僕は忘れない ~秋桜のように可憐だった君をずっと……
「あなたって本当に何もわかっていないのね」
そう言い残して妻が出て行ったのは、梅雨も明けたばかりの約三週間前のことだった。
妻は会社役員である上司の娘で、上司に見合いを持ちかけられ、言われるまま見合いをして結婚した。
それから七年。
その間、特別な波風は立たなかった。
しかし、それも僕が家事も分担し、煩わしい子供は欲しくないという妻の要求ものみ、何もかも妻主導の生活だったせいだと思う。
妻が出て行っても僕の生活はたいして変わりがない。
元々、家事はそれほど嫌いと言うほどではなかった。
帰宅して、簡単な食事を作り、テレビを付けて一人でご飯を食べるようになった。
広いリビングにニュースキャスターが読み上げる無機質な声だけが響く。
しかし、妻と一緒に食事をしていても、とくだん会話などなかったことを今更のように思い出す。
僕は不倫をしたことも、妻に暴言を吐いたことも暴力をふるったことも一度もない。
妻の誕生日には妻の好きなブランドの小物を見繕い、妻の具合が悪いときは体を気遣った。
何が悪かったのか、考えてもよくわからず、ただ、妻が出て行ったという事実が厳然として存在するだけだった。
◇◆◇
ようやく酷暑も過ぎ、朝晩しのぎやすい気温になってきた頃。
僕はいつものように、外回りの営業に出ていた。
陽射しはまだ幾分強く、軽く汗ばんだ額をハンカチで拭いながら歩いている時、ある角地がいつの間にか空き地になっていて、淡いピンクや白い秋桜が咲いていることに気がついた。
秋桜か……。
もうそんな季節になったんだな。
何気なく咲いている秋桜のその素朴で清廉な美しさに、僕はしばし歩を止めた。
白、薄い紫色、濃い桃色の花々が一面に咲き誇っている。
空に向かって可憐な花びらを向けている。
風が吹くとその花が一斉に揺れ動き、青い空に何か訴えかけているようにも見えた。
その時だった。
「藤井君?」
突然、声をかけられた。
秋桜畑を横切って、僕と同じくらいの齢の女性が目の前に現れた。
「藤井由伸君でしょ?」
彼女はにこやかに笑みながら、僕の名前を呼んだ。
誰だろう。
セミロングの黒髪を肩先で揺らしながら、僕を見つめているその女性は。
綺麗な女性だと僕は思った。
まるで目の前に咲いている淡い秋桜のように。
「……あ。もしかして岸田?」
「そう! 第一高の!」
やっと僕は思い出していた。
彼女は高校の同級生だった。
高校二年と三年の時、同じクラスで当時はみんなと一緒によくつるんでいた。
何となく可愛いらしいイメージは持っていたものの、当時は仲間内で特に目立ったところはなかったように思う。
それがどうだろう。目の前の彼女は、控えめながらも、三十代という妙齢に相応しい匂い立つような美しさがあった。
僕は暫し目を細め、彼女に見惚れてしまった。
「懐かしい。……あ、今、仕事中?」
「え、いや。今日はもう直帰するところ」
「だったら。ご飯、一緒に食べない?」
「え? 岸田こそいいのか」
「娘には今から連絡する。一食くらいなんとかできるわ」
そう言うと、彼女はスマホを取り出した。
◇◆◇
「外食は久しぶりだよ」
僕はデミグラスハンバーグにナイフとフォークを入れながら、そう言った。
「藤井君って、愛妻弁当に奥様の愛情たっぷりのご飯食べてる感じだもんね」
「そう見える?」
「……私、何か悪いこと言った?」
僕はよほど思い詰めていたのだろう。
彼女の顔つきも神妙なものになった。
溜息をつきながら、僕は続けた。
「妻は二ヶ月前に家を出て行ったよ。妻との間に子供はいないし、音沙汰はない」
「ごめんなさい……」
「別に謝ってくれなくてもいいよ」
そう言って付け合わせのポテトを口に運んだ。
「それより。せっかく再会を記念しての食事なのに、こんなとこで良かったの?」
「十分よ。私も外食するのは久しぶり」
岸田は口先だけでなく、嬉しそうにクリームコロッケを頬張っている。
その時、近くから明るい笑い声が聞こえてきた。
見れば、制服姿の高校生のグループが楽しそうにお喋りに興じている。
僕は、なんとなく周囲を見渡した。
