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質屋の源兵衛

「ごめんくださいまし。すみません」

静は緊張で乾いた喉を潤し、店を覆ういつもと違う空気に戸惑いながら、質屋の戸を潜った。千代と別れた後、その足で質草を入れにきたのだ。

「おや、静様。いらっしゃいまし。大旦那、静様でございますよ」

入口にいた使用人の男が奥に声をかけた。

いつもの帳場に大旦那の源兵衛げんべえは座していたが、その厳格な横顔は、今日に限っては奇妙に生気を失っているように見えた。彼はいつもなら鋭く光る目の焦点を合わせず、まるで遠い何かを見ているかのように、静の背後の闇を睨んでいる。

「源兵衛様。ご無沙汰しております」

静は、持参した螺鈿細工らでんざいくの髪飾りを小さな風呂敷から出し、帳場に滑らせた。祖母の代から伝わる品だが、今の生活を支えるには、もはや骨董品の美しさよりも現金の重みが必要だった。

「まことに、まことに心苦しいお願いでございますが、学校の学費が…あと十圓じゅうえんだけ、どうにかお貸し頂けないでしょうか。来月、必ず、利子をつけてお返しいたします」

静は深々と頭を下げた。

返済期限の厳しさを知っているからこそ、この土下座に近い懇願が、彼女の誇りをギリギリと削る。

しかし、源兵衛は差し出された髪飾りを一瞥もせず、重々しく、静かに口を開いた。彼の低い声は、普段の威勢の良さを欠き、異様に響いた。

「お嬢さん顔をお上げ。そんな色褪せた飾りでは、もう焼け石に水だ」

静は顔を上げた。源兵衛は初めて静の方を見たが、その眼差しは静の目ではなく、まるで彼女の魂の奥底を探るようだった。そして、彼は静が最も恐れていた、そして誰にも話していないはずの話題を持ち出した。

「それよりも……お前の蔵に、決して開けてはならぬと、代々言い伝えのある箱があるだろう」

静の心臓が、まるで誰かに掴まれたかのように強く跳ねた。

「箱…?はて、何のことか…」静は平静を装おった。

声が上擦る。


「お嬢さん。とぼけるのが下手でございますよ。あの、黒漆の、封印が幾重にも施された箱のことですよ」

源兵衛は静の動揺を見透かすように微笑んだ。それはいつもの豪商の笑みではなく、まるで何かの皮を被った獣のような、薄気味の悪い笑いだった。


「あの箱の中身を、この私に差し出してみる気はないかい?そうすれば、借金など、無論帳消しにしてあげましょう」


静は背筋が凍りついた。彼女がその箱の存在に気づいたのは、屋敷の整理をしていたつい最近のことだ。箱の周囲に奇妙な符が貼られていること、家宝の中でもそれが異質な存在であることは確かだが、そのことは誰も知るはずがない。


源兵衛は、一体どうやってその秘密を知ったのか?そして、なぜ急にその曰く付きの箱を話題にしたのか?静の眼前に座る大旦那は、いつもの人間とは違う何かの気配を漂わせていた。


静は、息を呑んだまま、目の前の男を見つめ返した。源兵衛は、普段の金にがめつい商人の顔ではなく、まるで能面のように感情の読めない表情を貼り付けている。


「箱……? 源兵衛様、私はそのような、特別な箱のことは存じ上げません」


静は懸命に平静を装った。もしここで動揺を見せれば、この老獪な男に全てを見透かされてしまう。


源兵衛は、その言葉を聞いても静を咎めることはしなかった。代わりに、彼は手の甲を口元に当て、かすかに「ほ、ほ、ほ」と喉の奥で笑った。それは歓喜でも嘲笑でもなく、ただ静の神経を逆撫でするような、乾いた音だった。


「おや、おや。そう警戒なさいますな、お嬢様」


彼は、静が旧体制の没落した名家の娘であることを殊更に強調するように、「お嬢様」という言葉をねっとりと口にした。


「あれはただの骨董品ではございません。その証拠に、お嬢様ご自身も、あれを質草に差し出すという発想には至らなかった。それどころか、触れることさえ躊躇なさっている。さようでしょう?」


静の顔から、さっと血の気が引いた。その通りだ。彼女は箱を見つけて以来、その周囲に漂う重い空気に圧倒され、ただの一度も手を触れていない。その微細な心理状態まで、源兵衛はまるで蔵の中に居たかのように言い当てるのだ。


