おとぎ話
いつの間にか病室で眠りに落ちていた大君が目覚めたのは翌朝のことだった。
「夢じゃなかった。俺、生きてる。本当に生きてる……死ねてない」
そう言って自分の手を見つめてもまだどこか実感の伴わない大君を現実に結び付けたのは、その後の色々な検査の連続であった。その病院の設備だけを見ても、その世界が自分の知る世界の35年後だということが伺えた。
次の検査まで時間があると聞いて大君は病院の中庭へ出た。日の光の暖かさに誘われるようにゆっくりと歩き、やがて見かけたベンチに腰を下ろした。小さく息をついて軽く全身を伸ばしてから深呼吸をする。
「こんにちは」
そこへ一人の老婆が近づいて大君に話しかけた。
「こんにちは」
「お隣、失礼しても?」
「もちろんです、どうぞ」
「ありがとう」
老婆はゆっくりとした動作で大君の隣に腰掛けた。
「少しお話よろしいかしら?」
「もちろん」
老婆は微笑みながら何度か頷いて、それから視線をまっすぐ宙に向けて話し出した。
「初めに名乗っておくわね、私は御面寿満子。35年前、貴方に死神と名乗った者よ」
「ああ、やっぱり。そんな気がしていました」
「あら、勘が鋭いのね。どうして解ったのかしら?」
「根拠は何も。ただ、安楽死したものだと思っていたのに話が違ったものだから、もしかしたら何か説明があるんじゃないのかな、とも思っていましたので」
「そうね。まさに私が現れたのは、そのためよ」
御面は再び視線を大君に戻し、小さく頭を下げた。
「ごめんなさいね、私は貴方を殺さなかった。怒っていますか?」
「いいえ、どちらでも」
「そうね、そう言うと思っていたわ。でも、だから殺さなかった訳じゃないのよ?」
「理由を尋ねても?」
「何故でしょうね。死ぬ気が無い人を殺すのが私の矜持に反していたのかも知れないし、本当に好きになってしまったのかも知れないし」
「最後のリップサービスでも、嬉しかったですよ」
「でも結局のところ、執行しなかった理由については、私の中では貴方の命を買ったということで納得してきたわ」
「マジだったのか」
「そして貴方の息子さん、昴流君に高値で売ったわ」
「酷いビジネスだ」
「採算なんか取るつもりは更々無かったのだけれどもね。養育費が途絶えて可哀想だとも思ったし、ほんの少しの好奇心からまだ中学生になったばかりの昴流君を探して本当にサポートしてみようと思ったのよ。そしてこう伝えた。君にかかった費用、つまり喜屋武さんが私に命を売った額を返せたら君のお父さんを返してあげるってね。娯楽よ」
「そんな事を言ったんですか?」
「勝手をしてごめんなさいね。でもね、そしたら昴流君、すぐに買い戻しますって即答したわ。そしてそれから本気になった彼の成長は著しいものだった。それを見守っているうちにね……いつしか私も昴流君の気持ちに全力で応えたいと思うようになったわ」
「ああ、そうか。起こすのが遅くなってゴメンとは、そういうことだったのか」
「勘違いしないでね。昴流君がその金額を完済したのはもうずっと前のことなのよ? 彼は想像を絶する程の天才だった。困ったことに当初の金額なんて本当にあっと言う間に完済してしまったの。貴方を起こすには早過ぎると思える程にね。だから私は、彼に別途法外な金額を課した。どこまで彼が伸びるのか、私の興味はそこに移って行ったわ。正直その頃にはもう、私には彼が息子のように思えていたのね。そして、私の課したその有り得ない要求をも、彼はとうとう達成してしまった。本当に暴利を貪るつもりは無かったものだから、後で少しずつ理由をつけて何かの形で、とは思っているけど、ふふふ。死ぬまでに返し切れるかしらね、逆に私が困ってしまうわ」
「昴流が? そんなに凄い事を成し遂げたのですか?」
「それはもう、世界を変えてしまったくらいのことを言っても過言ではないくらいにね」
「そんなことをあの昴流が……?」
「ええそうよ。今のこの世界はユートピア、素晴らしいわ。人々は誰もがその生活の最後の瞬間まで恐れを抱かず、生を全うするの。彼の功績よ」
「俺にはまだそれが何なのか解りませんが、それは凄い、とても凄いことなんでしょうね」
「でもね。やはりそれはそれで、問題があるようにも私には思えるのよ」
「先程の綺麗な言葉の中に感じる、どこか薄ら寒さを覚えるもののことでしょうか」
「そうね、それはまるで彼自身を表現しているかのよう。合理的過ぎる、愛を知らない、なんて言葉で言ってしまえば簡単だけれど、残念ながら、それは誰にも彼を責めることはできないことだとも思うのよ」
「多分それは、俺に大きな責任があるのでしょうね」
「ええ。そして彼を嗾けた私にも、彼の母親にも、彼を育てたこの世界にも」
「俺に、親としてそれを何とかしろってことですか?」
「いいえ。だって私にはそれが間違っているだなんて断言できるはずが無いのだもの。この世界は決して綺麗なものばかりだなんて有り得ない。昔からそうよ、最先端の技術から御伽噺に至るまで、この世の全てに至るまで」
「この世の全てとまで言いますか」
「そうね、では一つ変な話をしましょうか。喜屋武さんはマッチ売りの少女という童話をご存知かしら?」
