第5章 雨は降り、夜刀は消える 2
それは朝彦の本心だった。そして珊瑚にも正しく伝わった。思わず顔を歪めそうになるような身勝手で傲慢な物言いだからこそ、嘘ではないことがわかったのだった。
珊瑚は小さくため息をつく。
「確かに、趣味は相当悪いようね」
「ごめんてば。でもわかるでしょう、こういう感じ」
朝彦はあくまで悪びれない。
「まあね」
わからないでもない、と珊瑚は思った。
相手がどれほどの人間なのか、見極める時の妙な高揚感。悪戯っぽい気持ち。そこにはわずかの楽しさも確かに含まれている。
「人を遠くから観察するのって、楽しいものよね」
すでに夕食をとろうという気持ちは珊瑚の中から失せていた。さっき学園長と話していた時ほどではないが、痛みが続いているのも気になる。
確か荷物の中に常備薬があったはずだ、と珊瑚が踵を返して歩き出すのに、朝彦も当然のように従った。
「腹痛ですか?」
「いいえ?」
「よければ、薬、お分けします」
「結構よ。……というより、いいえと答えているのにその台詞っておかしいでしょ」
「せめて体調がすぐれない時くらい、隠さずに話してもらうことが当座の目標ですかねえ……」
「それは遠い道のりね」
珊瑚が心ならずも朝彦と並んで歩いていると、ちょうど渡り廊下に差し掛かったところで、さっき別れたばかりのシキを見つける。
「外に探しに行くつもり?」
シキは飾り気のないポロシャツにショートパンツという格好で、外靴に手をかけたところだった。
「校内はもう全部当たったんだ。これでいないとなると……もう外しかない」
「危ないじゃないの、台風がくるのよ」
外では、いっそう強く雨が叩きつけている。校内にいてもその音がうるさいくらいだ。
「だからだよ。探すなら今しかない」
「そんな格好で……」
「ダメかな? じゃあ潜水用のウエットスーツでも着る? 信田のおばちゃんが持ってるってさ」
そうなんだ、と珊瑚は思った。
やっぱりあの人、海の幸あれこれ、自分で潜って獲ってきてるんだわ。
「いえ、そうじゃなくてね。着るなら雨合羽でしょう」
「それも考えた。けど濡れて気持ち悪い点ではたいして変わらんかなと。──それで、珊瑚は、なに怒ってたの」
「えっ」
突然言われて、珊瑚は目をぱちくりさせた。
「今、あたしと話す前、怒ってたでしょ。なに怒ってたの?」
そんなことないわ、と珊瑚はかろうじて小さく首だけを横に振った。
いかにもとってつけたような否定になってしまった。図星を言い当てられると、人間はとっさに言葉が出ないものらしい。
くい、とシキは顎で朝彦を指し示す。
「こいつになにされた? もしくはなに言われた?」
「えっ僕!」
お前以外に誰がいるんだよ、というのがシキの返答だった。
「さっきお前に預けてから何分経ったんだよ。この短時間でなにをすればこいつを怒らせられるんだよ。さっき釘を刺したばかりなのに、今またこれかよ。お前、向いてないよ」
「なににだよ」
立て続けに言われて軽くむっとしたらしい朝彦が返したが、シキは勢いを減じるどころが、さらに言葉で貫く。
「こいつの男に立候補するにはお前、向いてないっていうの。ちょっと考えればわかるだろ。こいつの立場って、気を遣ったり腹の底読みあったりの連続じゃん。そんな中でこいつの男になるんなら、そばにいて安らげる男じゃないと駄目だろ。余計に怒らせるんじゃなくて」
朝彦が黙ったのを、珊瑚は驚くような気持ちで見ていた。
「しかもお前、怒ってるのに気づいてすらいなかったよな。だから向いてないっつうの。──ていうか、お前にこいつはもったいないよ」
(……そんなふうに、思ってくれていたんだ)
容赦なくやりこめられて一言もない朝彦には申し訳ないが、珊瑚の胸は熱かった。
もったいない。そんなふうに思ってくれていることが嬉しかった。
(シキは──わかってくれている)
そう考えると、たっぷりの湯船に浸かった時みたいに、体が内側からじわじわと温かくなってくる。先程までの胃痛は、どこかへ消えていた。
たしたし、と玄関のフロアに外靴を放り出すように置いて、そこに足を入れながら、歩きながら、靴を履くというよりつっかけて出ていこうとするシキに珊瑚は声をかける。
「着替えたら一緒に探すわ」
「だめーっ、危ないから!」
「あなた、自分のことを棚に上げて」
あたしは野生児だから、いいのーっ。
そう言って、シキは暗くなった外へ飛び出していった。
◇◇◇
とは言うものの。
夜刀が外にいる可能性はどれほどあるだろうか? と自室へ戻り落ち着いて珊瑚は考えてみた。
中にいなかったから、外。そう考えたシキの気持ちは理解できる。
だが、中、というのはどこまで調べたらすべて調べたことになるのだろう?
珊瑚は机の前に腰掛けて頬杖をつく。
横長の勉強机の正面には、大きな嵌め込み窓がある。窓の向こうは見渡す限りの海原だが、今は墨汁を流したように黒一色で、珊瑚の顔が大きなガラスにはっきりうつっている。
ゆるやかに波打つ天然のくせっ毛は、肩から肘の先まで豊かに流れ落ちており、甘い印象を与える大きな瞳がじっとこちらを見つめていた。どこへ行っても、誰の口からも、なんて美しい、それに理知的な、さすがは御堂寺のお嬢様とほめそやされるのが常の容姿だ。
珊瑚は眉間に軽くしわを寄せると、頬杖をついたまま目を伏せた。
シキは、蛇が迷い込んでいそうな場所を探した。
(だけど、わたくしなら……)
この学園の全体図を頭の中に浮かべてみる。
男子寄宿舎棟、女子寄宿舎棟、校舎及び生活棟。大小三つの四角形がつながっているこの学園は決して広いわけではない。複雑な造りをしているわけでもない。
シキがあんなに探して、夜刀が見つからないことの方が不自然だった。
何者かによって隠されている、と考えた方が自然だ。
とじていた目を、珊瑚はぱちりと見開く。
(わたくしなら──蛇が確保されていそうな場所を探すわ)
思い立つと、行動は早かった。
消灯時間までにはまだだいぶある。それに、なんといっても夜刀は相当大きさがある。彼を入れて置けるだけの場所、と考えるといくらかは探すところが限定されるに違いなかった。
万一蛇が暴れても人に聞かれないよう、人が頻繁には来ない場所、そして誰かが間違ってそこをあける確率が低い場所、と限定したのが良かった。
音楽室の予備の楽器ケースの中、備品が入っている物置の中の段ボールや工具入れに続いて、食糧庫まで調べたところで、彼に辿り着いた。
(見つけた……)
大型のクーラーボックスの蓋をあけると、濃灰色の蛇がふちぎりぎりまで詰め込まれて静かになっている。
「夜刀、夜刀っ」
蛇ってね、耳はないんだよ。
シキがレクチャーしてくれた知識がよみがえる。
だからあたしたちは音声で会話してるわけじゃないんだ。蛇はね、空間を伝わる振動を受け取って音を感知するの。
コツコツ、と珊瑚は爪で叩いてクーラーボックスの外側を振動させる。
「起きて、夜刀。しっかりして!」
床に膝をついてじっと見つめていると、ゆらあ、と蛇の体の表面がうごめく。
死んではいなかったことに安堵したが、同時に、その動きが普段と比べてひどく緩慢なことに珊瑚は気づいた。




