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逃げる者

その頃、豪商・三浦雪舟の屋敷では、日課となっている酒宴の支度が急ピッチで進んでいた。豪華な料理の匂いが屋敷中に漂い、雪舟の権勢と享楽的な生活を如実に現していた。

屋敷の内外では、一刀たちを取り逃がした用心棒たちが、厳重な警備を敷いて待機していた。

二階の廊下で警備に当たっていた用心棒の一人が、突然、激しい頭痛と吐き気に襲われた。

彼は、他の用心棒には知られないよう、こっそりと赤目から渡された『財宝』の一部を、既に換金し、手をつけてしまっていたのだ。悪魔の財宝は己の欲望のために使ってはならない。その朱色の宝石は、悪魔の『ごう』の残骸が凝縮されたものであり、普通の人間が摂取したり、その霊的な影響を直接受けたりすることは、魂を蝕む行為に等しかった。

「ぐ、ぐぅあ……」

男の身体は、異常な熱を持ち始め、皮膚が黒い樹液のようなもので覆われ始めた。痛みと異形化の恐怖に、彼は低い唸り声を上げた。

悪魔の『業』が、人間の肉体を新たな宿主として選んだのだ。


彼の体は見る間に常軌を逸した魔物へと変貌した。全身を硬質な甲殻に覆われ、手足は長く歪に伸び、口からは鋭い牙が覗く醜悪な怪物と化した。

魔物へと変貌した用心棒は、一人だけではなかった。

赤目から貰った悪魔の残骸を財宝として手にし、既に換金して使ってしまった者、あるいは貪欲に触れていた者は、他にも大勢いたのだ。その『業』の残骸は、人間の肉体を通して、欲望と憎悪を燃料に、急速に増殖を始めた。

屋敷のあちこち、廊下や台所、庭の隅など、場所は違えど、次々と用心棒たちが同じように醜悪な魔物へと変貌していった。彼らの体は甲殻と黒い樹液に覆われ、人間性を失った咆哮を上げた。

変貌した魔物たちは、まず近くにいた元同僚の用心棒たちや、悲鳴を上げる女中たちに無差別に襲いかかった。豪華な屋敷は、瞬く間に地獄の殺戮場へと変わった。


屋敷の奥で、酒宴の準備を優雅に待っていたた三浦雪舟は、外の尋常ではない騒乱に眉をひそめた。

「何です、お客様が来るというのに騒々しい! 一体、何事だ!」

雪舟は、腹を立てた。

しかし、その騒音は、女中や用心棒たちの悲鳴へと変わり、耳を覆いたくなるほどの惨劇の音となって響き渡り始めた。

「キャアアアア!」


「ぐわあああ、助けてくれ!」

雪舟は、流石にただ事ではないと気づいた。

彼は、苛立ちと共に広大な庭へと続く縁側に足を踏み出した。そして、彼の目の前に広がったのは、血と肉片、そして黒い甲殻に覆われた異形の怪物が、人間を貪り食うという、悍ましい光景だった。


そこへ一人の青年がやってきた。兵藤時雨だ。時雨は、一刀たちから握り飯をもらい、飢えから一時的に解放された後、借金取りの目を避けつつ、村長から与えられた任務(三浦雪舟への接触)を果たすべく、豪商の屋敷へと向かっていた。

彼は、屋敷の内側で繰り広げられている血と変貌の惨劇など、つゆ知らず、まだどこか呑気な表情を浮かべていた。

「頼もう!」

時雨は、門をくぐり、庭に足を踏み入れた。既に廊下や庭からは、人の悲鳴と魔物の咆哮が響いていたが、時雨はそれを「賑やかな喧嘩」程度にしか思わなかった。

「なんだか騒がしいな。商売繁盛ってやつですか?けっこう、けっこう羨ましい限りですな」

ちょうどその時、血まみれの包丁を握りしめた女中が、顔面蒼白のまま屋敷の奥から絶叫しながら逃げてきた。

時雨は、彼女ににこやかに近づき、呑気な調子で取り次ぎを頼んだ。

「すみません、三浦雪舟様にお目通りを願いたいのですが、取り次いでいただけませんか?」


女中は、目の前の青年の常軌を逸した呑気さと、背後で迫る魔物の恐怖に、ヒステリックな悲鳴を上げた。

「それどころじゃありません!」

女中は、時雨を押し倒すようにして、外へと逃げ出した。他にも、雪舟の屋敷から逃げ出そうとする人々が、次々と門をくぐり抜けていく。


ようやくそこで、尋常ではない屋敷の様子、そして辺りに満ちる異様な血の匂いに、兵藤時雨は遅ればせながら気づいた。彼は、悪運と不運によって、最も危険な瞬間に、最も危険な場所へと足を踏み入れてしまったのだった。

庭の奥から、変貌した魔物の異様な咆哮が、時雨めがけて、急速に近づいてきていた。

時雨は、目の前の光景を認識した瞬間、本能的な恐怖に支配された。

「うわぁ、やべえ!」

彼は、借金取りからも、騙した女からも、常に逃げ続けてきた人生の経験則に基づき、誰よりも速く、屋敷の門を目指して逃げ出した。他の人々が呆然としている中、時雨の逃走速度は群を抜いていた。

しかし、門に差し掛かった時、彼の耳に微かな音が届いた。

「うぇっ、うぇっ……」

それは、転んで泣き出した幼子の声だった。周囲の大人たちは、己の命を守るため、幼子の存在に気づきながらも、見て見ぬふりをして逃げ去っていた。

時雨は、本能が叫ぶ声に逆らい、逃げようとしていた足を、無理やり止めた。

背後からは、醜悪な魔物たちの咆哮が迫って「あぁ、畜生!」

彼は、己の不運とお人好しな性分を呪いながら、魔物たちが迫る方へ、再び身を翻した。時雨は、幼子を乱暴だがしっかりと抱き上げた。

「おい、坊主! しっかり掴まってろ!」

時雨は、幼子の重みを抱えながら、再び全力で逃げ始めた。

驚くべきことに、変貌した魔物たちは、他に逃げ惑う人間には目もくれず、まるで時雨の存在そのものがターゲットであるかのように、彼一人の後ろを猛烈な勢いで追いかけていった。

時雨自身が持つ何か、すなわち不運を手繰り寄せる類い稀に見る摩訶不思議な能力は悪魔の残骸によって生まれた魔物たちの標的となっていたのだ。時雨は、命の危機と謎の追跡という、二重の不運を抱えて、豪商の屋敷から逃げ出した。









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