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峠の茶屋

夜明け前に蔵を出て以来、静と一刀は休むことなく東を目指して歩き続けていた。十三里という距離は、馬車や汽車を使えばまだしも、慣れない徒歩では過酷な道のりだ。


「はぁ……はぁ……もう、一刀さん。もう無理ですわ!」


日も高くなった頃、都会の喧騒が遠ざかり、街道沿いの田舎道に差し掛かったところで、静の身体は限界を迎えた。彼女は道の脇の石に勢いよく腰を下ろし、大きなため息をついた。息は切れ、女学校の制服は埃と血の飛沫で汚れ、完全に疲れ果てている。


「何を言ってんだ。まだ三里と少々しか進んでいないぞ」


一刀は、光の義手を自然に隠すように着物の袖で覆いながら、振り返った。その顔には疲れの色は見えない。


「三里もですわ! わたくしは元奉行の娘! 普段からこんな草臥れる(くたびれる)ような真似はいたしません!」


静は頬を膨らませ、わがままを発動させた。


「それに、あなた、昨晩はわたくしを抱き寄せて図々しく眠っていらしたくせに、朝から一度も大丈夫かの一言もなし! 武士の風上にも置けない男ですわ!」


一刀は、静の怒りと疲労が混じった抗議に、呆れたように目を細めた。


「まだそのことを根に持っているのかよ。もういい加減その事は忘れろ、命の恩人に失礼だろ。それにこの国の存亡が懸かっているって言うのに。お前を喰らおうとしたガマは紳士だったか?」


「そういう問題ではありません! そもそも、あなた、道端でわたくしに声をかけてきた不逞の輩でしょう! そんな男に、命がけで走らされる筋合いはない!」


静は半ば泣き言のようにそう叫ぶと、頑として立ち上がろうとしない。彼女の心には、千代や綾の死の悲劇、そして、自分の無力さへの苛立ちが渦巻いていた。彼女にとって、一刀に反抗することは、かろうわがままを言うことで、わずかに元奉行の娘としての尊厳を保つ手段だった。


一刀は、静が本当に限界であることを理解した。彼は周囲を見回すと、近くの茶店を指差した。


「分かった。仕方がない。ここで休む。だが、休めるのは一刻(約二時間)だけだ。それと、もし俺を責める前にだな、その汚れた服と顔をどうにかしろ。その方がよほど奉行の娘らしく見えるぞ」


一刀の皮肉めいた言葉に、静はさらにムッとしたが、休めるという事実に抗えず、しぶしぶ茶店へと身体を引きずっていった。


「全く、嫁入り前の娘の身を、これ以上……」


静がまだぶつぶつと愚痴をこぼしていると、一刀が、静の言葉を遮るように、警戒の声を上げた。


「おい、大丈夫か」


一刀が視線を向けたのは、茶屋の前の道を、こちらに向かって息を切らせて駆けてくる一人の男だった。それは、巡査の制服を身につけた、背の高い男――松本巡査だった。


静は、その姿を見た瞬間、体中の緊張がふっと緩むのを感じた。公権力だ。これまでの非日常的な恐怖から、ようやく人間の世に戻れたのだという安堵感が湧いた。


松本は二人を見て、安堵したような表情を作り、人懐っこく声をかけてきた。


「おや、こんなところで。大丈夫ですか、お二人さん! 随分と顔色が悪いし、服も汚れている。何かあったのでしょう?」


松本は、腰に下げた水筒から水を取り出し、静に差し伸べようとした。


「ご心配なく、私は警邏中の巡査です。喉を潤すといい。それに、この辺りで妙な事件があったと聞いています。優しく事情を聞きますから、安心しなさい」


静は、一刀の制止を振り切り、その優しげな声音と公的な制服に、思わず涙が出そうになった。


「あ、ありがとうございます……あの、実は……」


静が話し出そうとしたその時、松本は差し出しかけた水筒を止め、静と一刀の顔を、まじまじと見つめた。静の身なりと服装。血のついたその様子。そして、何かを思い出したように懐から皺くちゃになった一枚の紙を取り出した。


松本は、その紙に描かれた人相書きと、目の前の二人の顔を、交互に、何度も、何度も見比べた。


沈黙。時間が止まったかのような、恐ろしい沈黙がその場を支配する。


静と一刀は、その一瞬で異様な雰囲気を察知した。松本の優しげな表情の裏に、別の、獲物を狙う獣のような冷酷な光が宿っている。


松本は人相書きを懐にしまい、にやりと、下卑た笑みを浮かべた。


「いやあ、助かったぜ。まさか、こんな田舎道の茶店で獲物にありつけるとはな」


次の瞬間、松本は優しげな巡査の顔をかなぐり捨て、いきなり腰の刀を抜き放った!


キンッという鋭い金属音と共に、松本の刀が静に向かって閃く。一刀は、光の義手を盾に静を庇った。


「出世がかかってんだ、悪く思うなよ!」


松本は、その荒々しい刀の動きとは裏腹に、まるで日常の会話のように、平然と言い放った。


「知るかお前の出世なんぞ! 俺たちが何した!」


一刀は光の義手で松本の刀を受け止め、叫び返す。


松本は、一刀の問いに対し、ニヤリと笑い、再び懐から紙を取り出した。



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