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第3章 失われた顧客名簿 4

 やけに長い午後だったような気がして部屋へ戻ると、シキはまだ帰っていなかった。


 二段ベッドの上の段にひっかけられた制服の上下はさっき見た時そのまま、動いてもいない。


 珊瑚は自分のベッドに腰掛けると、荷物の中から薄手の書類ケースを取り出して膝の上に置いた。

 それはごくありきたりな革製のものだったが、違うのは、ケースを守るように四隅から青い紐がかけられているところだった。


 花結び、と呼ばれるその結び方は、古来より、人には見られたくないものを鍵をかけることなく守る優雅な手法だ。


 ケースの中央に咲いている立体的な花びらを、珊瑚は丁寧にほどいていく。紐自体に仕掛けはないので、強引にあけようとすれは鋏で紐を切れば済むことだが、手を触れたことを知られないためには、また元通りに結んでおく必要がある。そのため、閲覧者の悪意を削ぐ効果が期待できるのだ。


 中に入っていた書類は、たった一枚。

 それを手にして、珊瑚はしばらくの間もの思いにふけっていた。


◇◇◇


「大伯母様は、どこでその、新しい蛇屋のことをお知りになったのですか」


 シキが珊瑚の寝室に忍び込んできた次の日のことだ。

 珊瑚は鎌倉の大伯母のもとを訪れていた。


「どこって」


 衣擦れの音をさせて、大伯母が手づからお茶を運んでくる。


 もう髪も白くなっているが、年中着物を着て帯をしめているせいか、その年とは思えないほど姿勢がよく、立って歩く姿は女の珊瑚から見ても、たおやかという言葉がしっくりくるような人だった。


「こういうことはね。ことさら公にしなくても、なんとなし、耳に入ってくるものなの」


 御所望のもの、これよ。と言って差し出されたのはかなりの年数を経過していると思われる和綴じの冊子で、大きさは普通のノートと同じくらいだった。


 受け取って珊瑚は、おや、と思う。

 薄かったのだ。びっくりするほどに。


「中を見てもよろしくて?」


 どうぞ、と大伯母がうなずいたのでひらいてみると、薄いのも道理で中身は一ページしかない。


御堂寺みどうじ家の女は、かつて一度しか、蛇屋を頼んだことはない、ということですか?」

「ちょっと違うわね。依頼者の部分をよく見てごらんなさい」


 初井ヒサ、とあった。聞いたことのない名前だ。

 かつて大伯母に仕えていた乳母の名前なのだと彼女は言った。


「これ……コピーさせていただいてもいいでしょうか」

「いいけれど。関係者以外は、他見厳禁よ。あなた、花結びはできたかしら?」

「いいえ」


 言うと大伯母は、そうね、あなたも十六歳、そろそろひとつくらいは結べても良い頃ね、と言って長い組み紐を持ってきた。


「知識としては知っているでしょう」


「結び方を知っている人間しかほどくことができない。エレガントな秘密の保ち方ですわ。もちろん相手がなりふり構わず奪う気なら、如何ともしようがないけれど、そこに手をかけたことを知られたくない、と思っている人間相手にならば、多少の抑止力にはなる」


「そうね。──そしてこれから教える結び方は、代々御堂寺の女に伝わってきたものなの」


 言いながら、彼女はくるくると細い指を動かして、あれよあれよという間にテーブルにあった大きなガラスの灰皿を結んでしまった。灰皿の中心には、厚ぼったい花びらがいくつも寄り集まった花が見事に咲いている。


 それは初心者にはいかにも難易度が高く思えたので、いそいそとテーブルの上を片付け、教える準備をする大伯母に、珊瑚はおそるおそる声をかけた。


「あのう、大伯母様……最初なので、できればもう少しやさしいものを」

「これの名前は、紫陽花」


 大伯母は珊瑚の台詞を無視して言った。


「今の季節にぴったりで、素敵じゃない? さ、一緒にやってみましょう」


 逃げるに逃げられなくてはじめてみると、意外にも大伯母は教え方が上手だった。


 隣に並んで一緒にやってみせるのだが、はじめの部分でもどかしいほどゆっくりとすすめる。そのおかげで、あとになるほど理解は進み、素早く手が動いた。

 ひどく時間がかかったと思うのに、時計を見ると二十分もたっていなかった。


「では、ひとりでやってみましょうね」


 そう言って大伯母は席を立ち、珊瑚が練習している間に顧客台帳のコピーをとってきてくれた。


「まあ、悪くないわよ。何度か練習すれば、もっとよくなるわ」

「ねえ、大伯母様」

「なあに」

「友達って、どうやってつくるの」


 珊瑚の台詞に、大伯母は目をぱちくりさせた。


「友達になってって、言えば?」


 珊瑚は横目で大伯母を見やる。

 これだから大昔の人間ていやだわ、今は明治じゃないんですよ、と嫌味をいおうとしてそれは飲み込み、かわりにこう言った。


「子供じゃあるまいし。わたくし六歳ではなくて十六歳ですわ」


◇◇◇


 その夜、シキは消灯時刻を過ぎても帰ってこなかった。


 いったいどこで何をしているのやら、小さな島ゆえ、どこかにいるのは間違いないのだろうが、と珊瑚は先にベッドに入る。


(話したいこと、あったのに……)


 小さな灯りだけつけて眠らずに待っていると、やがて外に面した窓が開く気配がして、ガサガサ、と物音がした。


「……シキ、なの?」


 幾分びくつきながら言ったのに、うん、あたしー。とのんきな声が帰ってきてほっとするより先に憤慨した。なぜあなたは窓から帰ってくるのよ。


「遅かったのね、こんな時間まで、なにを……」


 眉をひそめてベッドから顔を出した珊瑚は固まる。シキはその手に、明らかに夜刀やととは違う別種の蛇をぶら下げていたのだった。


 夜刀ならば、この数日でずいぶん慣れたつもりだった。

 部屋の隅で彼がとぐろを巻いていても、その尻尾が部屋の中ほどにはみ出ていても、またいで通れるくらいにはなっていた。だから自分なりにかなり蛇に慣れたつもりでいたのだが、今、シキの手にいる蛇は明らかに激昂しうねり暴れて、シキと言わず珊瑚と言わず咬みつこうとして口から鋭い呼気を出していたし、頭部はごつごつとした三角形で、瞳はぎらつく金色だった。


「いやあ、いい蛇いるわーここ!」


 珊瑚はベッドの内側に可能な限り身を隠して、片目だけ出す格好でシキに声をかける。消え入るような声になったのは、無理もなかった。


「なに……それ」

「ハブ。でも本当はさー、もっと南じゃないと生息してないはずなんだよねえ。ねえ、どうしてお前はここにいるの?」

「本人に聞くのね……」


 カッ、カッ。尻尾をつかまれていても大きく体をくねらせて、蛇は頭部をシキにぶつけていこうとする。それを、宙で二、三度手首をきかせてうまく攻撃態勢を解かせながら、めっとシキは蛇をにらんだ。


「こら、殺気出さないの。大人しくする!」


 ベランダにサンダルをハの字に脱ぎ捨てて、ひざ丈のハーフパンツに裸足という格好のシキに珊瑚はぞっとした。こんな無防備な格好で、毒蛇のいるようなところを平気で歩いていたなんて信じられない。

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