空蝉
一刀が目覚めてから一週間が過ぎた。その間、静の看病と松本の警戒により、二人の刀司はなんとか命を繋ぎ止めていた。睡蓮は、眠り続けていたが、肉体的な傷は癒え始めていた。
そして、ある朝。
睡蓮は、空蝉のように、音もなく目を覚ました。
松本と静は、安堵の息を漏らしたが、睡蓮の様子は異様だった。元々、家の重圧によって虚ろな人物だったが、今はその目が更なる虚無を湛えていた。優蛇の死という絶対的な絶望が、彼女の魂を完全に燃やし尽くしてしまったかのようだった。
睡蓮は、横たわったまま、何も映さない目で天井を見つめていたが、やがて、思い出したように、ゆっくりと、優蛇を探し始めた。
「優蛇……優蛇は……どこに……?」
彼女の声は、魂のない人形のように、かすれ、感情を伴っていなかった。
睡蓮は、身体を起こそうとするが、激しい戦闘と精神的消耗で足に全く力が入らない。
「優蛇……つなぎ、合わせないと……」
彼女は、静の制止も聞かず、血の滲んだ手で床を這い、弟の亡骸が残された岩場へ向かおうと、破壊された母屋の廊下を這い出し始めた。
静が、慌てて彼女の側へ駆け寄った。
「睡蓮さん! だめよ、まだ傷が……!」
睡蓮は、静の呼びかけにも応じず、ただ優蛇の元へと、地を這うことをやめなかった。彼女の行動は、理性の限界を超えた、悲しい執着を示していた。
睡蓮は、静が止めるのも聞かず、空虚な執着に突き動かされ、床を這い進んだ。彼女の左手には、微かに鎌の神具の痕跡が残っている。
「優蛇を全てここに持ってきてくれ……私が全て繋げ合わす……」
その言葉に、静は心を締め付けられた。彼女は、睡蓮の正気を失った状態をこれ以上見たくなかった。静は、優しく、しかし強く睡蓮の体を抱きかかえて引き戻そうとした。
「落ち着いて、睡蓮さん! 優蛇さんはもう……だからそれ以上は……」
静は、死んだという言葉を飲み込んだ。その事実が、睡蓮をさらに深い闇に突き落とすことを恐れたからだ。
しかし、睡蓮は、静の抱擁を振り払おうとし、その虚ろな目の中に、一瞬、激しい怒りの炎を灯した。
「お前に何が解る!? 一体何が!? 私は目の前で弟を、弟を……!」
睡蓮の呻きは、己の無力感と絶望の叫びだった。
静は、その痛みに満ちた言葉を正面から受け止め、涙を堪えながら、自らの過去の傷をさらけ出した。
「……解るわよ。私も、目の前で大切な友人を殺されたから」
静は、その時の無力な自分を思い出した。
「私はあなたのように強くないから、あの時、何も出来ずに恐怖で固まり、ただ涙する事しかできなかったけど……。でも、目の前で大切な人が無残な死を遂げるのを見る絶望は、私にも解るわ!」
静の慟哭は、睡蓮の悲劇を共有し、彼女を孤独な絶望から引き上げようとする、守り人としての真の愛の叫びだった。
睡蓮は、静の偽りのない慟哭と、過去の悲劇の告白を聞き、虚ろだった瞳に、初めて他者の痛みを映した。
「そうだったのか……。私は自分の事ばかりで、人の気持ちも知らずに……済まなかった」
静は、その謝罪に首を横に振る。
「ううん、いいの。逆の立場なら、皆そう思うはずだわ。私も、きっと同じようにあなたを罵ったと思う。私だって、きっとそう」
静の優しさが、睡蓮の硬く閉ざされた心を溶かし始めた。
その時、横で体力を回復させていた一刀が、静かに口を開いた。
「静は、優蛇君の亡骸を埋葬し、毎日欠かさず花を供えていた。君が目覚めるまで……。そしてずっと君を看病してくれていたんだ、寝る間も惜しんで。俺と鞍馬が気を失っていた間も、静が水を探し、布を絞って、君の熱を下げてくれた。だから、睡蓮も命を取り留めたんだと思う」
