旅立ち
静の慰めに、睡蓮の心はわずかに癒やされた。しかし、彼女が課せられた責務と、弟の亡骸への想いが、彼女をこの地から離れることを躊躇させた。
「誘いは嬉しいが、私の務めはこの地の難儀を払うこと。それに、優蛇が眠っているのに、私だけがここを離れるわけには……」
睡蓮は、破壊された母屋の隅に静かに埋葬した優蛇の小さな墓に視線を向けた。その簡素な墓は、彼女の心の枷となっていた。
静は、その墓を見て、「その事なんだけど……」と何かを言いたげに口を開きかけたが、優しさゆえに言葉に詰まり、再び黙り込んだ。
その時、松本が、冷たい現実を突きつけた。
「言いたかなかったが、外、見てみろよ」
松本は、崩れた壁の隙間から、母屋の外を指差した。
睡蓮は、松本に促されるまま、外へと視線を向けた。彼女の視線の先には、村人たちの生き残りが立っていた。
彼らは、組の長や村長が起こした騒動と、その後の蔵の崩壊によって、この家に何が起こったのかを、遠巻きに見ていたのだろう。彼らの顔には、戦闘の意思はなかったが、あったのは憎悪と蔑みだけだった。
彼らは、難儀の源が解き放たれ、村全体に悪影響が及び始めていることを知っている。そして、その原因が、代々『宝』を守ってきたこの睡蓮の家系にあると信じていた。
村人たちは、自らに降りかかる全ての不幸を、睡蓮の無力さと失敗のせいにしているかのようであった。恨めしげに睡蓮を蔑み、憎々しげな視線を浴びせていた。
松本は、その村人たちの視線こそが、睡蓮にとっての新たな難儀であることを知っていた。
「見たか。優蛇の死で、お前とこの家の務めは、終わったわけじゃねえ。それどころか、お前は今、この村の全ての憎悪を背負い込んでいる」
一刀は、静かに言った。
「睡蓮。この地から難儀は消えたが、『業』は残った。君がここに留まれば、君は優蛇の死と村人たちの憎悪に、ただ食い潰されるだけだ」
一刀と松本の言葉は、睡蓮の逃れられない現実を正に指し示すものだった。睡蓮は、弟の墓と、憎悪に満ちた村人たちの視線との間で、究極の選択を迫られた。
静は、松本と一刀の言葉を受けて、この一週間、彼らが水面下で戦ってきた現実を、眠っていた睡蓮に告げるしかなかった。
「あれからね、彼らが毎日のように来ていたのよ。睡蓮を追い出す、出なければ殺すって……。鞍馬と一刀が、その度に追い払ってくれたんだけど、朝に晩に押しかけてきて……」
静は、疲労を滲ませながら語った。
「私が、睡蓮が目を覚ますまでは、どうかここに居させてほしいって、頭を下げて頼みこんで、なんとか今日まで持たせてきたの」
彼女は、守り人として、死守した労い、そして弟を失った事への悲しみと共感が欲しかった。しかし、それも叶わぬ現実。村人たちにとって、この家は難儀の元凶でしかなかったのだ。
静の告白が終わった、その瞬間。
崩れた母屋の外に立っていた村人の一人が、憎悪に満ちた声で、母屋の中にいる睡蓮めがけて叫んだ。
「さあ、睡蓮は目を覚ました! もう、ここに居座る筋合いはないはずだ!」
その言葉には、優しさも同情も一切含まれていない。
「難儀も打ち払えず、村人たちを大勢殺した、その大罪人! とっととこの村から出て行ってもらおうか!」
彼らの言葉は、睡蓮の心とこの家への未練を、最後の一押しで打ち砕くに足る憎悪の刃だった。この場に留まることは、もはや優しさでも務めでもなく、ただの自殺行為でしかなかった。
村人の一人の叫びをきっかけに、外に集まっていた全ての村人が、「出て行け!」「大罪人!」「ここから出て行け!」と、集団的な憎悪を込めて大合唱を始めた。
彼らの心ない、一方的な言葉は、静の懸命な看病と、一刀の励ましでせっかく立ち直りかけていた睡蓮の心を、再び深く、そして残酷に挫いた。彼女の瞳は、再び虚ろな色を帯び始める。
静は、その光景を見て、怒りと無力感に打ち震えた。
「やめてください!」
静は、最初はか細い声で、何度も何度も叫んだ。しかし、憎悪に支配された村人たちは、静の叫びになど耳を貸さず、集団的なリンチのように、罵声の大合唱を続けた。