幼い男の子がおぼつかない手先でスプーンを握りしめ、旗の立ったお子様ランチのオムライスを一生懸命すくっている。
その隣の席では、恋人同士とおぼしきカップルが顔を寄せ合い、親密気に会話を交わす光景が見てとれる。
親子連れや若い子たちが訪れ、賑やかな声に溢れている……ここはありふれた『ファミレス』だった。
もっと気の利いた店に岸田を連れて来れれば良かったのだが、この町は地方都市で、手っ取り早い場所と言えばここしかなかったのだ。
「あ、デザート。何か注文しなよ」
「え、いいの?」
「ああ。そんな高いモノはないし、好きなの何でも選んで」
岸田はやはり嬉しそうにメニューに目を通すと、季節限定のマロンパフェを注文した。
程なく運ばれてきたパフェに、目を輝かせながら、まずはてっぺんのマロンを大事そうにスプーンですくった。
「今でも好きなんだな、パフェ」
ドリンクバーのカプチーノを飲みながら、僕は言った。
「今でもって?」
岸田がキョトンとした顔をする。
「高校時代もファミレスに来ると、三回に一回はパフェ、特にチョコパフェ頼んでたじゃん」
「よく覚えてるわねえ」
「あの頃、岸田の二つ名は『チョコパの岸田』だったんだぜ」
「なによー! それ?!」
僕たちは笑いながら、高校時代の想い出話に大いに花を咲かせた。
みんなでカラオケに行ったり、ファミレスでドリンクバーだけで何時間も喋ってたこと。
試験前、図書館で勉強していても、結局お喋りに興じてたいして勉強にならなかったこと。
先生に面白い悪戯をしたりしたこともあった。
夏休みに近場の海に泳ぎに行って、花火をしたことは一番の想い出だ。
「楽しかったわよね、あの頃」
しみじみと彼女が呟いた。
「岸田は卒業後、どうしてたの」
「東京の大学に行ったけど、就職でこっちに帰ってきて、結婚したわ。十一歳の娘が一人。でも……」
その時、彼女は確かに何かを言いかけたが口をつぐんだ。
その美しい痩せた横顔に、憂いの影を見た気が一瞬したが、物憂げな彼女の様子に僕は何も言葉を継ぐことができなかった。
「藤井君は立派になったわよね」
「どこが? 妻に出て行かれたやもめ男の」
そう返すと、岸田はちょっと困ったように笑った。
「悪い」
「なんで謝るの?」
「君にストレスをぶつけたみたいだ」
「そういう真面目なところ。変わってないのね」
彼女は、ほっこりと微笑みながらそう言った。
その笑顔は風に揺れる秋桜のようだと思った。
それから、僕たちは場所を変え、近所のスナックで軽く飲んだ。
八つのカウンター席に二つのボックス席しかないその小さなスナックは、僕たちの他にはひと組のカップル客しかいない。
薄暗い店内で、ママが慣れた手つきでドリンクを作る。
ほとんど話しかけられることはなく、さっきのファミレスにいた時とは違い、時折ぽつりぽつりと言葉を重ねる他は僕たちは黙って飲んでいた。
妻が出て行ってから酒量は増えていたので、僕はちっとも酔わない。
岸田はノンアルコールカクテルの杯を重ねている。
時折、隣にいる彼女の美しい横顔をちらりと盗み見る。
グラスにも映る彼女の表情に、どこか陰りのようなものを感じ、今幸せなのだろうかという疑問がふと浮かんだ。
しかし、妻と別居中の身で、彼女の現在の境遇、とりわけ家庭について立ち入った質問をするのはためらわれた。彼女も自分から話そうとはしない。
ただ、話題がたまたま娘のことになったとき、途端に彼女の表情が柔らいだ。
「娘は小学六年生になるのよ。子どもって不思議ね。何もできない赤ちゃんだったのが、十年もすると何でも私に追いついてくるわ。もうすぐ誕生日なんだけど、アクセサリーとかねだってくるのよ。……あ、こんな話、つまらないわね」
「いや、そんなことないよ」
岸田はどこか遠くを見つめながら言葉を続けた。
「お菓子作りなんて、私よりずっと上手なの。一緒に作ったりすると、私のほうが教わることがあるくらい」
ふふっと声を出して笑う姿に、彼女の愛情が垣間見え、温かい気持ちになった。
自分の感じた陰影など気のせいにすぎず、きっと彼女は幸せな暮らしをしているんだろう、と思い直す。
しかし。
ふと、僕は思った。
幸せそうに娘の話はするのに、夫の話がまったく出てこないのは……?
