第7章 いつのまにかなってた 4
「ねえ友達になってよ」
自分が主導権を取って話せば、恥ずかしさも半減するのだとその時わかった。
シキがあらぬ方向を向いて顔を見せないので、珊瑚はどんどん続ける。
「黙っていたら、わたくしどこまでも話し続けちゃうから。最初に会った時も、今だってわたくしは正式にはあなたの客じゃないのに、あなたはわたくしを助けてくれたでしょう。それってどうしてなのとか。あなたの方もわたくしのことを友達だと思ってくれてるからなんじゃないのそれは、とか。あとほかにも」
「あーもーうるさあい」
明らかに誰が見ても照れ隠しとわかる言い方で、シキは返した。
「見た目はふわふわと大人しい感じなのに……ひとたびスイッチ入ると口が回ること回ること……」
それが御堂寺の血よね。その通りね。珊瑚と寧々が真顔で言い合うのを、シキは無視した。
「少し閉じようよ。その口」
「いやよ。もう友達でしょって、あなたが言ってくれるまで黙らないわ」
「言う隙も与えないどいて! よく言う」
「あなたが本気で困っているなら、やめる」
珊瑚はじりじりと降りていって、シキの隣に並んで腰かけた。コンクリの階段は、ふたりが並んで腰を下ろすとちょうどいっぱいになる幅だった。
「強引に、ぐいぐいしている自覚はあるから」
「困ってないよ」
言葉とは裏腹に、どこか困ったような口調でシキは言った。それは耳を済ませて静かにしていないと、波の音に打ち消されそうな小声だった。
「仕事柄さ、ツテは多いけど、友人っていないから」
やっぱりそうだったのだと珊瑚は思った。自分が彼女の身になってみればわかる。依頼人と友人の境目をあいまいにしていては、仕事としてやっていけないだろう。
「だから、どうしていいのかよくわからなくて」
「照れたのよね」
うるさい黙れ。と反射神経で返してからすぐ、シキは口調を変えて言った。
「いいのかな……蛇屋なのにさ、友達をつくっても」
「わからないけど」
今だ、と珊瑚の胸の中でなにかがささやいていた。言うのよ、あなたが言われて嬉しかった言葉を。
「一緒に考えてみたらいいんじゃないかしら」
ふと、シキの体のまわりにある空気が柔らかくなったのを珊瑚は感じた。
「ふふっ、一緒にか」
揃えた膝の上に顔を伏せるようにして、シキは笑いを漏らす。
もう返事を聞かなくてもいいや、と珊瑚は思った。
シキが言葉にしない部分まで気持ちは正確に伝わった気がして、珊瑚は両手を大きく前に伸ばし、深呼吸をする。絡み合わせた両手の指の隙間から、もうすっかり顔を出しきった朝日が眩い光を投げかけていた。
気持ちいい、と珊瑚は思う。こんなに朝って明るかったかしら。
「さあて……帰ると決めたのはいいけれど、帰ったら帰ったでまた大変だわ」
「なにがさ?」
顔を伏せた状態のままでシキが応じる。
「見合い話をきっちり断る文句を考えないとね」
それから白いセーラー服の半袖に包まれた腕をまじまじと見つめて、眉をひそめる。
「それに、随分日焼けしたなって言われてしまうわ。速やかにもとに戻しなさい、とも」
「なにそれ。束縛激しい彼氏?」
「父よ」
気持ち悪い。寧々とシキ、女ふたりの声がそろった。
伏せた顔を少しずらして、シキは顔の半分だけをのぞかせる。
「ねえ、珊瑚のおじいさまって、怖い人?」
「筋を通せば怖い人ではないわ。少なくともわたくしには」
「今の御堂寺の最高権力者は、おじいさまなんでしょ。父親じゃなくて」
「そうね」
「もうさ、普通に断っちゃえばどうよ」
「普通にって」
「あの人はいやですって言うの」
「理由を尋ねられたら?」
「喰い足りませんって」
珊瑚は思わず吹き出してしまった。数段上の階段では朝彦が膝の上に頬杖をついて憮然としている。
「あのねえお嬢様がた。ここにね、本人いるんですけどね」
「いいかもしれないわね、それ」
ちょっと! と朝彦が異議を差し挟んだが、珊瑚はそれをほとんど聞いていなかった。
いいよ、ここを出たら改めてきちんと申し込むからさ。とぶつぶつ言う横で、寧々が細い眉を不機嫌そうに持ち上げた。