静の顔に、絶望と怒りが湧き上がった。優蛇を助けられなかった時と同じ、無力な自分と、理不尽な現実への怒りだった。
「やめてって言ってんでしょ!」
その瞬間、静の中に眠っていた守り人としての魂が、怒りの霊力と共に爆発した。
「聞こえないの、この唐変木ども!」
静の叫び声は、ただの声ではなかった。霊力を帯びた、山中を切り裂くような強い響きとなり、母屋の外に集まっていた村人たちめがけて放たれた。
その尋常ならざる、山中を木霊する声に、罵声を浴びせていた村人たちは、一斉に動きを止め、まるで金縛りにあったかのように固まった。彼らは、人間の声ではない、何かの力をその叫びの中に感じ取ったのだ。
静は、霊力を込めた叫びで村人たちを黙らせた後、その怒りの矛先を村人たちへ向け続けた。彼女の声は、もはやか弱さを微塵も感じさせず、守り人としての絶対的な正義感に満ちていた。
「睡蓮の事を悪く言いたければ、言えばいいわ!」
静は、憎悪に固まった村人たちを睨みつけ、真実を突きつけた。
「でも、私たちは知っている! 少なくとも、私たちは知っている!」
彼女の視線は、優蛇の亡骸を埋めた場所、そして気を失った睡蓮へと向けられた。
「睡蓮は、命を賭けて、あなたたち全員の命を守ったということを!」
静は、その場にいる全員の代弁者として、言葉を放った。
「睡蓮が悪魔に立ち向かい、難儀の蓋を封印したからこそ、難儀の源は、この山奥で制御され、消失した。そして、悪魔の契約者たちが滅びた今、村の平穏は保たれている!」
静の言葉は、彼らが目の当たりにした事実だった。
「だからあなたたちは、ここで馬鹿みたいにギャーギャー騒げるの……ですわ! 自分たちは戦いもせず、守りもしなかったくせに!」
静の怒りの声は、理不尽な現実に対する守り人の魂の叫びだった。村人たちは、その強烈な霊力の圧力と、突きつけられた真実に、反論の言葉を見つけられずに、ただ顔を歪ませたまま立ち尽くすしかなかった。
その圧倒的な光景を前に、松本は静を新たな目で見つめ直した。一刀は、静の覚悟が、この地を離れることを決めたことを悟った。
静は、霊力で村人たちを黙らせた後、冷酷な現実と決着をつけるために、外を指差した。
「戦利品よ。そこの宝は、睡蓮からの置き土産。煮るなり焼くなり、好きにすればいいわ」
静は、憎悪の源となっている財宝の山を、村人たちに与えた。どうせ守り人と刀司には何の役にも立たないガラクタなのだから。しかし、少なくとも目の前の村人たちならこの村のために何らかの役に立つ事は明白である。
村人たちは、その途方もない富に目を奪われ、睡蓮を罵ることも忘れて立ち尽くした。
静は、静かに睡蓮に問いかけた。
「さあ、決心ついた? 睡蓮」
睡蓮は、憎悪に満ちた村人たちと、優蛇の墓から視線を外し、静の強い光を見つめた。彼女の目から虚無の色は消え、過去の責務から解放された新たな決意が宿っていた。
「あぁ」
睡蓮は、初めて心からの、清々しい微笑みを浮かべた。
「気持ちいいくらいに」
睡蓮は、立ち上がり、松本が用意した簡素な旅支度を終えると、母屋の残骸から新たな道へと一歩踏み出した。
その時、静が、そっと彼女の前に進み出た。
静は、丁寧に縫い上げられた一つの小さな袋を、睡蓮の手に渡した。袋の布は、優蛇が着ていた着物の一部で作られていた。
「これ……優蛇君の……」
静は、静かに説明した。
「優蛇君の骨の一部を、この守り袋に入れたわ。優しさと正直さを教えてくれた、守り人の証よ」
静は、睡蓮の目を見つめた。
「だから、もうこの地に縛られないで。彼と一緒に、生きて、私たちの新たな務めを全うしましょう」
睡蓮は、その小さな守り袋を強く握りしめた。それは、優しさと悲しみ、そして生きる力を全て込めた、弟との最後の絆だった。
一刀、松本、静、そして新たな覚悟を携えた睡蓮の四人は、背後の憎悪と悲劇の地を後にし、長い旅へと出発した。




