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長崎奉行の娘、静

時は明治の中頃。女学校の新しい校舎を後にし、静と友人である千代は、賑やかな街路から少し外れた、古い武家屋敷が立ち並ぶ道へと入っていた。

「まったく、お金の事ばかりでイヤになっちゃう。おかげで心が休まる暇がないわ。このままでは試験にも集中できない」

静は、金策に悩んでいた。蔵の中には死んだ父の形見であるお宝が山ほど眠っていた。それを小出しに学費と生活費に当てて入たのだがそれも今や心許ない。そんな折、蔵の奥で発見した曰く付きの箱のことが頭から離れず、どうしたものかと思案していた。そんな気持ちもつゆ知らず、千代は、そんな静を嬉しそうに見つめる。

「静さんは真面目すぎますわ。せっかく女学校に通っていらっしゃるのに。卒業するまでには御縁談もありましょう?なんせ静さんは元長崎奉行の御息女であられるのですから」

「御息女ねえ」

静は天を仰ぐ。いい嫁ぎ話が来るのが先か、はたまた資金が尽きて野垂れ死ぬのか先かまさに瀬戸際といえる。奉公にでるというのも考えたが唯一の奉公人である綾からは武家の娘がみっともないと言われる始末。

───その時、二人の目の前に、一人の若者が立ちはだかった。

男は15から18歳位だろうか。質素な着物に身を包み、人目を引くほど整った顔立ちをしていたが、どこか周囲の文明開化の空気から浮いた、古めかしい気配を漂わせている。彼はまっすぐに静に向かって歩み寄った。

「そこのお嬢様たち」

若者は静にやや緊張した面持ちで声をかけた。静は、はっとして身構える。元奉行の娘という矜持が、彼女に妙な警戒心を与えた。

これは、道に迷った男の所業か、それとも、噂に聞くところの声かけ(ナンパ)と呼ばれるロマンスのはじまりなのか。

「何でございましょう」

静は、一歩も引かず、ちょっぴりの期待感を込めつつも威圧感のある目で見つめ返した。

「道をお尋ねしたいのだが」と、若者が真面目な顔で言うと、静は鼻を鳴らした。

「やめなさい。このあたりは、あなたのような不逞ふていの輩が女学生に声をかける場所じゃないわよ」

「不逞? 何言ってんだお前……」

若者は素に戻る。

「わたくしの目をみなさいよ」と、静は顔を突き出した。静もいつもの静に立ち戻る。

「わたくしのような容色ようしょく優れない、絵にも描けないような娘に、わざわざ声をかける時点で、あなたの目的は道探しではないと知れるわ、あーいやらしい」

「道を尋ねているだけなのになんでそうなるんだよ……。やらしいとか、どういう頭の回路を……。いや、そんなことはどうでもいい。それよりも、この近辺に古い長屋の……」

若者が説明を続けようとするのを遮り、静はさらに声を張る。

「近頃、洋行帰りの格好をした色男風の者が、私のような右も左もわからない幼気な娘を褒め殺して金をせびると聞きます。あなたもその類いね! そうはいかないからわたくしは元奉行の娘。そう簡単に騙されないわよ!」

若者は、あまりに一方的で的外れな静の剣幕に、完全に面食らってしまった。彼は、ただ真剣に探している場所へたどり着くための道を尋ねたかっただけなのだ。

「……いや、本当に、ただ道を……幼気なって自分でいうかよ、ふつう」

「結構です!」静は強い口調で断った。「さあ、千代、行きましょう。時間の無駄よ」

静は千代の手を引いて、若者を避けながら足早に通り過ぎていく。

「おれが道聞いたのになんでおれが断られなきゃならねえんだ?訳がわかんねえよ」

若者は呆然とその場に立ち尽くし、やがて静の遠ざかる背中を見つめながら、困惑したように天を仰いだ。

その時、静が身につけていた魔除けの鈴がチリンと涼やかな音を立てた。その音に、若者ははっとした表情を見せ、急いで静のいた方向を振り返ったが、既に二人の姿は角を曲がり、見えなくなっていた。

道を曲がり終えた静は、ふくれっ面で興奮気味に千代に話しかけた。

「見てご覧なさい、千代! あの男、やっぱりそういう類いの人間だったのよ。わたくしのような右も左もわからない幼気な娘にも声をかけるなんて、もう手当たり次第なのよ!気をつけなくっちゃ」

千代は苦笑いしながら、静の袖を優しく引いた。

「静さま。わたくしにはあのお方が本当に道を尋ねていただけだにみえましたが……。それに真面目そうなお方で。ああいう真面目そうな方に、悪いお方はいらっしゃらないかと」

「なんですって?」静は納得がいかない。

「悪いヤツほどいい人ぶって近づいてくるものよ。千代こそ気をつけたほうがいいわよ!」

「そうでございますね。ただ、そこが静さまの悪い癖でもございます。もう少し、素直にお話を聞いて差し上げてもよかったのではございませんか?」

「まあ、千代ったら。私の方が悪いって言うの?」

静はムッとしたまま、若者のいた方向を振り返りもせず、プイと顔を背けた。

「さあ、帰りましょうか」

千代は慰めるように静の肩を二回叩いた。

「そうね。――あっ」

千代に促され、歩きだそうとしたとき、静は何かを思い出した。金策だ。質屋へ赴かねばならない。

「いつものあれでございますわね。遅くなるようでしたら家へいらして。夜道は危のう御座いますから」

「そうね。ありがたいわ。でも……」

「綾さんのことね。静さんが家へいらっしゃったら使いの者を寄こしましょう」

綾は静の唯一の使用人である。幼少の頃から世話をしていた老女だ。

「ありがとう。助かるわ」

静は千代に頭を下げた。



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