除いて、使用人や家族は、皆息絶えていたとは……」
「まるで一夜にして、血を吸い取られたようだったとか。店主の源兵衛の所在は不明。現場には、妙な粘液の痕跡が残されておるそうだ」
「店主が悪事を働いて、仲間に裏切られたか……」
静は、再び襲ってきた恐怖に息を詰まらせた。源兵衛は、自分の店と家族すら見捨てて逃亡したのだ。彼が悪魔と結んだ契約は、もはや人間的な情など残していない。
「源兵衛は、自分の身の回りの邪魔者を一掃し、完全に異界の存在となって逃走したようだな」一刀は静かに呟いた。
「どうするの、一刀さん。手がかりが……」
「いや、一つ心当たりがある」一刀は、光の義手で静かに蔵の方角を指した。
「お前の家系が長崎奉行として、あの封印の箱を守っていたのは、理由がある。あの箱のような異界の宝は、この時代の混乱に乗じて、他にも、同じように旧幕府の役人や要人の元に散逸している可能性がある」
一刀は静を見つめた。
「源兵衛は、必ず、次の宝を狙う。特に、お前の父親と同じく長崎を拠点とした役人の家系で、似たような守り人の責務を負っていた者がいれば、そこが次の狙いだ」
「次の宝の守り人……」
静の心に、この巨大な災いへの対抗策の糸口が生まれたのだった。




