第2章 蛇屋の娘の本領、らしい 2
珊瑚はとっさに壁面の手すりに摑まる。
かと思うと、妙な方向に強い重力がかかり、珊瑚のマットベージュのトランクが音を立てて床を動く。
追いかけて、手を伸ばそうと腰を浮かせかけた珊瑚に、シキが黙って手を出して遮る。
顔を見ると、ちょっと待て、というように真顔で首を振っていた。
「そうね」
大人しく、珊瑚は据え付けの座席に座り直す。
こんな時は、焦って動かない方がいい。シキの言うとおりだ。
胃のあたりに不安な感じの負荷がかかり、いやでも緊張が高まってしまうのをまぎらわそうと、珊瑚は大きく深呼吸する。
大丈夫、きっと気流が荒れているのだろう。
「ヘリでは、よくあることよね」
「まぁね」
シキがそう言ったきりこちらを見ないので、珊瑚は首をかしげた。
シキの視線をたどると、彼女はじっと操縦席を見つめている。その目つきは真剣で、ともすれば、このへたくそめ、と咎めているようにも見えたので、珊瑚はなだめるように声をかけた。
「風や気流の影響を受けやすいヘリや小型の飛行機では、このくらい揺れるのは珍しくないわ。仮にも操縦士はプロなのだし、大丈夫よ」
「いや」
だが、片手でベルトを外してシキは立ち上がる。
「そうでなくて」
「えっ、なに?」
「なんか違う」
揺れに揺れているヘリの中で、シキは器用にバランスをとって後ろから近づくと、操縦士の肩に手をかけた。彼は、まったくと言っていいほど反応しない。
珊瑚の胸に黒い不安がよぎる。操縦に集中しているだけなのだろうか。職務に忠実なプロフェッショナルだから? それでも、ちょっと顔をあげるとか、大人しく座っているよう注意を促すとか、してもよさそうなものだ。
がくん。
機体が再び大きく沈み込んだ。内臓を掴まれるような気色悪さに、珊瑚は奥歯を噛みしめる。
シキはというと操縦士のヘルメットに手をかけて、咽のあたりに顔を近づけた。くんくん、と犬のように匂いを嗅いでいる。操縦士とはヘリに乗りこむ前にちらりとあいさつを交わしたのみだが、確か、二十代後半と思しき男性だったはずだ。印象は格別良くもなく悪すぎもせず。送迎する生徒を前にしてもガムをずっと噛んでいたのが幾分投げやりな態度といえなくもないけれど、上下つなぎの作業服を着込んだ姿は中肉中背で、これといって妙なところもなかった。
深くかぶったヘルメットのせいで男の表情は隠れているが、操縦士の口元は半開きで、口の端からは白い唾液が垂れていた。
「ダメだ、これ」
「えっ?」
聞き取れなくて珊瑚は声を張り上げる。
「死んでる」
声はやはり聞こえなかったが、口の動かし方でそうとわかった。
(死んでる?)
どういうこと、どうして。
珊瑚はパニックを起こしかけたが、シキの行動は大胆かつ、素早かった。
「ええいくそ、重てっ」
男の体を両手でつかんで横倒しにすると、空いた操縦席に自分がおさまる。
男は横倒しになったままぴくりとも動かない。
「えっ、あなた、操縦なんて」
「まーなんとかなる!」
「できるの!」
「蛇屋の娘、なめんな」
やけくそのようにそう返しながら、もう彼女の両手は操縦桿をつかんでいる。珊瑚にはどれがどれやら見当もつかない計器を見る目つきは意外にも落ち着いていて、彼女にまかせておけば大丈夫なのかもしれない、そう思わされた。
少し安心できたところで、珊瑚はちらりと操縦士の方を見る。
死んだってなに、どういうこと。そしていつから。
斜めになったまま動かない操縦士のゴーグルをあけてみる気には、ちょっとなれなかった。
(事故、なのかしら。それとも)
「危ないから立つな、座ってろ!」
シキに叱られて、珊瑚は慌てて座り直した。
「……は、いいんだけど」
「えっ、なんですって?」
シキが顔をしかめてなにか口にしたので、珊瑚は応じる。シキにはああ言われたが、やはり座席に座っていると操縦席との会話はしにくい。勝手な判断でベルトを外して、座席の真後ろに移動する。
「操縦はいいんだけど!」
はい! と元気良く珊瑚は応じた。
「わたくしでなにかわかること、あるかしら!」
「ぶっちゃけ島の方向がわからん!」
「しまの、ほうこう」
一拍おいて、今度こそ、珊瑚は甲高い悲鳴をあげた。
「うるせええ耳元で叫ぶなああ」
「だって、だってヘリで迷子なんて致命的じゃない!」
「そんなこと言ったって仕方ないだろう! じゃお前わかんのかよって話で!」
「ごめんなさいわかりません!」
「燃料切れになる前に見つかるといいなあ! 島の名前なんだっけ黒石島だっけ!」
「いやあああああ」
「くそー、なんでヘリにはナビがついてないんだよ。車みたいにさー。空には標識もないしさー」
「知りませんわ!」
◇◇◇
私立金葉学園の建つ黒石島では、ふたりの人影がヘリの到着を待っていた。
ひとりは背の高い男で、もうひとりは白と黒の制服をきちんと着こなした女生徒だ。
「そろそろ、ついていてもおかしくない時間なんだけどな」
古風な懐中時計を目にして言ったのは長身の男だ。
彼は暑いのか、黒い上着のマオカラーの襟元に指を差し込んでいる。年頃は三十代半ば、ひどく整った顔をしており、アッシュゴールドの長めの髪をきれいに撫でつけている。彫りの深い顔立ちはひと目見てアングロサクソン系とわかるものだが、その瞳とまつげは夜闇を思わせる漆黒、そして薄い唇から出るのは流暢な日本語だった。
「遅れるという連絡は受けていないが……なにか手違いでもあったかな」
「新しい生徒ですか」
「そう、ふたりね」
隣の女生徒の問いに、彼は口の両端を持ち上げてわずかに微笑んだ。
彼の丁寧に整えられた髪と隙のないたたずまいは学校関係者というより映画俳優のようだったが、女生徒はにこりともしなかった。
「寧々(ねね)、色々と教えてあげてくださいね、彼女たちに」
「……どちらも、女生徒なんですね」
そう、と彼がまた微笑む。
「なんといっても、あなたが一番ここが長いのですから」
甘く魅力的な笑顔だったが、寧々と呼ばれた女生徒はきっと彼をにらみあげた。
「好きで長くいるわけではありません。学園長先生」
「それにしても、今日は暑いな」
男はそれを上手に無視して、手でひさしをつくると青い空を見上げた。
「ああ……見えた。あれかな」
風が吹くと、彼の体からは甘い葉巻の香りがする。彼の視線につられる格好で銀色に輝く機体を見つけて、女生徒はかすかに首をかしげた。
「なんでしょう、やけにふらついていますね。今日はそれほど風もないのに」