「……もうこんな時間ね」
彼女の言葉にハッと我に返る。
そう、彼女はきっと幸せに暮らしている。
僕の杞憂に違いない。
「そろそろお開きにしようか」
名残惜しかったが、仕方ない。
「藤井君、どこに住んでるか聞いてもいい? 連絡先も」
「ああ、僕は隣町のマンションだよ。国賀三丁目のルミネ804号室。LINEは……」
そうやって、連絡先を交換して外へ出ると、外はひんやりとして肌寒かった。
「結構冷えるな。そんな薄着で大丈夫?」
彼女は、薄手のワンピース一枚の姿だ。
「寒暖の差が激しいのね。こんな時間に外に出ることないから……」
そう言った途端、くしゅん!と彼女はくしゃみをした。
「これ羽織って」
僕は、とっさに自分の持っていた背広のジャケットを彼女の肩にかけた。
すると、急に岸田は黙り込んだ。
余計なことをしたかと思い、彼女の顔を伺うと、彼女はぽろぽろと涙を流し始めたのだ。
「ど、どうした? 岸田……」
僕は、彼女が泣いている理由がわからない。
「藤井君……。優しいんだもん……」
細長い指で涙を拭いながら、ぽつりと彼女は呟いた。
優しい……?
たかがこんなことで。
岸田はいったいどんな暮らしを送っているのか。
本当に幸せなのかとやはり疑う気持ちになった。
と同時に、何をしても何を言っても、妻から感謝の言葉など一度もなかったことをしみじみ僕は思い出していた。
「岸田の家、どこ? 送っていくよ」
「いいの。一人で帰れる」
「でも」
僕は、なんだか岸田をそのまま帰してはいけないような気がしていた。
彼女は折れそうに細い体をしていて、顔色は酷く悪く、夜風に吹かれ今にもかき消えてしまいそうだった。
僕たちは、黙ったまま対峙していた。
その時。
「藤井君」
彼女は、僕の目を見てはっきり告げた。
「私を抱いて」
その一言で場が、固まる。
行き詰まる空気が流れる。
ふたり、ただ立ち尽くす。
しかし、ややあって
「ごめん……忘れて」
うつむきながら彼女は呟いた。
その表情は見て取れなかったが、次の瞬間には何事もなかったように
「今日は楽しかった」
と、柔らかく微笑んだ。
僕を見つめるその笑顔はやはり、今日空き地で見かけた風に揺れる色とりどりの秋桜のように美しかった。
「岸田……」
何か。
何か言わなければ。
彼女は去ってしまう。
「ありがとう。藤井君」
目の前でタクシーを停めて乗り込むと、岸田は呟いた。
「元気で」
バタンとドアが閉まり、スーッと音もなく車は滑るように走り出す。
その様子を僕はずっとその場に佇み、眺めているだけだった。
◇◆◇
それから。
岸田から一度も連絡はなかった。
僕も日々の忙しさに紛れ、連絡はできずにいた。
しかし、本当はあの夜の彼女の風情が忘れられないでいる。
彼女はどうしてあんなことを呟いたのだろう。
一夜の戯れ?!
