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別れ

千代はぎょっとした。

漆黒の暗闇の中に得体の知れない化け物の姿。それが何か認識する前に千代は腕を強く握られ、引きずり出されてしまった。

声をだす間もない。

残された静は呆気にとられた。

階段からは乱暴に何かを引きずり下ろすような音。

そこまできて初めて静は我に返った。


「ズリュ、ズリュ」という粘り気のある音。


静は音の元を辿り、中庭に面した縁側へとそっと歩み寄った。


中庭は、満月の光を浴びて、異様な光景を浮かび上がらせていた。


そこにいたのは、静の理解を超えた存在だった。


巨大なガマ。だがそれは、ただのガマではない。体表は油を塗ったようにぬめり、人の背丈を遥かに超える大きさ。その皮膚にはこぶが隆起し、鋭い歯が生えた大きな口を半開きにしている。月明かりの下で爛々と光る、赤黒い眼。


静は恐怖で息が詰まった。これこそ、父が語っていた、世の中の裏側を蠢くあやかしの類いなのか。


そして、そのガマの化け物が、そのおぞましい口の端で、千代の体を咥えていることに気づいた。


千代はもはや声も出せず、まるで大きな飴玉のように、化け物の口の中で身を捩っている。千代の襦袢が破れ、赤い血が、ガマのぬらりとした皮膚に不気味に滲んでいた。


「あ……」


静は、声を出すことさえできず、ただ震える手で、帯を握りしめることしかできなかった。源兵衛が語った「呪い」の気配が、今、友人の血肉を求める現実の脅威となって、目の前に現れたのだ。


静の恐怖が頂点に達した瞬間、ガマの化け物の背後から、人影がゆらりと現れた。


月光の下に立つその姿は、紛れもない質屋の大旦那、源兵衛だった。しかし、今の彼は、いつもの帳場で算盤を弾く老商人の姿ではない。まるで夜闇そのものから染み出したかのように、その表情は冷たく、異様な力を身に纏っていた。


ガマの化け物は、源兵衛を視界に入れると、一瞬動きを止め、その巨大な口を閉じた。千代を咥えたまま、まるで忠実な番犬のように、源兵衛の足元に頭を下げる。


「おや、おや。こんな場所で、またお会いしましたな、お嬢様」


源兵衛の声は、先ほどの質屋での声よりもずっと低く、そして冷酷だった。彼はゆっくりと静に近づきながら、まるで当然の事実を述べるように語りかける。


「お嬢様は、ご存じなかったでしょう。あの長崎奉行の家の蔵に眠る箱は、単なる財宝ではない。あれは、『結界』。異界のものを封じ込める、蓋そのものなのです」


源兵衛は、中庭に視線を移した。ガマの化け物が千代を咥えたまま、静の方をじっと見つめている。


「しかし、お嬢様は、あの箱を手放すことを躊躇ためらわれました。ご自分の安寧よりも、訳の分からぬ家訓を重んじた。その瞬間、蓋は緩み、封じられたものたちは、こうして都の闇へと解き放たれ始めたのです」


彼は、静を指差した。その指先は、まるで呪詛をかけるように、長く伸びていた。


「さあ、よくご覧なさい、お嬢様。あの友人の血と肉が、あなたの選択の代償です。お嬢様が貧困に怯え、決断を先延ばしにしたそのせいで、無関係の娘が、こうして悪魔と呼ばれる妖の餌食となる」


源兵衛の言葉は、静の胸にナイフのように突き刺さった。


「すべて、お嬢様、あなたのせいだ。あなたの迷いが、この時代の穴を開けたのだ。これからどんどん生まれいずる西洋の妖の類い悪魔どもがこの世を闇に包み、この世の光を全て奪い去っていく」


静は、目の前の凄惨な光景と、源兵衛の冷徹な断罪に、その場で崩れ落ちそうになった。彼が箱に執着する理由は、静の金銭的な苦境につけこむためだけではなかった。彼は、この事態を知っていて、静に箱の処分を迫っていたのだ。


(私が……私が、千代を……!)


恐怖と罪悪感が静の理性を焼き尽くす中、源兵衛の薄気味悪い笑みが月明かりに照らされていた。彼は、静にさらなる選択を迫っている。


「どうなさいますか、お嬢様。箱を手放し、この災いを私に預けますか? それとも、すべてを失い、この混乱の責任を背負って、生き続けますか」


静が、源兵衛の冷酷な断罪に打ちのめされ、膝から崩れ落ちそうになったその時だった。


奥の廊下の暗がりから、音もなく一人の人影が滑り込んできた。それは、静の家が没落してからも、ただ一人彼女の身の回りの世話を続けている、老年の使用人、あやだった。


綾は、中庭の凄惨な光景や、その背後に立つ源兵衛の異様な気配を一瞥しただけで、一切の動揺を見せなかった。彼女は静のそばに駆け寄り、力強くその腕を掴む。


「お嬢様、いけません! 早くお逃げください!」


綾の声は静かだが、鋼のような強い意志が込められていた。彼女は静の身体を掴み、中庭から遠ざかるように、廊下の奥へと引っ張り始めた。


しかし、静は足を踏ん張り、必死に抵抗した。


「待って、綾さん! 千代を! 千代を助けてあげて! 私のせいで……!」


静は涙声で懇願するが、綾の表情は変わらない。彼女は静を見つめることなく、ただ前だけを見て囁いた。


「助けられません。あれは、今の私たちが触れて良いものではない。お嬢様の身の安全が、長崎奉行の家を継ぐ者の責務でございます!」


その時、ガマの化け物が怒りの咆哮を上げた。


「ゲアアァ!」


巨大な体躯が震え、その醜い喉の奥から、濃い緑色の液体が噴射された。それは一瞬にして辺りの空気を硫黄のような刺激臭で満たし、月明かりの下で粘着質な光沢を放ちながら、静たちの立つ縁側へと向かって飛来する。


源兵衛は静に背を向け、愉しげな笑みを浮かべたまま、その攻撃を静観している。


「ほ、ほ、ほ。毒の洗礼ですかな。よろしい、逃げ場はない」


綾は咄嗟に、縁側に立てかけてあった武家屋敷の古い衝立ついたてを掴み取った。それは煤けて黒ずんだ、竹の網代編みに紙を貼り付けただけの、脆い代物だ。


「えいっ!」


綾は静を庇うように衝立を盾として掲げる。


ズビャッ!


毒液は衝立に激しく叩きつけられた。液が触れた瞬間、古びた紙はジュウッという凄まじい音を立てて焼け焦げ、竹の桟が白煙を上げた。一瞬で溶け落ちた衝立の一部から、毒液が数滴、縁側の床板に落ちる。床板は、一瞬で黒く変色し、穴が開き始めた。


綾は毒液の飛沫を浴びたものの、辛うじて静の身体を致命的な攻撃から守り抜いた。しかし、彼女の忠誠心と咄嗟の機転が、静の命を繋いだにすぎない。


「早く! お嬢様、もう一刻も猶予はありません!」


綾は静の手を強く握りしめ、半ば引きずるようにして、廊下の闇の中へと消えていった。中庭には、千代を咥えたガマと、すべてを見透かしたように佇む源兵衛の、冷酷な視線だけが残された。


ガマの化け物は、獲物を取り逃がしたことに怒り、巨体を揺らして廊下の闇へ向かおうとした。しかし、源兵衛は静かに、しかし有無を言わせぬ手ぶり一つで、その動きを制した。

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