第6章 台風の夜 1
自分の指先が小刻みに震えるのを、シキは半信半疑で眺めていた。
ついさっきまでは、寒さに体がかじかんでいた。ずっと雨に打たれ続けて、さらに強風にあおられ続けていれば体温を奪われるのは当然だ。それでいきなりあたたかいところに来たので、体が変に反応しているのかな? と手を握ったりひらいたりしてみた、その視界が二重にぶれる。
おかしい、と気づいた時にはもう、まっすぐ立っていられないほどになっていた。
(どうして、この人が)
なにか即効性のものをお茶に混ぜて飲まされたことに気づいて視線をあげると、申し訳なさそうに食堂のおばちゃんがちんまり立っている。
彼女はいつもの白い三角巾を外して、体の前でぎゅっと握りしめている。
「ごめんよ」
そんな、謝られたって困る。
言いたかったが、声ももう出ない。
無理に出そうとすると、なにかが詰まったようになり、掠れたうめき声が出るのみだ。カウンターに手をついて、なんとか立っていようとするが、手にも足にも力が入らなくて、シキは膝からがくりとくずおれた。
「ほんとに、ごめんよ。あんたに恨みなんてない……本当だよ」
ほんとにだよ。とシキは最後に残った負けん気でそう思う。
なぜこんなことをされるのか、心底わからない。
だんだん意識が遠のいていき、最後に聞こえたのは、申し訳なさそうに淡々と口にする彼女の言葉だった。
「でもねえ、これは仕事だから」
◇◇◇
時刻が深夜二時半を回っても、シキは戻ってこなかった。
なんとなく眠る気になれなくて、珊瑚は制服を着たままシキの帰りを待っていた。
一晩じゅう探すつもりなのかしら、あの人昨日も寝ていないのに、と思った途端、部屋の内線が静かな部屋に鳴り響き、珊瑚はびくっと肩を震わせる。
シキがかけてきたのかと思って飛びついて電話に出ると、聞こえてきたのは暗い喜びをにじませる学園長の声だった。
「やあ、こんばんは。……起こしてしまったかな?」
珊瑚は冷ややかに応じる。
「なんの御用でしょう」
「話をしよう。厨房へいらっしゃい。……ひとりでね」
◇◇◇
心の準備はしていたはずだけれど、業務用の調理台に寝かされているシキの姿をいざ目にすると、珊瑚の頭に血がのぼった。
(──よくもこんな真似を)
好き勝手な方向に跳ねている、いつもの彼女の毛先すら、今はぐったりとしおれて見える。
『相手が無力な時もそばにいたいか?』
朝彦が言った言葉が一瞬浮かんで、すぐに書き消える。
愚問だわ、と思った。あの子はわたくしが助ける。
「よくきたね、いらっしゃい」
シキの隣では、学園長が微笑んでいる。少し間を置いて、かっぽう着姿の信田みさ子が控えている。両手を体の前で揃えて、まるで服装を間違えた従者のように従順に。
「その子になにをしたの」
「ちょっと眠っていただいてるだけだよ。心配はいらない」
心配はいらない、ですって。
珊瑚の怒りが一層激しくなる。こんなことをしておいて言う言葉ではない。だが学園長は片手をシキの首の後ろへと差し入れ、やや上体を起こさせて、これから起こることが珊瑚によく見えるようにした。
「──やめて、シキになにもしないで。話なら聞くから」
珊瑚が言うのと、学園長が指先をシキの首筋に押し当てるのとが同時だった。
「いやっ」
彼の指にはにぶく光るリング状のものが嵌まっていた。
そのリングには二本の細い針のようなものが飛び出ており、その先端がシキの首筋に食いこんでいる。悲鳴をあげた珊瑚の目の前で、彼は針を根元までぐりぐりと押し当ててみせた。
「知っているかな……この島にはね、とある事情でハブがいる。専門の職員を呼んで定期的に駆除してはいるのだが、必ず、年に何人か咬まれる生徒がいるんだ」
押し付けていた指をゆっくり引き上げると、針先には鮮血がまとわりついていた。
シキはというと、微動だにしない。薬で眠らされているんだわ、と珊瑚は思った。
「あれを」
「どうぞ、こちらです」
信田みさ子は厨房脇の業務用冷蔵庫をあけて、そこから小さな薬瓶を取り出して彼に渡した。
「こんな天気に、こんな軽装で。外を出歩いていては、咬まれても不思議はない」
手に持った薬瓶をこれみよがしに揺らしながら、彼はなぶるように口にした。
「さて、これをどうするべきかな? 君の意見も聞いてみよう。珊瑚、君はどうして欲しい?」
「──シキから離れて」
「それは正しくない言葉遣いだな、珊瑚。お願いする時はなんて言う?」
「……お願い、します。シキに触らないでください」
「その願いをかなえてあげる代償に、私はなにを手に入れるんだろう?」
「なにが欲しいんですか」
「人形が」
そう言った時の学園長の歪んだ口元を、珊瑚は卑しいと思った。
自分に、今、権力がないことが悔しい。この男を今すぐ叩き潰してやりたいのに、自分にはなんの権限もない。
「傀儡と言ってもいいかな。言うことをよく聞く人形を私は手に入れる。君は彼女の無事と安全を手に入れる。──どうだい、いい取引だろう」
「……わかりました」
こんなに本気で怒ったのは生まれてはじめてかもしれない。
なのに発する声は妙に落ち着いている。不思議だと珊瑚は頭の片隅でちらりと思った。さっき、寧々に対してはここまでの怒りは沸いてこなかった。突き飛ばされて、一歩間違えば荒れた夜の海に落ちていたかもしれなかったのに。
(そうか)
寧々は、己の嫉妬と割り切れない思いを直接珊瑚にぶつけてきた。それに対して、彼はシキと夜刀を使った。シキを動かすために彼女がもっとも大切にしている夜刀を用い、シキの安全を盾にとって、自分と交渉しようとしている。
(腹立たしい……)
こういう人間は嫌いだ。珊瑚ははっきりと思った。
怒りと反比例するように、頭の中はどんどん冷静になっていくのを感じながら珊瑚は口にする。
「それで? 彼女の安全と引き換えに、あなたはわたくしになにをさせたいの」
「素直でいい。始めからそうならな」
沈黙で先を促す珊瑚に、彼は続けた。
「跪け」
「今、ここで?」
相手の返事を待つまでもなく、珊瑚はその場に膝をついた。
このくらいのことで彼の自尊心が満たされるというのなら、いくらでもしてやろう。
「いつでも、私が命令した時には、私の足元に跪くんだ。肉体的にも、精神的にも。人としても、女としても」
「──……愛人にでもなれというのかしら」
愛人? 素っ頓狂な声を彼はあげた。
そしてひどく愉快なことでも耳にしたみたいに笑い声をあげる。
「そんな大層なものではない。人形だといったろう」
なるほどねと珊瑚は思った。
右といえば右を向き、鳴けと言えば鳴く。必要な時は呼び出して使い、必要がなくなれば廃棄する。人形でなければ奴隷と呼んでもいい。
「いつも、手駒に対してそんな扱いを?」
「本国にも何人かいるが、日本人としては初めてだ。光栄に思え」
彼は今や、これまで被っていた紳士の仮面を完全に取り払っていた。
傲慢な声と目つき。こちらの方が本性なのだと、誰に教えられなくてもわかる。
(──下衆な男)




