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第3章 失われた顧客名簿 3

「誰と、誰の」


 冷ややかに見つめる珊瑚に、彼は臆面もなく言ってのけた。僕と、あなたの。

 たわけたことを、と珊瑚は思った。


「いつから、ここに?」

「昨日から」


「理由を伺ってもよろしいのかしら」

「別にいいですけど、珊瑚さんが思っている通りの答えだと思うから、聞くだけ無駄なことだと思いますよ。──ああ、無駄って言い方はよろしくないかな。余裕。余裕でどうですか」


 にこお、と微笑むその顔は、それが彼でさえなかったらかわいい後輩、もしくは弟みたいに思えたかもしれなかった。


「余裕って、大事なことですよねー」


「ええそうね、大事なことね。見合い予定の相手を追いかけて即座に自分も編入してくる、そんなやり方が逆効果だと、わかっていながらやってこられたのは、あなたに余裕がないからなのかしら、それともわたくしに手袋を投げたおつもりなのかしら」


「えっ決闘ですか。やだなあ違いますようー」


 皮肉というにはあまりに直截な、とげのある物言いにも彼は顔色ひとつ変えなかった。


「誤解があるとよくないので先に申し上げておきますね? 僕にとっても、今回のお見合いは一方的に用意されたものであることに変わりありません」

「──そうなの?」


 珊瑚の眉がわずかに下がる。


 ええ、と朝彦は愛想よく笑って見せた。まだ十四歳とは思えぬ落ち着きっぷりと愛想の良さは、彼が少なからず社交の修羅場をくぐってきたことを彷彿とさせる。また、そうであったとしてもちっともおかしくはない。なんといっても東郷家の子息なれば。


「お宅のおじいさまに気に入られたのは、知ってましたけどね。僕ねえ、年寄り受けがいいんですよ。政治家の家に生まれると爺さん転がしがうまくなるのかどうか、知りませんけど」


 ちょっと肩をすくめて、朝彦は続けた。


「だいたい僕、まだ中学生ですよ。御堂寺みどうじの名前は確かに魅力的ですけど、婿入り先を決めるのはもう少し先でもいい気がして」

「では」


 それならば共闘できるのではないか。ふたりで口裏を合わせて見合いを破棄できるのではないか。そう思って口をひらきかけた珊瑚に、朝彦は悪戯っぽく笑った。


「でも、あなたのことは気に入りました」

「……はっ?」


 思わず、素で眉をひそめた珊瑚に、朝彦は言ってのけた。


「僕と結婚するなら、すごーく馬鹿で僕のいいなりになるタイプか、逆にすごく聡明で、ともに戦えるタイプの女性がいいなってことはなんかもうわかってるんですよね。中途半端が一番よくないと思うんです。その点、あなたは一緒に戦えるタイプだとお見受けしたので、これは、わざわざお顔を拝見しにこんな場所まで追いかけて来てよかったなと。思ってる次第ですー」


 咄嗟になにか言い返したくて、珊瑚は言葉を探した。


 できるだけとげのある手厳しい言葉がよかったのだが、感情に相応しい、力のある言葉が見つからない。珊瑚の目の前で、朝彦はぬるくなったお茶を口にする。


「あなたは行動力がありますよね。たった五日でここにやってこられる人は珍しい。僕ですら一週間かかったのに」

「わたくしの力では、ないわ」

「知ってます。蛇屋、でしたっけ? 男の僕にはなじみのない人々ですが」


 でも、どんな協力者を得られるかというのも、実力のうちだと思うんですよ。と屈託のない表情で言う彼に、珊瑚は思った。わたくしは、愚かな間違いをしたのかもしれない、と。下手に動かずにじっとしていれば、もしかしたらこの少年は、自分のことを単なる箱入り娘だと思ってこの話は流れたのかもしれない。


