第6章 台風の夜 2
「ここで、それを誓えばいいの? そうすれば、シキには手を出さないでくれるの?」
「服従の仕方を教えてやろう。服を脱げ」
落ち着いていたはずが、かっと頭に血がのぼった。
冷たい床についた両膝が少しずつ痛くなりはじめる。
「私に取りこまれるというのがどういうことか。教えてやる」
「なぜ、あなたの前で脱ぐことが、取り込まれることになるの」
クックッと、卑しい獣じみた笑い方を彼はした。こんなことをしているのが今回初めてではないどころか、これが彼の慣れたやり方なのだとわかるような口調だった。
「一度私のものになれば、二度とそばから離れようとは思わなくなる」
(死ねばいいわ)
ごく淡々と珊瑚は思った。
本来なら、怒る価値もない。だが、冷静な胸の奥で闘志の炎がちらつき始める。
(シキに危害を加えた落とし前だけは、つけてもらわなくては)
「……先生」
じり、と珊瑚は膝であとじさった。
媚びる声など、今まで一度も出したことはない。はたして上手にできるかしらと珊瑚は思った。
「言うとおりにします、先生」
「逃げようとしても、そうはいかないぞ。こちらには人質がいることを忘れるなよ」
「違います、そうじゃありません」
他人を陥れる時には、感情で行動してはいけない。
さっき、寧々がどれだけ憐れに見えたか珊瑚は思いだしていた。決して、彼女自身はそんな印象を与えたかったわけではないだろうに。感情に流されるということがどれほど危険かつ敗北を招くか、珊瑚はもう一度胸に叩き込んでから、せいいっぱい甘えた目つきで学園長を見上げる。
どれだけ自分が上手にできるか、やってみましょう。
「その人は、わたくしの大事な友人なんです。なんでもします、だから彼女のことは」
そこまで言った時、調理台の上でシキがぴくりと動いた。
だらんと伸ばした指先が震える。ごくうすくだけれど目があいて、視線がこちらに向けられる。なにか言いたいけれど声にはならない、そんな目つきだった。
薬が切れかけてきている。このやり取りは聞こえているのだと珊瑚は思った。
「さっさと脱げと言ってる。時間をとらせるな」
「ただいま、すぐに」
大丈夫、わたくしにまかせてみて。
心の中でそう言いながら、珊瑚は指先で制服の前のボタンをひとつ外す。
「待たされるのは嫌いだ。……なぜ後ろへ下がる!」
「恥ずかしいんですもの」
ややもたついて、時間を置いてさらにもうひとつ。
白い胸元が見えるかと思った時、珊瑚がうつむいたので長いふわふわの髪で肌と表情が隠される。
怯えているように見えるかしら? 本当に恥ずかしがっているように見えるかしら?
珊瑚が制服のボタンを外すたびに、布地の下では夜刀がじわじわ動いていた。それまでは極力珊瑚に負担をかけないよう、ごくやんわりと巻き付いていたのが、次第に形を変えてゆく。攻撃の形を整えるように。
夜刀もまた怒っているのが、肌を通して伝わってきた。
蛇の鱗が見えないよう、珊瑚は学園長に背を向ける。苛立った声が飛んできた。
「逃げるんじゃない! もっとこちらへ」
学園長の足が一歩、珊瑚に近づく。珊瑚が離れる。
学園長が大きく一歩踏み込んできて、細い肩を強くつかんだ。
「時間稼ぎしているつもりなら……」
「いいえ?」
顔を斜めにして、珊瑚は学園長の顔を見上げた。シキから彼を離れさせること。それはひとまず成功した。
「しませんわ、そんなこと」
結果に小さく満足してから、制服の胸元を両手で大きくひらいてやる。
そこでは、夜刀がもう待ちきれなさそうにしていた。
シキのように言葉こそ通じないけれど、珊瑚がしようとしていることを夜刀は正しくわかっていたし、夜刀がわかっていることを珊瑚も知っていた。黒灰色の鱗が光る蛇の頭部を目にした学園長が喉から悲鳴のような声を出す。
「だめ、逃げては」
その彼の腕を、ぎゅっと珊瑚はこちらから掴んでやった。
夜刀の動きは素早かった。
先程、寧々に対して仕掛けた時には顔を見せて脅すだけだったものが、今度は本気の素早さで、その筋肉の動きのせいで珊瑚の素肌が痛みに軋んだほどだった。
「坊ちゃま!」
信田みさ子が、思わずと言ったように声をあげる。
「行っておいで」
蛇は学園長の腕から肩へ、肩から首元へと乗り移っていく。
「行きなさい、あなたの大事な人を守るのよ」
夜刀は学園長の首にちょうどひと巻きしたところで、鎌首を少しもたげて珊瑚を見た。珊瑚は小さくうなずき返す。
学園長は両手を喉元にかけてなんとか蛇を引きはがそうとしたが、夜刀の体はびくとも動かない。彼の両手がもがくように暴れ、瞳の白目部分が充血し始める。
「坊ちゃま、ただいまわたくしが!」
調理用の小型ナイフをつかんで駆け寄ろうとする信田みさ子を、珊瑚が止めた。
珊瑚の手には、長い刃渡りのパン切り包丁が握られている。それを水平に構えて、珊瑚は低い声で言った。
「邪魔をすれば、邪魔をされるものよ」
ガシャガシャン、とやかましい音がして、珊瑚はパン切り包丁を油断なく構えたまま、目だけを動かしてそちらを見た。
首から体にかけて夜刀に巻き付かれたまま、学園長が倒れ込むように調理台の引き出しをあけ、中身をかきだしているところだった。
右手は空気を求めるように蛇と喉の隙間に差し込まれて、左手で引き出しの中身を片っ端から床にぶちまける。鉄の栓抜き、竹串、パレットナイフに黒の油性マジック。なにかしら武器に使えそうなものを探して、次から次に。
珊瑚のいるところから、夜刀の体表面がゆっくりと動き続けているのが見えた。大型の蛇が獲物を絞め殺すときは、一気に締め上げるのではなく、相手の呼吸や暴れる体の動きに合わせてゆっくり、ゆっくり締め上げていくのだということはのちに知った。
やがて、学園長は引き出しの奥からバーベキュー用の金串を見つけ出し、逆手にそれをつかんだ。
震える左手でそれを夜刀の体に突き刺そうとしたその手首を、掴んだ手がある。
「させるかよ……」
シキだった。




