母親
数多くの検査を経て病室に戻った大君が時間を持て余し始めた夕方、昴流が尋ねて来た。昴流は病室に入るなりネクタイを外し、背もたれのないパイプ椅子に前のめりに腰掛けた。
「父さん、おめでとう。検査結果では何処も悪いところは無かったよ。明日には退院できるって先生が仰っていたよ」
「あれだけの検査結果がもう出揃ったのか? 早いな」
「父さんの頃は時間かかったの?」
「まあ人間ドッグのようなものだとしたら、こんなに早かったかな?」
「じゃあ、一応は進歩してるってことなんだね。技術的な問題かは解らないけど」
「ああ、そう言われてみればスタッフも充実していたかも知れないな。なんかこう、未来ではもっと爺さん婆さんが多くて若い人が大変みたいなイメージがあったけれど」
「ああそれね。それだったら僕が一役買えているのかも知れないよ?」
「どう言うことだ?」
「うん、まあ……そのうち解るよ」
「もしかして御面さんが言っていた、世界を変えるような何かってヤツかい?」
「あれ? 父さん、御面さんに会ったの?」
「今日の昼な、向こうから話しかけてきた」
「何か言ってた?」
「いや別に。昴流のことを天才だって褒めてたよ。自分の息子のように思ってるとも」
「恥ずかしいな。でも、御面さんは僕にとっても母のような人だよ」
「の割には法外な金額を要求されたようじゃないか」
「はは、出資者は無理難題を仰るものだよ。それにそれは多分、僕のことを考えてくれた上でのことだと思ってるけどね。ほら、あんまり早く起こし過ぎると、また父さんが思い悩むリスクが高くなりそうだとか、僕の仕事や家族の問題……そう言うのを一番気に掛けてくれていたのは御面さんなんだから。僕がその金額を用意した時もね、父さんは起こすけれど金は受け取らないの一点張りでね。押し付けるのに苦労したよ。本当に善意の塊なんだからあの人は。少なくとも僕はそう信じているし、信じていて間違いは無かったと思っている」
「なら良かったよ。実は父さんも御面さんには本当に感謝をしている」
「でしょう? 僕がここまで頑張れたのは全て御面さんのお陰さ」
「全て、ね……なあ昴流、母さんは元気にしているのか?」
そこで露骨に表情が強張ったのを大君は見逃さなかった。
「いいや、知らない。僕は中学を卒業するのと同時に全寮制の高校へ入学し、あの人からは完全に離れたから」
「連絡も取っていないのか?」
「うん」
「どうして?」
「別に」
「会いたくないのか」
「うん……ちょっと色々あってね。そのうち話すよ」
「父さんが言えた事ではないけれども……その、親がいないと色々あるだろ」
「うん。でも、その辺りの問題は全部御面さんが後ろ盾になってくれたんだ。だから、僕に母と呼べるような人がいるとするなら、それは御面さんだけだよ」
「そうか……」
そこで会話を打ち切るように昴流が手を叩いた。
「ともかく、今日は検査結果が良くて安心したよ。先生が言うには今日一日はここに泊まって、明日朝に退院できるそうだから、また明日迎えに来るよ。今日は申し訳ないんだけど、ちょっとこの後忙しくてね」
「ああ、わざわざ有難う。父さんのことは気にせずに行ってくれ」
「ゴメンね。ああそうだ、これ、父さんの連絡用携帯端末だから使ってみてよ」
「スマホ?」
「ああ、流石に今はちょっと呼び方違うけれども……携帯電話には変わりないからまあ馴れてみてよ。僕に繋がるようにもなってるから、何かあったらすぐ連絡ちょうだい」
「何から何まで悪いね」
「何言ってるの、親子だからね。35年間、いや38年間を取り戻すんだ、これから」
「うん、そうだな、そうだ。父さん、昴流がどんな大きなことを成し遂げたのか、知るのが楽しみだ」
「やだな、ちょっと恥ずかしいよ」
「照れることないじゃないか。父さんも誇らしいよ」
「ありがとう父さん。本当は、父さんに褒めてもらうのが楽しみでもあったんだ。でもやっぱり恥ずかしい気持ちもあってさ……父さん、これからは褒めてくれるのも嬉しいけど、反対に何か悪いところがあれば僕は叱っても欲しいんだ。その、年は僕の方が上になってはしまったけれど、僕にとって父さんは父さんしかいないんだから」
「叱る、か。今や昴流の方が父さんなんかよりよっぽど立派だけどな」
「とんでもない、僕だって欠点だらけさ。周りからは良く感情や人間味が無いとか言われる始末でさ、自分でも解ってるんだ。でも、昔からちょっと人より要領の良いところがあったから叱られることに慣れてなかったし、僕自身、人に何か言われてもプライドが邪魔するって言うのかな、この年になるとなかなか素直に聞けないんだよ。でも、それが父さんだったら素直に聞ける、そんな気がするんだ」
「……解った。そしてゴメンな。俺は褒めるのも叱るのも、昴流に十分してあげられなかったんだな」
「大丈夫。きっとこれから時間は取り戻せるよ。今日父さんと話せて、それを確信した」
「父さんもだよ。……時間、大丈夫なのか?」
「うん、ゴメン。また明日来るよ。その時はビックリさせてあげるからね」
「楽しみにしているよ」
そうして昴流は病室を出て行き、大君はまた一人になった。ベッドに仰向けになってぼんやり天井を見上げては昴流との会話を思い返し、父親として会話が出来ていたかどうかを自問していた。