「あなたたち……私の前でよくも、そんな話ができるわね」
珊瑚とシキが彼女の方を振り仰ぐ。その、心からわけがわかっていなさそうな表情に、寧々は声を大きくした。
「無神経でしょ、帰るとか出るとか!」
「──ああ」
シキが、得心したというように軽くうなずく。
「そうか。出られないんだっけ」
「うちの父のせいでね」
「出してあげよっか」
「わたくしも、出してあげられると思う」
ふたりは無言で首をかしげ、どうする? というように寧々の返事を待っている。寧々はというと、ずいぶん長いこと沈黙していた。その黒目がわずかに彷徨っているので、返事に窮するというよりむしろ、言われたことを理解することに時間がかかっているのだとわかる。
「えっ……ちょ、そんな……急に」
寧々の動揺が冷めやらぬうちに、シキが四つん這いになって階段を上がっていき、胸ポケットからよれよれになった名刺を出した。
「その気になったら、これ」
「そんなもの持っていたのね、あなた」
自分はもらった覚えがないと珊瑚がちょっと眉をひそめる。
「ご贔屓にどうぞー」
寧々は、差し出されたくしゃくしゃの紙片をしばらく見つめていた。やがて、体が勝手に動いたというようなうつろさで片手が動き、だが名刺に触れる寸前で素早く引っ込められる。
寧々は両手を体の後ろに隠すと、そっぽを向いた。
「むかつく! いやよ、自力で出ます!」
「ナイスガッツ」
「そうね」
シキが言って、珊瑚もうなずいた。
妙な清々しさがあるのは不思議なことだと珊瑚は思った。四人が四人とも、割と激しくぶつかり合っていたはずなのに。居心地よく守られていたかといえば、決してそんなこともなかったのに。
思えば最初からなかなかハードな経験だった。蛇を目にして気絶もしたし、ヘリに酔って嘔吐もした。時間は短かったがスパルタで勉強を教えもしたし、嵐の夜に突き飛ばされもした。こんな経験を期待していたわけではなかったが、思い返せば、すべてはこれでよかったと感じる。
自分に限らず、誰にしても、人間はどこかで我が儘な素の部分を出さないと、うまくバランスが取れないのかもしれないな、と思いながら、珊瑚は言った。
「あなたに相談してよかった」
「そう?」
シキはそうとだけ言って、小さく笑った。
きれいな人。──そう、珊瑚は思う。
空は淡いラベンダー色から透明感のあるブルーへと変化しており、シキの背後に見える部分はまだ夜の気配が残っている。だが、東の空には太陽が顔を出しており、シキの顔をまばゆく照らしていた。
きれいなのはきっと、自力で立っているからなのだと思った。
シキこそが、本当は孤独だったのかもしれない。
人並みな生活はしたことがなく、同世代の友人もおらず。
そこだけ見れば自分とまったく一緒なのに、この人がこんなにきれいに見えるのは、自立した強い精神のためなのかもしれない、と。
──この人みたいになりたい。
憧れと親愛、それに尊敬の気持ちを込めて珊瑚はシキを見つめた。
シキは目を細めて珊瑚を見返している。その日焼けした頬には朝日が当たって、産毛が金色に光っていた。
それはなにか神聖なもののようで、珊瑚がしたことが間違ってなかったご褒美にどこかの誰かが特別にきれいな光景を与えてくれているようで、珊瑚は声もなくそれに見入った。
今目にしているものを、忘れないようにしようと思った。
これから先、自分の思うように進まないことがあって落ち込んでいる時にはきっとこの時のことを思いだす。
そう心に刻み付ける珊瑚自身は、気付いていなかった。
朝日を浴びて、自分がまるで発光しているように見えていることを。
ふわふわの髪は陽に透けて金色に輝き、潮風に揺れている様はまるで天使のように見えていることを。
決意を胸に秘めた今の珊瑚は、甘やかされたようにも弱々しくも見えないことを。
だから、シキがどうして目を細めて、まぶしいものを見るように自分をいつまでも見つめているのか、ずっと、知らないままだった。




