第4章 ミルク色のダイヤモンド 3
翌朝、頭を使いすぎた、とかなんとか言ってシキはいつも以上に起きて来ようとしなかったので、珊瑚は起こすのをあきらめてひとりで食堂へ向かうことにした。
今朝は果物だけにしとこうかな、と考えながら、珊瑚は食堂へつながる廊下を歩いていく。
棟と棟とをつなぐ渡り廊下は大きな窓ガラスが連なっており、海から昇る朝日でまぶしいほどだった。
ここの食事は確かに豪華なものだけれど、来る日も来る日も新鮮な海の幸がふんだんに出て、正直なところいささか食傷気味でもある。始めから短期のつもりで来ている珊瑚ですらそうなのだから、ここに長くいる生徒は推して知るべしだろう。贅沢だからこそ、飽きるということもあるのだ。
慣れっておそろしいわね、と思いながら珊瑚は食堂の前で足を止める。
そこには、四十センチはあろうかという伊勢海老が、がしゃがしゃと柱の段差にぶつかってもがいていた。生徒たちは、きゃっと悲鳴をあげるもの、見てみぬふりで素通りするものなど様々だったけれど、珊瑚はじっとそれを見下ろす。
(というか、蛇と比べたら大抵の生き物は怖くないって最近わたくし思うの……)
伊勢海老を片手でつかみ、まっすぐ厨房へと歩いていく珊瑚を、食堂の片隅から寧々が見つめる。理解しがたいものを見る目つきで。
「信田さん」
珊瑚には、働く人をおじさんおばさんと呼びつける習慣がない。家でもそうだ。運転手なら田端さん、熟練の庭師は小田切さん。だから胸元のネームプレートに書かれている通り、彼女のことも名前で呼ぶ。
「信田さん、これ。脱走していたわ」
伊勢海老を手渡すと、いかにも長年水を扱ってきたらしい、赤黒くてぶ厚い手の平がそれを受け取る。
「あらーよかった、こいつは今朝一番の大物だからね。手こずったんだよー」
「あの、もしや……ご自分で捕まえるの?」
「そうだよ、素潜りさ」
当たり前が八割、残り二割が誇らしさの口調で言われて、珊瑚は思った。ここに豪の者がいると。
「そろそろ台風シーズンになるしね。今夜から天気が荒れるらしいから、今朝のうちに多めに獲っておかないと、と思って」
「ええと、漁師の家系でいらっしゃる、のかしら」
まさか! と食堂のおばちゃんは豪快に笑い飛ばした。
「もとはといえば、あたしは可愛いメイドさんさ。ハンサムな坊ちゃまに大きなお屋敷。これはね、必要に迫られて覚えたの」
ほら、メイドはなんでもできなくちゃいけないから! 腰に手をあてて自分で言ったことに自分で大笑いする彼女に、珊瑚は突っ込みどころが多すぎてどこから突っ込んでいいかわからないような、そんなときは無暗と話題を広げないほうが無難なような、複雑な表情の愛想笑いでその場をやりすごす。
(わたくしの知っている中では、鎌倉の大伯母様が一番の豪の人だと思っていたけれど)
なにやらここ数日で、強く頼もしい女ランキングの上位が激しく塗り替えられているような気がしないでもない。
(世界は広いということね)
そんなことを考えながらトレイに朝食を取るべく先に進もうとした時。ふと、珊瑚は肩越しに振り向いた。
誰かがじっと見ているような気配を感じたのだった。
(……誰も、いない)
だが振り向いた先には、いつもの清潔な感じのする食堂に、点々と散らばった生徒たちが、思い思いに食事をとっている姿があるだけ。誰もこちらを見てはいない。
(気のせいだったのかしら)
そう珊瑚が思った時。はいこれ、焼きたてだよ! と食堂のおばちゃんが差し出してくれたのは、焼きたてのパンだ。パン籠を持っていないほうの手には、まだがしゃつく伊勢海老をしっかり掴んだままだった。
その迫力に負けて珊瑚はそこからひとつ取り、適当にあいている席につく。