いや、彼女はそんなアバンチュールを楽しむようなタイプでは決してない。
では、何故……。
そんなことをぐるぐる考えている間に、 妻との離婚が正式に成立した。
妻の持ち物を処分し、残りのローンは全て僕が払うという条件で、マンションは僕のものになった。
慰謝料はお互い発生しなかった。
妻との生活で何が悪かったのか、未だに僕には何もわからない。
妻は、「さよなら」の一言すら残さず、この家から消えた。
◇◆◇
その年が明けて。
一年で一番寒い時期、僕のマンションを訪ねてきた一人の女の子がいた。
「岸田、さんの……娘さん?」
「はい。岸田さとです」
その子は、まだ中学生になるかならない年齢に見えるが、年の割にはしっかりした女の子だった。
「岸田……お母さんはどうしているの? どうして、さとちゃんはここに来たの?」
「母は死にました」
死んだ……。
あの岸田が?
ドクドクと心臓が鳴る。
突然のことに、僕は狼狽した。
しかし、あの時の岸田の顔色は酷く悪く、体は折れそうに細かったことを今更のように思い出す。
その時。
僕はハッとして、目の前の少女を見た。
さとちゃんはぽろぽろと涙を零しながら、嗚咽交じりに言った。
「これ……母が、自分が死んだらおじさんに渡して、って……」
そう言って、一通の手紙を僕に手渡した。
『 藤井君。
この手紙を読んでいるということは、私はもうこの世にいないということですね。
藤井君と再会した頃、私は既に末期がんで余命幾ばくもない身でした。
私の夫は仕事人間で、ほとんど家にいることはなく、しかもモラハラな気質のある厄介な人でした。
その夫とは数年前に離婚が成立し、さとの親権は私が持ちました。
私が死んでも夫はさとを引き取らないでしょう。
もう夫には新しい家庭があり、そもそも子供を可愛がるということがどういうことかも彼にはわかっていないのですから。
私の両親は他界しており、親戚づきあいもありません。
娘は十二歳で、天涯孤独の身になります。
私が死んだら、養護施設に入所するでしょう。
娘には苦労をかけたくない。
藤井君と再婚できれば……そういう浅はかな考えで、あの夜のようなことを口走ったことをあれから深く、深く恥じました。思慮浅い私をどうか許してください。
藤井君。
こんな女もいたなと、あなたの記憶の片隅に私の名も刻んでくれたら嬉しく思います。
岸田 聡子』
僕は呆然とその場に立ち尽くした。
「おじさん」
「え、え……何」
「おじさんはお母さんの初恋の人だったんだって」
「え?!」
初恋……。
岸田。
何てことを。君は……。
「お母さん、おじさんのこと好きだったって」
真っ赤なマフラーに顔を埋めながら、さとちゃんは言った。
好き……。
岸田が僕のことを。
「さようなら。おじさん」
そう言うとさとちゃんは踵を返した。
「さとちゃん!」
僕は、とっさに彼女を引き留めた。
さとちゃんがゆっくりと振り返る。
「……おじさん。お母さんのこと忘れないでね」
さとちゃんは目に涙を光らせながらそう呟くと、今度こそ去って行く。
僕は、岸田の微笑みを思い出していた。
岸田……。
君は風にそよぐ秋桜のように美しかった。
君に似たこんなに可愛い娘を遺して逝ってしまったなんて。
どうしてそんな残酷なことがあるんだろう……!
「さとちゃん!」
もう一度、僕は叫んだ。
さとちゃんがまた振り返って、僕を見た。
「さとちゃん……」
僕は揺るがない決意を持って、その言葉を口にした。
「おじさんと一緒に暮らそう」
さとちゃんは佇んだまま、暫し目を瞬かせた。
けれどまたぽろぽろ泣きながら、そして僕の許にまっすぐ駆け寄ってきた。
岸田がLINEではなく、さとちゃん自身に『手紙』を持たせたのは意図があったのではないか、と僕は思った。
妻と別れ子供もいない僕と、天涯孤独になったさとちゃん。
あの日、あの秋桜畑で岸田と再会したのは運命だろう。
僕はさとちゃんを育てる意思がある。
これから岸田の代わりにさとちゃんと暮らし、さとちゃんの成長を見届けよう。
さとちゃんが岸田のような心優しく、美しい女性に育つまで。
岸田。
秋桜のように儚く可憐だった君。
君のことを僕は決して忘れない。
僕はやや背をかがめると、小さなさとちゃんを力一杯抱きしめた。