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第5章 雨は降り、夜刀は消える 3

(もしかして、弱っているんじゃないのかしら?)


 半袖の珊瑚の二の腕にうっすら鳥肌が立つくらい、その部屋は低温に設定されていた。そして、ニシキヘビは熱帯の蛇だ。もしや、ここの温度は彼には寒すぎたのでは。そう考えると、いてもたってもいられなかった。聞こえないのは承知の上で、珊瑚は夜刀に声をかけ続ける。


 どうか通じますように。万に一つの可能性でも、わかってくれますように。


「お願い、ここからあなたを連れだしたいの。動いてちょうだい」


 消灯時間までにはまだ間があり、そこら辺の廊下には生徒たちがいる可能性が高かった。クーラーボックスごと夜刀を連れだせば、誰かに見咎められてしまうだろう。それを避けようと、珊瑚は両手をぎりぎりまで蛇の方へと差し向ける。


「お願い、つかまって」


 どこが頭かわからなかった鱗の中から、蛇の頭が姿を現す。心なしか今日はそれが小ぶりに見えた。

 珊瑚が手を差し出しているのを、蛇はじっと見上げていた。


 もどかしい気持ちで珊瑚は手を差し伸べ続ける。


「わたくしにくっついていれば、温かいから。体温をとってくれていいから。すぐに部屋に連れていくから」


 蛇がゆっくりと、頭を珊瑚の手の平に近づけてきたのはそれから少ししてからだった。


 ごく静かに、もどかしいほどの慎重さで蛇の頭部が珊瑚の手に触れてくる。

 怖いとは思わなかった。それよりも、思っていたより体が冷えてる、とだけ思った。


 珊瑚が動揺することなく、ただじっとしているのに気づいて、蛇はゆっくりと手の表面をつたいあがってきた。くすぐったいような、ぞわぞわするような。しかし思っていたほど不快ではなかった。


 珊瑚はセーラー服の上着の裾を少しだけ持ち上げて、蛇を促す。いつもシキがしているように。色白の肌にぴったりと蛇が巻き付き、一周、二周する。


 全部巻き終わるとさすがに重量感があった。


 おそらく蛇が本気でそうする気になれば、自分の骨などはあっという間に何本もへし折られてしまうのだろうなと思う。

 だが怖さは感じない。


 夜刀が、自分を怖がらせないよう、できるだけそっと巻き付いてくれているのが肌を通して伝わったからかもしれない。


 ひんやりとした蛇の体をじかに感じて、珊瑚はほっと息をついた。

 よかった、これでシキも安心できる。そう思って。


 だが、長い夜はようやく始まったばかりだった。


◇◇◇


 風の音がやけに大きく響いていた。


 珊瑚が部屋へ戻ろうとして、曲がり角の多い廊下を歩いていた時、それは起こった。

 バン。暴力的な音がして急にあたりが真っ暗になる。


 まるで珊瑚の退路を断ち切るようなタイミングで起こったそれに、ふと珊瑚は足を止めた。

 びっくりはしたけれど、さほどの恐怖は感じていない。


(──停電?)


 珊瑚はゆっくり足を動かし、窓から外を覗いてみて、すぐにその可能性を打ち消した。隣り合う男女の寄宿舎棟ではどちらからも当たり前に明かりが漏れていたからだ。


 珊瑚は息をひそめて耳に神経を集中させ、あたりの様子を伺う。

 もう遅い時間だから、教員や事務員は全員帰寮しているのだろうか。そうだとしても別におかしくはないが、と珊瑚は胸ポケットから携帯を取り出す。


 あたりを海に囲まれたこの島では、ひとたび日が沈めば外から入ってくる光源も皆無。一歩足を踏み出すのも怖い気がするような暗闇を、珊瑚は携帯を取り出してその液晶画面で照らした。


 その人工的なあかりはそこだけを妙に心強く、現実感を持って照らすけれど、ふと目を上げると、そこだけ明るくなったことで周囲の闇とのコントラストがよりくっきり浮かび上がって、珊瑚はふと、ここへ来た日のことを思いだした。


 力なく息絶えたヘリの操縦士の死体。

 口の端からは白い泡と、ねじれた青黒い舌が覗いていた。


 自分もあんなふうになるのかしらという思いが、胸をよぎってはすぐに消えていったので、珊瑚は微苦笑を漏らす。明らかに自然死ではない遺体を見たのは生まれてはじめてだったというのに、心のどこを探してみてもさほどの動揺はない。こんなところが御堂寺の血なのかと思うと、忌まわしく感じればいいのか、誇りとすればいいのか、迷うところだった。


(ブレーカーが落ちたのかしら)


 妥当な線で考えてみて、これも珊瑚はすぐに打ち消す。


 ブレーカーが自然に落ちたと仮定するなら、落ちるような作業をしていた誰かが存在するはずだからだ。

 そして、そんな質量の電力を使うような作業をしていた人物はいないはずだった。珊瑚がここへ来た時、人の気配が感じられないほどしんとしていたのだから。


(誰かが、故意に落としたと見るべきかしらね)


 でも、誰が? なんのために? 考えてみたが心当たりはなかった。

 それに、暗闇を怖がると思われているとしたら、それはずいぶん子供じみた嫌がらせだった。


 人を呼んでブレーカーをあげてもらおうか、と考えて、人に頼むほどのことでもないと思い直す。

 誰の仕業かは知らないが、こんなことできゃあきゃあ言うと思っているのなら、ずいぶんだろう。着替えから入浴に至るまで侍女の手を煩わせていた中世の姫君ではあるまいし、いくらなんでもそこまで世間知らずではない。


 大小の四角形が並んでいる造りだから、分電盤の位置もだいたい同じところにあるのではないか、という珊瑚の予想は正しかった。携帯の明かりで照らすと、ブレーカーが確かに一本だけ下へ落ちている。


 惜しむらくは、珊瑚の手が届く場所にはないという点だったが、別に、どうということでもないわと珊瑚は思った。踏み台を持ってきたらいいだけのことだからだ。


 珊瑚にとって心強いことに、この建物の中はつい今しがた、あちこち夜刀を探して歩いたばかりだった。よく知っているという気持ちは、濃い闇の中を歩く恐怖を半減してくれる。


 一階上にあがり、音楽室の椅子を借りようと思い立って、その戸口のところで珊瑚は足を止めた。


 ばさばさばさっ。打ち付けるような音がする。入り口から見て正面にあたる窓がひとつだけあいており、そこから雨と風が吹きこんでいたのだった。

 水を含んだカーテンが風にあおられて激しく上下する。


(さっきは……あいていなかったわ)


 珊瑚はそっと眉をしかめて、教室の中に足を踏み入れた。

 水浸しになっている床を注意深く歩いて、窓を閉めようと思った時。


 ドン。強い力で、後ろから突き飛ばされた。


(──やっぱり!)


 夜刀が、この部屋に足を踏み入れた時からやたらと体を固くさせて警戒していた。とっさに身をよじることができたのはそのせいだ。

 窓から落下することは避けられたけれど、冷たく濡れた床に珊瑚は膝と手をつく。


 硬質な音を立てて、手からは携帯が飛んでいった。

 珊瑚は床に手をついた姿勢のまま、上体をひねってそこにいる人影に向かって言う。


「なぜ、わたくしを敵視するの。寧々さん」

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