第5章 雨は降り、夜刀は消える 5
「どういうことですか」
「あの人たちの良く使う手よ。薬を仕込んでわざと体調を悪化させ、相談させるように仕向けるの。言ったでしょう、性格が悪いのよ」
あの人たち。たちって誰だろう、と珊瑚は思った。
学園長がその中に含まれているのはわかるけれど。
「知り合いもいない、頼れる人もいないこんな場所で、体調が崩れると気弱になるでしょう。そうやっておいて、徐々に依存させるように仕向けるのよ」
「卑怯なやり方ですね」
「だから嫌だと言ったでしょう、こんな場所」
心の底からそう思っているのがわかる口調の寧々に、珊瑚は正面から向かい合った。
姿勢を正し、呼吸を整える。暗いから表情はわからないとしても、声で真剣さは伝わるはずだと信じたかった。
「そこをどいてください、寧々さん」
眉をひそめた気配がした。
あまりに珊瑚が落ち着きすぎているように感じたのだろうか。寧々は吐き捨てるように言う。
「むかつくわね」
「お願いします。シキを探しに行きたいんです。そんな思惑が張り巡らされた場所で、ひとりにするわけにいきません」
「あなたは、暗闇で突き飛ばされても、自分が薬を盛られたと聞いても動揺も最小限で。私のことも罵らないのね。言っておくけどあの窓の下はすぐ崖よ。歩道もないわよ」
「知っています。先日、迷いましたから」
「本当にむかつく」
「生死にかかわるような薬をいきなり盛ることは、いくらなんでもないでしょうし、今はそれよりシキのことが心配なんです。──確かに、落ちたら危なかったかもしれませんが、結果的には、無事でしたし」
「あなたのことやっぱり嫌いだわ。……さっき、もっと力を込めて突いてやったらよかった。仏心なんて出すような相手じゃなかったんだわ。馬鹿だわ、私は」
「寧々さん」
静かにひとつひとつ説明したことが仇になった。寧々が再び感情をむき出しにし始めるのを、珊瑚はもどかしい思いで聞いていた。
無理やりに立ち去ることも、できなくはない。寧々にしがみつかれたとしても振り払うことはできるだろう。年頃も同じ女の子同士なのだし。だけど、そうしたやり取りすら、今は惜しい。
「腹が立つわ。理屈じゃないのよ、あなたをなんとか膝まづかせたいの。行くなら行ってみなさいよ、簡単には行かせないから」
「寧々さん」
興奮した彼女の意識を此方へ向かわせるには、幾度か呼び続けなくてはならなかった。
「暗いから、近づかないと駄目でしょうか。これくらいで見えます?」
「?」
寧々が首をかしげたのが見える。
こちらから見えるということは、向こうからも見えるということだ。
「ねえ寧々さん。これ、なあんだ」
言いながら珊瑚は白い変形セーラー服の胸元をひらいた。
夜刀が、心得たようにそこから顔を出す。鎌首をもたげた大型のニシキヘビと寧々の目が合い、直後、絹を裂くような悲鳴があがった。
「上出来です、夜刀」
素早く胸元を整えて夜刀を隠しながら、珊瑚は寧々の脇をすり抜けた。
床に落ちた携帯を途中で拾って音楽室を出る。
途中、珊瑚は一度足を止めて後ろを振り返ったが寧々が追いかけてくる気配はなかった。
自室へ戻り、エアコンの温度設定をあげて部屋をあたためる。
夜刀はしばらく珊瑚に巻き付いていたせいか、さっきよりは元気になったらしい。自分から体をほどいて二段ベッドの上段に大人しくおさまった。その様子はまるでシキの留守を守るようだった。
(シキに……連絡したいわ)
夜刀が見つかったと知らせてあげたかった。
けっこう激しく落としたというのに、奇跡のように傷ひとつない携帯を見下ろしながら、珊瑚はその時気がついた。
(そういえば……携帯の、番号も知らない)
◇◇◇
私立金葉学園の食堂をあずかる信田みさ子は、翌日の仕込みの手をとめて顔をあげた。
なにか物音がした気がする。
食堂の電気は消して、厨房の明かりだけつけてあるので、カウンターより向こうはよく見えない。
「誰かいるのかい?」
風邪っぽいだとか、お腹すいちゃったとか言って生徒が夜中に現れることはたまにある。そんな時は即席の生姜湯を作ってやったり、残り物のご飯で夜食を作ってやったりするのがいつものことだった。
手をとめて目をすがめる彼女の耳に、びちゃっ、という音が聞こえた。
「おばちゃん」
「ぎゃ!」
手にした包丁を思わず持ち上げてしまうほど、信田みさ子は仰天した。
ぽたぽたとひっきりなしに水滴を落とす人影が、のっそりと姿を現したからだ。
貼りついた黒髪で顔の半分が覆われており、それをかきあげる元気もないというように、両手は肩からだらんとぶら下がっている。着ているものもびしょ濡れすぎて、もはやなにを着ているのかもわからないほどだ。
「成仏しとくれ! なんまいだ!」
「おばちゃん、あたし」
よれよれの人型をしたものがしゃべるのを聞いて、それが誰だかようやくわかった。信田みさ子は腹の底からため息をついてゴトンと包丁を置いた。
「なにかと思ったら……シャワー後でもここまでなるまい。外にいたの? こんな天気に?」
「ちょっと、さぶくて……」
当たり前だよ、と彼女は乾いたタオルをシキに投げてやったが、このありさまでは一枚で足りるかどうかもあやしい。拭いても拭いても、体のどこかから水滴が落ちている。
「その濡れ方。どんな海坊主かね」
「あたし女だけどね……」
「海女にしちゃ手ぶらだろ」
シキが無言になったところへ、信田みさ子はマグカップにジャスミン茶を注いで差し出した。明日の下ごしらえをしながら自分でも飲んでいたものだ。
「あったまるよ」
「うん」
一口飲んで、シキは口元を歪めた。
「苦いかい。ココアでもつくってあげようかい。すぐだよ」
「いや、これで十分」
びしょ濡れの前髪を大きくかきあげて、シキは笑った。疲れていることがわかる笑顔だった。
ごちそうさま。そう言ってカウンターにカップを置こうとした手が空回りした。シキは確かにカウンターの上に置いたつもりだったのだが、カップは縁からまっすぐ落ちて無残な音を響かせる。
「ごめ……」
「ちょっと大丈夫かい、あんた」
大丈夫、昨日寝てないからそれで。シキはそう言おうとした。
割っちゃった、ごめんなさいとも。
だが声にはならなかった。
思ったように動かない自分の体に、シキはわずかに首をかしげた。
どうしてこんなに体がいうことをきかないのか、わからなかった。




