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第5章 雨は降り、夜刀は消える 4

「なぜわかったのよ」

「殺気を隠すの、へたくそすぎです」


 しばらく前から、寧々の視線を感じていはいた。不穏だな、と思ってもいた。だがこれといってなにも手出しをしてくる様子もないので、そのままにしておいたのだ。


 傷つくとか、なぜとかいう気持ちより、ここでこうくるかという気持ちが一番強かった。


「それに、あなたのその香り。エルメスでしたっけ。……今だけつけるのをやめても、服にはかすかに染み込んでいますよ。ブレーカーを落としたのも、あなたね」


 ほっそりとした人影は微動だにしない。


「そうよ」

「この部屋の窓をあけたのも? わたくしを誘いこんで、うまく海へ落ちれば事故ということになると思った?」

「あなたが、嫌い」


 これまで抑えていたものが溢れた。そんな言い方だった。


「嫌いなのよ。御堂寺珊瑚。なぜ私の前に現れたの? 顔を見なければまだしも平和でいられたのに。わざわざ私の前に現れるだなんて」


 凝り固まったものが滲むような声を聞いて、珊瑚は思う。これまで自分は学校へ通ったことがない。それなのに、同じ年頃の少女にこれほど憎まれる可能性があるとするなら──。


「あなたの名字は、わたくしと同じものなんですね」


 珊瑚は仮説をぶつけてみる。

 確証はない。けれど返ってきたのは、血を吐くような叫びだった。


「好きで同じになったわけじゃないわ!」


 珊瑚はそこで確信した。


「出たいの! ……出たいのよ、この牢獄から! 出て自由になりたい、閉ざされた贅沢な場所だからこその陰湿も腐敗ももうたくさん! それに自分が利用されるのが、もっといや!」


 その気持ち、よくわかる。珊瑚は思ったけれど口にはしなかった。


「十二歳の時からもう六年よ、用のある時だけ出して、済んだらまた戻されるの。もういや!」


 珊瑚は陰鬱なため息をついた。


「罪深い人ね……お父様は」


 もうわかってしまった。

 寧々は自分の腹違いの姉なのだ。


 違う点といえば、彼女が愛人の子で、珊瑚は本家の、しかも本妻の娘であるという点だけ。もっとも、この点が御堂寺においては大きな差異となるのだけれど。


「幼い頃、私の名前は花柳寧々だったわ」


 その名前、聞いたことがある。と珊瑚は記憶の引き出しを探る。確か、割と新しい日舞の流派の名前ではなかったか。


「御堂寺を名乗ることを許されたのは、ひとえに、高値をつけるため。好きな時に便利に使える手駒として! ……でも私はもう十八歳、もう時間がない!」


 なにか、認められるような結果を出さなくては。

 なにか、役に立たなくては。

 見捨てられて捨てられる。今度こそ。


 そう思うだけで、寧々は足元がぼろぼろと崩れていくような不安と恐怖に浸された。


 寧々の母は、御堂寺道隆の子供を彼に渡すことをどこまでも拒んだ。それが、御堂寺の最高権力者である祖父の怒りを飼い、愛人の座を奪われ、花柳流も潰された。


 ──娘のお前に罪はないね。選ばせてあげよう。自分で。


 母の処分を決めたのちにそう告げた父の顔、それに口調。

 ぞっとした。父親が娘を見る時のそれではなかった。


 罪はないと言いながら、事務的というのよりもっと冷ややかだった。まるで多発する仕事のトラブルを片付けるような感情のこもらなさが、なによりも当時の寧々を傷つけた。


 だが選択を迫られる場で、傷ついていることすら寧々には許されなかったのだった。


 ──市井に落ちて這いつくばって生きるか、御堂寺の末席として生きるか、選びなさい。


 ずるい、と寧々は思った。

 どちらを選んだとしてもそれは地獄ではないか。


 この男の申し出を一蹴できたら、どんなに気持ちが良いだろう。

 だけど、そうするには彼女は踊ることを愛しすぎていた。幼少の頃から母と一緒に学び続けてきた日舞は、すでに寧々の血と肉になっていたのだ。切り離すことはひどく難しかった。


 日本舞踊にはお金がかかる。

 自分一人が生きていくならなんとかなるかもしれないが、働きながら、勉強しながら、踊りもは無理だ。破綻することが目に見えている。彼の申し出を拒んだら、きっと自分はこれから先、何度も何度もその瞬間を思いだして後悔するだろう。どんなことをしてでも踊りを続けられる道を選べばよかったと思うに違いなかった。


 また、自分が踊りを続けていれば、いつか再び花柳流を再建できるかもしれないという希望も捨てきれなかった。


 寧々は父親であるはずの男の前に三つ指をついて頭を下げる。

 末席においてください。なんでもします。


 それが十二歳の時だった。


 娘の土下座を目にしても、彼は眉ひとつ動かさなかった。ただこう言っただけだった。


 ──全寮制の学園に行ってもらう。そこでは大抵の望みが叶うだろう。そこで勉強し、御堂寺にとって役に立つ人間になるように。十八歳になるまでに、有用だと私が思わなかった場合には、一切の援助を打ち切る。


 寧々に反論は許されていなかった。


「あなたが、来るのは……知ってたわ。学園長ときたら、こともあろうに案内を私にさせるんだもの。あの男は、性格が悪いのよ」


 感情を吐き出して少し落ち着いたのか、寧々はやや声を落とした。


「最初は、嫉妬なんてしないと思っていたのよ。あなたと私では立場が違う、出発点が違う、あなたにはあなたの苦しみがあるに違いないって。他人と比べたって仕方ない、私は私の置かれた条件の下で力を尽くすしかないんだって……」


 音楽室の中は依然として暗闇なので、彼女の表情はわからない。


「だけどね、顔を合わせているとね。──押さえられないの。ざわざわするのよ」


 感情をこじらせすぎて、自分でも制御しきれない衝動に寧々の声が掠れる。


「あなたはあまりに天真爛漫で。聡明で。環境への適応力もあるわね。おまけに、友人と一緒に金葉へですって? ありえない」


 まだ友人なわけではないのだけど、と言いかけて珊瑚は口をつぐむ。


 それに。天真爛漫って。

 彼女の目に自分はそんなふうに見えていたのだと、初めて知った。


「なにからなにまで。いったいどれだけ手に入れれば気が済むのよ」

「こんなことを言うと……余計にあなたに嫌われるだけなのはわかっているのですけど」

「なによ」

「他人を陥れる時には、感情で行動してはいけないのだと、よくわかりました」

「その冷たい物言い! あの人そっくりね、さすが親娘だわ!」

「言われると思いました」


 珊瑚は苦笑する。


「普通は、父親に似ていると言われたら嬉しいものでしょうか? よくわからないわ。個人的には苦々しいですが」

「なにを言うの。あなたは本家のお嬢様。跡取りとみなされるほどの人でしょ。すべて与えられて大切にされてきたはずだわ」

「そう思われるってことは、理解してます」


 その時、あの腹痛が再び襲ってきた。


 ちくん、と下腹を指すような痛みだ。語尾を不自然に震わせる珊瑚に、寧々は異変を感じ取ったらしい。


「どうしたの」

「なんでもありません」

「どこか痛いの?」

「夕方から、少し腹痛が。持参の痛み止めを飲んだので効いてきたと思ったんですが」


 言うと、寧々が奇妙な憐憫混じりの声を出した。


「そうか。……あなた、今まで一度もカウンセリングを受けてないんだものね」

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