二里先へ
松本が、悪魔の残した金銀の塊に手を伸ばそうと葛藤している、その時。
一刀の右腕に宿った光の短刀から、再び精霊の冷徹で威厳のある声が響き渡った。その声は、一刀だけでなく、松本の心にも直接届いていた。
『松本、そして刀司よ。聞け』
その声は、二人の契約者の行動を、全て見透かしていた。
『汝らが、強大な悪魔を討ち滅ぼすほど——そこには、お前たちが欲する金銀財宝の山が積み上がることになる』
小松が残した塊は、悪魔が喰らい続けた『業』の残骸であり、この世の富と欲望の具現化だった。
『だが、決して、その金銀を自分たちの為に使ってはならない』
精霊の声は、強い警告を含んでいた。
『悪魔を倒し、その対価を己の私欲に用いる時、その瞬間に汝らは、自らが食らった『業』に飲み込まれる』
松本は、その言葉に、息を詰めた。彼の心臓が激しく脈打つ。
『——その時、お前たちは新たな悪魔となり、この日の本に新たな難儀を振りまく存在となる。正義の力と憎悪の力、どちらの契約者であろうとも、堕ちる道は同じだ』
精霊は、静と一刀、そして松本が守り人として立つために、悪魔の遺産を決して手にしてはならないという、絶対的な戒律を突きつけた。
松本は、自分が失った左手首に宿る漆黒の義手と、目の前の財宝の山を交互に見つめた。弟のためにと願った出世と金が、実は自分を悪魔に堕とす毒でしかなかったという残酷な真実に、彼は打ちのめされた。
「……弟は、こんなもののためには死んでねえ」
松本は、全身の力を失い、その場に崩れ落ちた。彼は、悪魔の義手を握りしめながら、財宝に背を向けた。
一刀は、光の義手を収めた。
「松本巡査。我々は難儀を打ち払う者だ。難儀を呼び込む者になってはならない」
二人は、悪魔の残骸に一瞥もくれず、次の宝が待つ、山間の町へと再び歩みを進めた。峠道には、血と死体、そして煌びやかな財宝だけが、彼らの戦いの証として残された。
小松の悪魔の残骸である金銀財宝を後にし、一刀と静は、再び山間の町へと続く道を進もうとしていた。松本は、その場で崩れ落ちたまま、動こうとしない。
一刀は、松本の前に立ち止まり、静かに問いかけた。
「松本巡査。我々は別の封印の箱を目指さねばならない。お前は、これからどうするつもりだ?」
松本は、失った左手首の傷口に融合した漆黒の義手を見つめていた。その手には、もう巡査としての刀は握られていない。
「どうする、だと?」松本は自嘲するように笑った。
「悪魔だの何だの言ったところで所詮、俺は上官殺しだ。誰が信じる? 出世のために上官を斬った狂人……それが俺について回る世間の評価だ」
彼は立ち上がった。その歩みには、もう巡査としての使命感も、出世への執着もなかった。あるのは、全てを失った者の虚無感だった。
「俺は、このまま逃げるさ。後は……この悪魔の腕を隠し、どこかの地の果てで、ただの人殺しとして生きるだけだ」
松本は、静と一刀の目を見ることなく、来た道――都の方角へと向かおうとした。
松本の背中を、静は強く見つめた。彼女の目には、松本の悲しいまでの孤独が映っていた。松本は、源兵衛や小松とは違う。彼は欲望ではなく、弟を愛することから歪んでしまった男だ。
静は、一刀の制止を振り切り、松本の前に回り込んだ。
「松本さん」
松本の、全てに諦めたような眼差しが静を捉える。
「何度も言わせるな。お前らこそ、早く行け。俺なんかに関わるな」
静は、きっぱりと言い放った。
「なら、一緒に来なさいよ」
松本は、一瞬何を言われたのか理解できなかった。
「な……何を馬鹿なことを。俺は指名手配犯だ。お前らもだ。それに、俺は悪魔の力を持った化け物だぞ」
「私たちだって、光の神具と悪魔の契約の血を持った、世間から見れば異形の存在よ」
静は、顔を上げる。
「松本さんは、弟さんの願いを悪魔の力で果たそうとした。その業は、私たちと同じ、この難儀の世が生み出したものです」
静は、力強く松本の手を取ろうと、その漆黒の義手に手を伸ばした。
「私たちは、独りではありません。この国を襲う難儀と戦うためには、光も闇も、全ての力が必要です。私たちと一緒に、次の宝を守りに行きなさい。それが、弟さんの魂が、本当に望んだ道でしょう?」
一刀は、その静の行動を止めなかった。彼は、純粋な心を持つ静が、松本の歪んだ魂を救い、真の守り人へと変えようとしていることを理解した。
松本は、静の温かい手と、純粋な目に、どうすることもできず、嗚咽を漏らした。彼は、全てを諦めたはずなのに、再び生きる道を与えられたのだ。
「――鞍馬。俺の名前は松本鞍馬。鞍馬と呼んでくれ」
「えっ?」
「行くよ。一緒に。弟の夢、別の形でどうにか叶えるためにな」
「本当?」
「ああ」
静の言葉に、松本が涙をこらえながら頷いた、その瞬間。
峠道の木々の陰から、新たな声が響いた。それは、一刀より少し若く、まだ少年の面影を残すような声だった。
「随分と楽しそうな内輪話だが、そこの宝を置いていってもらおうか」
一刀、静、松本の三人が振り返ると、そこに立っていたのは、簡素な書生服を着た、眉目秀麗な若い男だった。彼は腰に短めの刀を差しており、その目が、小松が残した金銀財宝の山と、一刀の光の義手を交互に鋭く捉えている。
男は、一切の躊躇いもなく、殺気を込めて言い放った。
「でなければ、殺す」
彼の言葉に、静は再び緊張を強いられたが、一刀と松本の反応は違っていた。
(こいつ、悪魔の力も神具の輝きも持っていない。ただの刺客か、そこそこ腕はたちそうだが……)
一刀は、覚醒した神具を宿した右腕を静かに構えながら、そう判断した。鞍馬との契約を経た今、この程度の殺気では、彼らが後れを取ることはない。
松本もまた、漆黒の義手を握りしめ、冷笑した。
「ハッ。テメェみたいな小僧に、悪魔と契約した俺が殺されるとでも思ったか。出直してきな」
松本は、小松のような異形の悪魔と戦った後では、目の前の脅威が取るに足らないものに見えていた。
一刀は、若者に目を向けた。
「そこの金銀の山か? 好きにしろ。俺たちは、あの宝には手を出さない。我々自身で使えないもの、何の価値もない」
静も頷いた。「どうぞご自由に。わたくしたちが目指すのは、金銀財宝小判の山ではございませんから。用事がありますので、それじゃ」
彼らが、小松が残した金銀財宝を、何の執着もなく差し出したことに、若い男は一瞬、戸惑いの表情を見せた。彼は、殺意を向けているにも関わらず、自分に背を向けて歩き出す一刀達のことを理解できない様子で見つめていた。
松本は、鼻を鳴らすと、静に促された道へと向き直った。
「さあ行こうぜ、守り人のお嬢ちゃん。ちょうどいいゴミ屋が来てくれて助かった。あの山は、あの小僧に任せておけ」
一刀、静、そして松本は、新たな決意と共に、若者と金銀財宝の山を後にし、山間の町へと続く道を進み始めた。




