樹と吐影(とかげ)
一刀、松本は、優蛇の先導で母屋を飛び出し、荒廃した敷地の裏手にある土蔵を目指した。母屋では、松本と一刀の正確な制圧攻撃により、三人の組の長が次々と気を失っていく音が響いていた。
「蔵はすぐそこだ! 姉貴のもつ難儀の蓋は……!」
優蛇は、走りながら指を指した。
しかし、蔵の前の広場は、既に厳重な防御が敷かれていた。
蔵の扉の前に、一人の男が立ちはだかっていた。組の長の一人、樹という名の男だ。彼の肌は、他の組の長のように青黒い斑点が出ているのではなく、代わりに全身の皮膚が硬く、木の幹のような質感に変化していた。
その足元からは、蔵の周囲の地面を突き破り、無数の木の根が這い出し、鋭い枝が鞭のように空中で揺らめいていた。他の組の長が悪魔に支配されただけであるのに対し、この男は、明らかに悪魔と直接契約を結び、その力を得ていることが伺えた。
「よく来たな、我らを追う蠅ども」
樹は、蔵の扉を背に、皮肉に満ちた笑みを浮かべた。
「あの愚かな三匹が、お前らを屋敷の中に引き入れたお陰で、私はこうして蔵の前でゆっくり待っていられた」
樹は、腕を組みながら、一刀の光の義手、松本の漆黒の義手を値踏みするように見つめた。
「あの馬鹿な仲間どもは、村長の悪魔が与えた囁きで動いている。だが、私は違う。森の悪魔と契約し、この土地の木々を意のままに操る力を手に入れた。他の組の長どもが結べなかった、特別な契約だ」
樹は、周囲の木々の枝を、彼らの行く手を塞ぐように自在に操った。
「お前たちが難儀の蓋と呼ぶ宝は、この木々の結界の奥にある。さあ、刀司と漆黒の義手を持つ男よ。お前たちの力、この森の契約者が、称えるに値するかどうか、試させてもらおうか」
蔵の前で、樹という名の森の契約者と対峙した、まさにその瞬間だった。
一行が背を向けてきた母屋の方角から、静の甲高い悲鳴が木霊した。
「きゃあああッ!」
一刀と松本は、同時に戦慄し、反射的に母屋の方へと振り返った。
優蛇は顔を青ざめさせ、自分の失態を悔やんだ。
「しまっ……た! こっちにばかり気をとられていた!」
優蛇は、自分の家で待機させていたはずの静が襲われたことに、激しく動揺した。
「残りの組の長は……吐影だ! 奴は蔵の宝ではなく、姉貴か、静さんを狙って、母屋に留まっていたんだ!」
優蛇は、残りの組の長、吐影の存在とその能力について、震えながら明かした。
「吐影は、影を操る悪魔と契約した男だ! トカゲのような身のこなしと、暗がりを自在に動く力を持つ。奴は、蔵へ向かった他の組の長とは違い、闇の契約を結んだんだ!」
蔵を守る樹、そして静を狙う吐影。二人の特別な契約者によって、一刀たちの対応は分断され、最大の危機に陥った。
「鞍馬! 優蛇と共に静を! 蔵は俺がなんとかする!」
一刀は、光の短刀の柄を強く握りしめ、その朱と青の炎をさらに燃え上がらせた。彼にとって、仲間(静)の命こそが、宝よりも優先すべき刀司の務めだった。
「チッ、またお嬢様の子守りかよ!」
松本は悪態をついたが、彼の漆黒の義手は既に母屋の方角を向いていた。
「分かったよ! 光の義手の悪党、そっちは好きにやれ! 俺は、俺のやりたいようにその吐影とやらをやっつける!」
松本と優蛇は、静の悲鳴が聞こえた母屋へと駆け戻った。一刀は、森の契約者・樹が操る木の結界を破るため、蔵の前で短刀を構え直した。
一刀は、松本と優蛇を母屋へ向かわせ、森の契約者・樹と一対一で対峙した。樹が操る木の根と枝が、蔵の扉を厳重に守っている。
樹は、一刀たちが静を優先して蔵を放置したことに、勝利を確信したような笑みを浮かべた。
「ほう。仲間思いの守り人ごっこか。滑稽だな」
樹は、無数の枝を、一刀の周囲を囲むように配置した。しかし、それらは一刀を攻撃するのではなく、蔵への侵入を防ぐことに徹している。
「これさえあれば、お前らなどどうでもよい。お前たちが持つ神具も、その隣の女も、もはや副次的な価値しかない」
樹は、蔵の扉を背に、腕を組みながら悠然と言い放った。
「我々が目指すのは、この蔵にある次の難儀の蓋を破壊し、難儀の源を解き放つこと。何れ(いずれ)難儀が世界を覆い尽くせば、お前らとて無事では済まぬのだからな」
彼は、一刀の光る義手を指差した。
「神具の力など、いずれ来る大難儀の前では塵に等しい。わざわざ今、手を下すまでもないだろう。この場で仲間(静)を救うか、世界を救うか、出来もしない絵空事、愚かな選択で悩むがいい」
樹は、蔵の宝を狙うという目的を明確にすることで、一刀の攻撃を誘導し、時間の稼ぎと精神的な揺さぶりを同時に仕掛けてきた。彼は、一刀が静を放っておいて蔵を斬りに来ることはないと確信し、時間をかけることで蔵の防御をさらに強固にしようとしていた。
一刀と松本が分断され、松本が優蛇と共に母屋へ駆け戻った時、静は既に吐影に捕らえられていた。
母屋の暗い廊下の隅、影が濃い場所。吐影は、トカゲのような滑らかさを持つ黒い皮膚と、鋭い爪を持つ男で、静の細い首に、その硬い腕を回していた。静は、悲鳴を上げた後に抵抗を試みたが、吐影の力には敵わなかった。
「ふむ……これが武家の娘か。身分を捨てたとはいえ、その姿勢は、上品で気高い。見るからに美味そうだな」
吐影は、静の顔を覗き込み、粘着質な笑みを浮かべた。
静は、吐影の腕の中で必死にもがいた。
「誰があんたなんか! 悪魔の走狗に、私の血と矜持をくれてやるものですか!」
「おっと、まだ威勢がいい。いいぞ、その表情」
吐影は楽しげに言った。
「私と契約した悪魔の目的は、全てをぶち壊すことだ。お前のような高貴な存在を、地に引きずり下ろし、俺の前に膝間尽かせる。その時、お前の絶望は最高の馳走となる!」
吐影が、静の首にさらに力を込めようとした、その刹那。