「私ども質屋は、物を預かるだけが仕事ではございません。時には『家』そのものの来歴と、そこに眠る因縁をも、預からせていただく。それが、長年商いをしてきた者の『ごう』というものです」


源兵衛はゆっくりと立ち上がり、帳場から静の前に回り込んだ。その動きは老体とは思えぬほど静かで、床板一つ軋ませない。


「あの箱は、お嬢様の家の未来であり、過去でございます。そして、お嬢様の今の窮状を救える唯一の品でもある」


彼は、静の螺鈿の髪飾りを指先でそっと押しやった。


「十圓や二十圓の端金で、そのようなお宝物を質に入れるのは、あまりに惜しい。いっそあの箱を、私どもに永代えいたいお預けいただければ、この店の敷地と、お嬢様の女学校の授業料、そして終生お暮らしになれるだけの安泰をお約束いたしましょう」


源兵衛は、静の顔を覗き込むように身を屈め、顔の皺を深めて、再び「ほ、ほ、ほ」と笑う。その目には、金銭への欲望ではない、何か底知れぬ異様な熱が宿っていた。


「さあ、お嬢様。天秤にかけてご覧なさいまし。どちらが得か、赤子でも自明の理でございましょう。まあ、すぐに結論を出せることでも御座いませんでしょうが……。私とて我慢の限界となれば話はご破算。時というものは、そう長く待ってはくれませんぞ」



それさえ差し出せば今までの借金をチャラ。この質屋一軒嫌それ以上の見返りをすぐに用意する事を提案する。


当然のようにびびりまくる静。あたまが混乱すると同時にそれだけの金があればとあれこれ考える





静は、源兵衛の言葉の重さに、その場に縫い付けられたように動けなくなった。


恐怖と誘惑。

源兵衛が差し出したのは、もはや一質屋の取引の範疇を超えた、途方もない提案だった。


「ご安心ください、お嬢様。その箱さえ私どもに永代お預けいただければ、今までの借金は無論、全て帳消し。それどころか、この店の敷地と、お嬢様の女学校の授業料、そして終生お暮らしになれるだけの安泰をお約束いたしましょう」


念押しとも言える源兵衛の言葉は、まるで甘い毒のように静の耳に響いた。彼が指し示した「安泰」とは、単なる借金返済ではない。長崎奉行だった父の没落以来、静を蝕み続けてきた貧困と不安から、永遠に解放されることを意味していた。


「蔵の黒漆の箱」。それさえ手放せば、静はすぐにこの薄汚れた都会の外れから離れ、格式ある本所の女学校へ堂々と通い続けられる。質の悪い煎餅で食いつなぐような生活は終わり、女中を雇い、新しい時代のエリートとして生きていけるのだ。

静の頭の中は、一瞬にして欲望と恐怖に引き裂かれた。


(あの箱一つで、借金が帳消しに?それ以上の財産を……? 源兵衛様は、一体あの箱にどれほどの価値があると見ているのか)


箱の存在を誰にも語っていないにも関わらず、源兵衛はその特異性と価値を正確に見抜いていた。その事実こそが、静の底知れぬ恐怖を呼び起こす。


「源兵衛様、あの箱は、ただの古道具でございます。価値など…」


「おやめなさい」源兵衛は静の言葉を遮り、優雅な仕草で静の掌に、以前質に入れた母の形見の金環きんかんをそっと乗せた。「この程度の瑣末な物と、あの箱を同列に語るなど、お宝に失礼というもの。お嬢様は、まだあの箱の真の姿をご存じない」


源兵衛は、再び顔の皺を深めて不気味に笑った。


「その箱は、『呪い』か『奇跡』か。どちらにせよ、今のお嬢様の家では手に余る代物です。賢明なご決断を。時というものは、待ってはくれませんぞ」


静は、その笑みに背筋が凍りつくのを感じながらも、手のひらに乗せられた金環の冷たさと、目の前に積まれた巨額の見返りの幻影を振り払うことができなかった。


(あの箱には、何が封印されている? それを手放して、本当に安全なのか? ……でも、それだけの金があれば……!)


静の視線は、源兵衛の薄気味悪い笑顔と、懐に忍ばせた質草の包みを何度も往復した。もはや、静にとってあの「黒漆の箱」は、単なる家宝ではなく、自分の運命、そして家族の過去と未来を賭けた、恐ろしい扉となったのだった。




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