一刀の言葉は、静の陰の努力をはっきりと睡蓮に伝えた。
「そうなのか……そんな事も知らずに、私は……」
睡蓮は、静の優しさと、自分の自己中心的な行動を思い出し、慚愧の念に駆られた。
「ちょっと、一刀!」
静は、自分の看病を大げさにされるのが嫌で、頬を赤らめながら一刀を制した。
一刀は、静の制止を無視し、静の真価を睡蓮に伝えるために続けた。
「でも、一言も言わない人、それが静なんだ」
一刀は、静の瞳を真っ直ぐ見つめた。
「誰もが、悲しみを抱えて生きている。鞍馬も、君も、そして静も、皆そうだ。だからこそ、誰かが傷つき、悲しみに暮れているとき、そっと明かりを照らしてくれる……。静は、それを教えてくれる人だ」
一刀は、悲劇に沈み、自責の念に駆られている睡蓮を、力強く、しかし優しく見つめた。
「静は、君を照らした。そして、君は今、その光がどんなに大切かを知ったはずだ」
一刀は、続けて、睡蓮に新たな生きる意味を提示した。
「だから今度は、君がそんな人になればいい」
睡蓮は、虚ろなまま一刀を見つめた。
「そういう事が出来る人なんだから、睡蓮は」
一刀の言葉は、優蛇の死という重すぎる代償を背負った睡蓮が、絶望に囚われるのではなく、誰かを救う側に回るべきだと訴えていた。彼女の深い悲しみは、他者の痛みを理解し、静のような光を放つための、資格となるのだ。
睡蓮は、失われた弟の亡骸が残る場所を思い、深く息を吸い込んだ。彼女の瞳の奥で、優蛇への愛が、絶望から使命感へと、ゆっくりとその形を変え始めていた。
静は、その一刀の優しすぎる言葉と、睡蓮を立ち直らせようとする強い意志に、静かに涙を流した。
睡蓮は、失われた弟の亡骸が残る場所を思い、深く息を吸い込んだ。彼女の瞳の奥で、優蛇への愛が、絶望から使命感へと、ゆっくりとその形を変え始めていた。
一刀の言葉に、睡蓮の目に微かな光が戻った。
その様子を見た松本は、あえて厳しい言葉を選び、睡蓮の過去への執着を断ち切るよう促した。
「もう空蝉じゃなくてもいいだろう」
松本は、その漆黒の義手を、自分の胸に向けた。
「肉もあり、血も通っているその身体の方が本体だ。脱皮した抜け殻に感傷的になるのも、今宵限りだぜ」
松本の言葉は、優蛇の亡骸と、過去に縛られ、魂を失っていた睡蓮への、現実を直視させるための荒療治だった。
睡蓮は、その言葉を反芻するように、小さな声で呟いた。
「私は空蝉ではなく……血の通った……人」
彼女は、自分の生々しい傷跡と血が通う自分の手を、じっと見つめた。弟を救えなかったという事実が、この手に、そしてこの体に刻み込まれている。
「ちょっと、鞍馬!」
静は、松本のあまりの言い方に抗議したが、すぐにその言葉を引っ込めた。松本の意図は理解できたが、悲しみを否定することはできなかった。
静は、睡蓮の手をそっと握りしめた。
「ううん、いいのよ、感傷的になったって。優蛇君を失った傷は、一晩二晩で癒えるような傷じゃないんだから」
静は、自らの過去の経験を込めて語りかけた。
「時に思い出して、声に出して泣いてもいい。私は、みっともない顔で一緒に泣いてあげる。だから、優蛇君との想い出ごと、全部、一緒に連れていきましょう」
静の許しと共感の言葉は、睡蓮に生き続ける勇気と、悲しみを抱えながらも前を向く力を与えた。
この悲劇の果てに、三人の刀司と一人の守り人は、絆と覚悟を新たにし、バフォメットの次の計画に立ち向かうために、新たな一歩を踏み出す準備を始めたのだった。




