第7章 いつのまにかなってた 3
「あなたは、諜報なのね。東郷朝彦」
珊瑚が言うのに、朝彦は視線を動かして彼女の方を見た。その瞳には何の色も浮かんでいない。
「政治なのだとばかり思ってた。でも違うのね」
「うん。祖父が政治家なのは本当だけど」
政治、経済、諜報、法曹、医療、軍事、宗教。
御堂寺家が管理・統括する七つの事業を、朝彦はつるつると暗唱してみせた。まるで、生まれながらの御堂寺の人間のように。
「今の御堂寺に、弱いところが諜報なんだってさ。僕があなたと結婚して御堂寺に入れば、それがうまいこと強化される」
「それによって、あなたの家も利益を享受できる」
「──だね」
なるほど、と珊瑚はようやく今回の見合い話を正確に理解する。
おかしいと思ったのだ。いち政治家の孫など、御堂寺の本家に婿入りさせるにしては、どう考えても釣り合わない。
だけど、『諜報』としてなら。
「そういう話だったのね……」
朝彦はにこにこしている。
「うちにとってももちろんいい話だけど。でも前にも言ったでしょう。中途半端なバカは困る」
「それでわたくしを観察していたのね」
「そゆこと。君は合格」
親指を立てて満面の笑みの朝彦から、ぷいと珊瑚は顔を背けた。
「試されて、合格だからと言われて喜ぶ女などいないわよ」
これに、寧々がいやそうな顔をしたのが視界に入って、言ってしまってから珊瑚は気づいた。そんなつもりはなかったとはいえ、寧々に対する痛烈な皮肉だったのだと。
四人が話している間にも、水平線からは朝日がまっすぐあがってくる。まぶしそうに目を細めて、シキが両手をあげて伸びをした。
「あーもうあの伊勢海老も食べられないのかー」
「なんなら、変わって差し上げてもいいのよ」
とげのある口調で寧々がシキをにらみつける。
「へへ、遠慮するー」
相手が無力な時もそばにいたいか、という朝彦の言葉が耳によみがえってきて、珊瑚はハッとした。それが友達の条件だとするなら、自分ははじめから、彼女にとって無力な存在だったはずだ。彼女がヘリの操縦に悪戦苦闘していた時も、自分は金切り声をあげて怯えることしかできなかったのだし。
(挙句の果てに、吐いて……)
だがそんな自分を、シキは抱きかかえておろしてくれた。ベッドまで運び、冷たい水で濡らした布を目の上に置いてくれた。
(べたべたに甘やかすようなやり方ではなかったけれど、当たり前の顔をして、世話を焼いてくれた)
寧々となにやら軽口を叩き合っているシキの背中は、シュッとしていて、まっすぐで、贅肉のひとつもついていない。
(無力だったのに、シキは一緒にいてくれた……ずっと)
もう、最初の依頼は無効になった。新しい頼み事も特にない。
(ここで別れたら、もう二度と会えない……?)
急に心臓がどきどきしはじめる。
(嫌だわ、そんなの嫌。ノーよ、絶対にノー)
なにか言わなくてはと気持ちばかりが先走る。でも、なにを言えば?
『友達になって、って言えば?』
いつかの大伯母の台詞が耳によみがえる。
『子供じゃあるまいし。わたくし六歳ではなくて十六歳ですわ?』
あの時は憮然とそう返した。
だけど、なら他になんて言うのかと考えると、情けないことになにも思い浮かばない。
「あのね」
半ば強引に話に割って入ると、シキは、なに? というように屈託なく珊瑚の顔を見上げた。
寧々も朝彦もすぐそばにいて、階段は狭いし、逃げ場もない。この状況で言わなければいけないのは羞恥以外の何物でもないが、恥ずかしがっている場合ではないのもわかっていた。
「シキ、あなたはひとりでなんでもできる人だわ」
「──それは珊瑚でしょ」
だから、わたくしなんか必要ないのかもしれないんだけど、でも。
そう言おうとしたのだが、予想外の言葉で遮られた。珊瑚は目をぱちくりさせる。
「ここに来るまでも来てからも、ずっと頑張ってたでしょ」
「そう、かしら」
「はじめてのこともたくさんあって、勝手のわからないことも多かったろうに。文句言わなかったよね」
言われて珊瑚は思いだしてみた。
生まれてはじめての二段ベッド。食堂で他の生徒と一緒になって食べる食事。習った授業。逃げる伊勢海老。同じ年頃の少女たちとのお茶会。帰ってこない同室の少女を、いらいらしながら待つ夜のこと。
「割と、楽しかったわ」
それを聞いてシキは肩をすくめた。
「そう言えちゃうのがすごいよ。普通、言えないよ?」
「待って、褒めないで」
珊瑚は慌てて片手の平をかかげた。
「どうして」
「言おうとしてることが言いにくいからよ」
「あと、夜刀を助けてくれたこと。まだお礼言ってなかったよね、ありがとう」
「お礼も!」
こんな狭い階段でなかったら、十六歳でなくて六歳の子供だったら、足をじたばたさせたい気分だった。シキはそんな珊瑚の様子には構わず続ける。
「こいつによくさわれたよね。蛇屋以外でさわれる人、あんまりいないよ」
「夜刀ってなに」
事情を知らない朝彦が呑気に聞くので、シキは黙って胸元をあけてそこからニシキヘビの頭をのぞかせた。朝彦の濁音の悲鳴が響く。寧々は一度見ているので悲鳴をあげることはなかったが、足元があとじさろうとしているのが珊瑚のところから見えた。
「ねえ、シキ」
「なに」
シキは朝彦を脅かすのに夢中なふりでこちらを向かないので、表情が読めない。
冗談ではぐらかされているのだろうか。それとも、蛇屋は特殊な職業なので、機密保持のために特定の友人は作らないのだろうか。
(迷惑、だろうか)
そう思った途端。
朝彦と目が合って、彼はちょいちょいと指先を使って合図した。耳の、後ろ? 見ろって?
珊瑚は軽く首をかしげて朝彦の視線の先をたどり、それを見つけた。
(……あっ)
日焼けしていてわかりにくいが、シキの耳の後ろが赤く染まっていた。
大伯母様、と珊瑚は思った。先人の知恵をお借りしますね。
そばで見ていた寧々と朝彦の言によると、この時珊瑚はすっと背筋を伸ばしたらしい。
「シキって、どういう字を書くの」
「こころざすに、希望のき」
背中を向けたままシキは答える。
「上野のあのお店が住居も兼用しているの?」
「えっ、あたしそんなこと話したっけ!」
びっくりしたようにシキは振り向いた。話していないし聞いたこともないと珊瑚は思う。でもあれだけの蛇を、シキが面倒見ないはずがない。他人まかせにするとも考えられない。それなら、導き出される答えはひとつではないか。
「わたくしの家は、来たことあるからわかるわね。今度から、正門から来てくれればわかるよう、家のものに言っておくから」
「えっ」
「連絡先も、あとで教えるから」
「えっ、ちょっと……」
シキはうろたえた声を出したが、珊瑚はぐいぐい押し続けた。
「絶対よ、必ずよ。連絡なかったらわたくし店に押し掛けるからね」
あーこの人の押しの強さ、御堂寺の血だよねえと朝彦が横で言い、私は似なくてよかったわと寧々も続けた。
なんだ、やってみたら簡単だったんだわと珊瑚は思った。
相手の言葉を待っているから切ないのだ。相手の反応を引き出そうとしていたからもどかしいのだ。自分から言えばいいだけだったのだ。
「友達になって」