焼きたてのアーモンドブレッドはひどく美味しかった。ツイストをかけた表面にはぱりぱりのアーモンドスライスが散り、もっちりした生地を噛みしめると練りこまれたペーストがほんのり甘い。
なにはともあれ、この料理の腕は素晴らしいわと珊瑚が素直に感嘆していると、
「珊瑚さんよね」
声をかけられて、珊瑚は振り仰いだ。
もう食べ終わったらしいトレイを持った少女がふたり、テーブルの横で微笑んでいる。
「さっき、すごかったわ」
「勇気があるのね」
「そんな。とんでもないわ」
伊勢海老のことか、と察した珊瑚は謙遜まじりに笑ってみせたが、あ、と珊瑚の頭越しに少女の片方がなにかを見つけて声をあげる。
「学園長先生がいらした」
「ほんと」
彼女たちの口調と表情に憧れがにじむのを、珊瑚は冷ややかな気持ちで見ていた。
出入り口付近の床に水滴が落ちていたらしい。女生徒が滑って転びかけるのを、居合わせた学園長が片手で支えてやったのだった。
「やだ、羨ましいわね」
「私もああいうふうにして頂きたいわ」
ここは同調すべきところだろうとわかってはいたけれど、そうする気にはとてもなれなくて、珊瑚は曖昧に微笑んで流す。
学園長が女子に人気なのはこの数日でわかっていたが、そんなにいいものだろうか、と珊瑚は遠目に彼を観察する。
確かに整った顔立ちではある。甘い笑顔だし、背も高いし、女の子をエスコートする際の仕草も手慣れている。だが珊瑚には、少しもいいとは思えないのだった。それでも少女たちは片手を胸元に押し当て、もうたまらないというように瞳を潤ませる。
「お茶会にまたご招待していただきたいわ」
「カウンセリングと違って、予約すれば受けてもらえるというものでもないのよね、あれはね」
「あの、お茶会って」
珊瑚が尋ねるのに、ふたりは説明した。
「たまに呼ばれるの。個人面談と懇親会の中間みたいなものね」
「お気に入りの生徒は呼ばれるのだとか、逆に、問題を起こしそうな生徒が呼ばれるのだとか、いろいろ」
「はっきりした基準が見えないところが、またレアなの」
まあ。そうなの。それはレアですね。珊瑚はそつなく応じる。
「ではお先に」
「授業で、またね」
「ええ、授業で、また」
彼女たちが立ち去って、小さく息をついた珊瑚の横に、
「おはようー。お隣失礼しまーす」
聞き覚えのある、冗談めかした声がする。
「座っていいとは言っていないのだけど」
「まあいいじゃないですかあ」
東郷朝彦は悪びれない。
「ひとりでいて、隣にあの人が来るよりましでしょ?」
彼の視線の先を見なくても、誰のことを言っているかはわかる。彼も学園長のことをこころよく思っていないのだと知ってほっとする気持ちがあったけれど、だからと言って、それとこれとは別の話だ。
「どちらもお断りな場合はどうしたらいいのかしら」
ひっどいなあ、と朝彦が言うのは無視していると、食堂のドアをあけて、つなぎの作業着を着た二人組の男が顔を見せた。男たちは最寄りの生徒に声をかけ、生徒が朝食カウンターに並んでいた学園長のところまで用件を告げに行く。
「スネークセンターの人だってさ」
なにも聞いていないのに朝彦が言った。
「年に何度か頼んでるんだって」
「わたくしよりも遅くこの学園に来た割に、ずいぶん詳しいじゃないの」
「なんかね、女の子たちが教えてくれた。蛇いるんだってさ、ここ」
知っているわ、と珊瑚は思った。
学園長がつなぎの男たちと共に食堂から出ていくのを目の端で見ながら、珊瑚は言う。
「あなた、友達いる?」
お茶の湯飲みが朝彦の手から滑って音を立てた。
「……なにそれ。ものすんごい皮肉?」
違うけどね、と珊瑚は思った。でもそう思うなら、自分の言動をようく振り返ったほうがいいのじゃないかしら、とも。
「ではなくて、ひどく貴重なもの、という意味でよ」
「ああ。いないよ」
彼はすぐに意味を理解し、あっさり答えた。
「ぜろにんだね」




