小さな部屋
「はぁ……はぁ……」
ギョタールから逃げおおせたものの、霊の調子は芳しくなかった。
それは、先ほど、霊の力を削ぎ落とすという剣から受けた傷が原因ではない。
もちろん、死した存在であるはずなのに身体は焼けるような痛みを感じるし、自分への警戒が強まっている中で、また正気を集めなければならないのは不可能にも等しい状況。
だが、これは彼の心を苛むものではない。
手間は増えたが心が折れたわけではなく、何度だってやり直すつもりでいる。
問題なのは、その猶予だった。
霊はいまだ痛みを感じながら人通りの少ない道を進んでいく。
迷路のように細く、複雑な地形を右へ左へと進んでいくにつれ、カルティアの街に充満している霊的な気配は薄れていき、ただひんやりとした、澄んだ空気が広がっていった。
朝方。人々は寝静まっている。動物の姿も見えない。
様々な超自然的な現象が引き起こされる街だが、その根底には人間がいる。
どんな現象であれ、人に観測されなければないにも等しく、人が願い、呪い、引き起こすものだからだ。
つまり、それらは人間の手を離れていくことはなく、容易に悪意に利用される。
無心での行動ではないにしろ、自分を降ろした降霊術師などは良い方。
人の喜びや助けになることを指針にしているからで、利用したのは少し、心が痛む。
「……心って、幽霊にもあんのかな」
そう呟いて、馬鹿らしくなって笑う。
ごく少数だが、カルティアでは詐欺が行われている。
本来ならば降ろせないような高等霊……高い技術や知識を持った霊を呼び出し、比較的安価で、恩恵を受けさせるというものだ。
そのような芸当が現実的にできるのかと言えば、可能だった。
だが、何年、何十年と修行を積み、もはや個としての意識が消えかけるほどの次元に至らなければ、高位の霊とは交信すら難しい。
そして、それほどの霊が何に使われるかというと、ある国の政治に関する意見を述べるだとか、失われた過去の魔術への手がかりだとか、個人的な事柄ではなかった。
要するに、高額――一個人が死ぬ気で工面できる程度の額では不足なのだ。
それほどまでの資格を要する高等霊の呼び出しが街角の降霊師に果たせるはずもなく、金を払ったが最後。
騙されたと知った時にはもう、術師は綺麗さっぱり消えている。
冒険者だろうと商人だろうと術士だろうと、根っこは同じ。
扱うものがなんであれ、簡単に道を踏み外す人間がいる。
しかし、霊が進むこの路地だけは、そんな人間の闇とは無縁な気がした。
肺などないというのに、生前のようにひんやりとした空気が身体に満たされていく感覚。
そうして少しばかり気分の良くなった霊は、やがて立ち止まった。
木製の扉。初見であれば、まず立て付けの悪さに目がいくだろう。
ドアノブは外れかかっていて、乱暴に扱えば取れてしまいそうだ。
「まぁ、俺はすり抜けられるけどな……ってダメか。直せないし」
口では否定しつつも、今の霊にはドアノブをひねる力はない。
扉をすり抜けて中に入る。
日が昇り始めていて、明かりのない部屋の中でも様子が見てとれる。
片足がすり減って不恰好な椅子、埃の溜まった小さな机、相対的に、部屋で1番の存在感を放つベッド。
その上には、1人の少女が横たわっていた。
年は10くらいだろう。浅く呼吸をしているが、あまり正気を感じない。
「ただいま。いい子にしてたか」
霊はゆっくりと少女の側に向かい、声をかける。
当然、言葉は返ってこない。
だが、そんなことは意に介さず、虚な身体で彼女の頬に触れようとする。
当然、触れることはできない。
にもかかわらず、この瞬間だけは、霊の表情が和らいでいるようだった。
「きっと、もうすぐお前は――」
彼の存在と同じように、少女に向けた言葉は宙に漂っていた。
霊はすぐに引き返し、部屋を出ていく。
足はなくとも、その足取りには決意が滲んでい
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