「それに、動揺を抑え込むのもなかなかうまいですよね。甘やかされたお嬢様かと思っていたけど、どうしてなかなか。この人なら大丈夫かなー、と思いました」

「なにが大丈夫なのよ。勝手なことを」


 朝彦はにっこり笑って残りのお茶をからにすると、静かにカップを置いて立ち上がった。


「今日のところは、これだけ伝えられたので僕は満足です。安手の恋愛映画じゃあるまいし、出会いさえすれば都合よく恋になるとは思いません。あなたが僕に反感を抱いているのも承知の上なので、すぐさま心をひらいてもらえるとも思いません。……だけど、こう考えてみてもらえないですか」


 海から強い風が吹いて、朝彦の臙脂色のネクタイと長めの前髪をひらりと揺らした。


「味方につけて損はない相手だって」

「……それは、あなたが決めることではないような」


 言いたいように言わせておくつもりはなかったので珊瑚がそうとだけ返すと、朝彦は椅子を引いて軽く一礼した。


「じゃ、僕はこれで。お茶をどうぞ楽しんでね」


 朝彦が立ち去ってしまっても、珊瑚はしばらくその場を動かなかった。

 じっと厳しい顔つきで、目の前のティーセットを見据えていた。


◇◇◇


 元来た道をたどらずに、あえて反対側の道を選んだのは、なんとなく、彼と同じ道を使って帰るのが嫌だったからだが、どうやらそれがよくなかったらしい。


 女子寮の建物はすぐ目の前に見えているのだが、肝心の道が続いていなかった。


 高い壁で囲まれた小道には人の気配もなくて、一本道だったのでずっと歩いていくと遂には行き止まりになってしまった。行き止まりだなんて嫌なことだわと珊瑚はため息をつく。まるで、これからの自分を暗示されているようで嫌になる。

 煉瓦と石造りの高い壁で校舎がぐるりと囲まれているのは、台風や湿気、海風などを考えに入れて校舎を守るためなのだろうが、実際そこに身を置いてみると、中の声を外へ漏らさないためのもの、のように思われて仕方がなかった。


 仕方ない、素直に引き返そうと決めて珊瑚が身を翻し、ひとつめの角を曲がった時。黒いマオカラーの上着に身を包んだ学園長がそこにいた。


 彼は襟元のホックを外して、そこから細い鎖つきのロケットを引き出し、表面の覆いを外して中にあるものに口づけているところだった。

 見てはいけないものを見た気がして、珊瑚の足が止まる。だが遅かった。


 きれいに編み込まれた髪の毛のようなものに唇を触れさせたままで、彼が珊瑚の方を見る。


「やあ」


 人がふたりようやくすれ違えるほどの細い通路だ。逃げ場などなかった。


「すみません、覗き見のつもりはなかったのですが」

「構わないよ。母と話をしていただけだから」


 ──遺髪。ふと珊瑚はそんなことを思った。親しい死者の髪をひと房切り取り、常に身につける習慣は各国にあるものだ。


「母、母とあまり言ってはよくないのでしたっけ。こういうの、日本ではマザコンと言いますよね。そうでしょ?」


 珊瑚は苦笑した。


「いえ、まったく、そんなことは」


 歩いていたら袋小路だったことを話すと、彼はなるほどと慣れた微笑を浮かべた。パチン、とロケットの蓋を閉じて襟元に落とし込む。


「その先は、通り抜けできないようになっているのです。島の地形と土壌の関係で、こちら側は危ないと建築士が言うのですよ。大まわりになってしまいますが、あちらから」

「わかりました」

「行きましょうか」


 自分も身を翻す学園長の後ろについて歩きながら、珊瑚はハッとして勢いよく背後を振り返った。


「なにか?」


 学園長が首をかしげて珊瑚を見る。


「いえ、なんでもありません」


 珊瑚は言いつくろったけれど、気のせいだろうか。今さっき、誰かの視線を感じたような気がしたのだ。

 もちろんそこには、誰もいはしなかったけれど。

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