「はい。確か舞台は中世のヨーロッパ辺りでしたっけ? クリスマスの日にマッチ売りの少女が人々にマッチを買って貰えず、凍えて死んでしまうお話でしたよね?」
「ええ。それは可哀想なお話なのだけれども、私の考えで言えば、彼女が本当に売っていたものは麻薬の類なの。マッチはただそれに添えるだけのおまけね」
「それはまた突拍子もない考えですね」
「そうかしら? 私がそう考える理由は3つ程あるのよ。まず一つは、雪の降る夜の街中にそれを売って来いと娘を家から追い出して自分は酒を飲んでいる。そんなクズな父親が属していそうな社会的集団とは? そしてそんな集団が取り扱っている商品とは?」
「なるほど」
「二つ目は、私が子供の頃に読んだ絵本では、少女は手提げの籠にマッチを入れていたのだけれど、いくら中世と言えども、そんな籠一杯程度のマッチで生活費が稼げたものなのかしら? 本当はもっと高価な物を売っていたのではないのかしら?」
「確かに言われてみれば」
「そして最後、少女が最後にマッチを擦って見たものとは?」
「ああ、幻覚だ」
「ね、そう思えてきたでしょう? これ以降は完全に推論だけれども、更に言えば少女は普段、春を鬻いでもいたとも思うのよ。普段はそこで暖を得られていたから死ななかった。でもクリスマスイブの夜、多くの男性はみな家族の元へ帰り、自分を買ってくれる客はいない」
「確かに、その日だけが寒かった訳ではないだろうし」
「だからこの物語の真実はこう。ある日、一人の売春婦兼麻薬の売人が凍死していましたが、人々は聖なる日の汚い話を嫌って程良く悲しい話に作り変えましたとさ」
「酷い話ですね」
「そうね。でも、例えその裏話が真実であったとしても、誰もそれを正さないし何も起こらないでしょう。仮に正したとするならば、きっとそのつまらない物語は消えてしまうでしょうから。だから、私は別に昴流君の作り上げたものを直していこうとは思わない」
「では結局、貴女は俺に何をさせたいのですか?」
「何も。だって貴方はもう彼によって私から買い戻された身、自由なのよ。だから生まれ変わったこの世界で、好きなように生きて、感じて欲しいとも思うし、まだ35年前と同じように目的を見出せず死を選ぶと言うのなら、今度こそそれを止める術はないわ」
「……自由、ですか」
「ええ。ただ、また死を選ぶと言うのなら、貴方のために大変な努力を払った昴流君があまりにも不幸だと思ったから、老婆心で貴方の前にこうして釘を刺しに来たのよ」
「ああ、そうか」
「そして、もう一つ。今度は私の矜持として、貴方からの依頼に反した、これを正しにも来たという訳よ」
「もしかして今更俺を殺しに来たんですか?」
「いいえ、それを決めるのは貴方に委ねようと思うの」
「どういうことですか?」
尋ねる大君の手を取って、御面は小さなケースを握らせた。
「こんなお話もあったわね、浦島太郎。助けた亀に連れられて海の底の竜宮上へ招かれたのだけれど、彼が地上に戻ると長い年月が過ぎており……今の貴方に似てるわね」
「つまりこれは?」
「薬品名スコロリン。飲めば苦しまず十秒で眠るように死ねるわ。これを、玉手箱として貴方に渡しておきますからね」
「大丈夫なんですか、これ」
「ええ。内臓類にも一切影響を残さず、死後にも何ら反応を残さない。死因は心臓麻痺になるのかしらね」
「凄い薬があったものですね」
「ええ、伊達に貴方が眠りに就いてから35年も経ってないわ。だから安心して、服用してもご家族に変な疑いが向くようなことは無いはずよ。でもそうね、他人には使っちゃダメよ? 特に殺したい程恨んでいるという元奥様などには決して」
「使いませんよ、あんな人間に勿体ない」
「あら、そう?」
「飲むなら間違いなく自分自身でしょうね。でも今は少し、この世界に興味が沸いてきたところでもあります。どんな風に変わったのか、昴流が何を成し遂げたのか。それを見てみたい。だから今のところは、この薬が使われることは無いでしょうね」
「あら、貴方にとってはつい先日のことなのに嬉しい変化ね。彼の気持ちを考えると私も嬉しいわ。でも薬は受け取ってね。判断こそ貴方に委ねたものの、35年前、貴方から受けた依頼については、それで応えたことにして欲しいのよ、殺し屋としての私がね」
「何から何までありがとうございます。貴女に、御面さんに出会えて本当に良かった」
「私もよ。これからも昴流君のことは影から見守っていきたいとは思っているけれど」
「ありがとうございます。御面さんは、まさに命の恩人だ」
「それ、殺し屋に言う台詞じゃないのよね」
「いや、案外そういうものなのかも知れません。綺麗だと思っていた物語の裏側が汚れているように、殺し屋の内側は聖者のようにあるのかも知れませんね」
「汚れた手を褒め過ぎよ。では、私はもう行くわね。何かあればこの病院に来て頂戴。もう現役は退いてしまったけれども、これでもここの病院を管理していたこともあるのよ、口は聞けるわ。今はこうして、ただ日向ぼっこをしながら散歩をするだけのお婆さんですけどね」
「ありがとう。本当に、ありがとうございました」
御面は慈愛に満ちた表情で答え、ゆっくりと歩いて去って行った。