188話 冥淵シーパラダイス
〜氷精地方中部 冥淵の海〜
水深1000m。酸素どころか一条の光も届かぬ暗闇。海流が発生する海とは違い、更には全方向を岩盤に囲まれた縦穴の最深部に生物の姿は無く、あるのは時折落下してくる小石や何かの破片程度。旧文明では偉大なる墓場と呼ばれた、嘗ての自然遺産である。
施設から抜け出した研究員達は水温4℃という極寒に身を震わせながらも、耐えられる程度には防寒魔法も耐圧魔法も機能していることに安堵して胸を撫で下ろす。背負った酸素ボンベ含め、潜水スーツにも異常はない。ただ一つ、急浮上を手助けするエアーボールを用意する時間がなかったのを悔やみながら、急いで浮上を開始した。
その時、ひとりの研究員がふと真下を見下ろした。あの使奴は追ってきていないだろうかという不安からだったが、古ぼけたヘッドライトの淡い光では水深1000mの暗闇を照らすことはできなかった。それに、どうせ視認できたところで成す術はないと視線を戻そうとした直前、足元が淡い青色の発光を見せた。
その光は他の研究員達にも見えたようで、全員が思わず足元に目を向けた。そこには、今まで放り捨ててきた“失敗作”が山となり水底を埋め尽くしていた。
使奴のプロトタイプになり損ねた、魔導ゴーレムの残骸。複製のメインギアによる使奴細胞の移植を受けておきながら、自我を確立することのできなかった初期不良品。膨大な魔力を蓄えていながら、その活用法が見出せなかった人間の形をしただけの粗大ゴミ。それらはいつのまにか、ゴミ排出口のすぐ下まで積み重なってきていた。
そして、その残骸のうち、一本の腕が緩やかに浮上を始めた。
続けてもう一本。足。頭。胴。それらは歪に重なり合い、幾つかの塊になって青色の発光と共に浮上している。
その塊と距離が近くなるにつれて、段々と研究員達は気付く。これは浮上ではなく、“壁を登っている“のだと。青白い光はバクテリアの生物発光などではなく、“魔法を発する時に生じる波導光”であると。そして、この使奴の残骸を背負っているものは”生きている“と。
「ごぽっ。ごぼぼぼぼぼぼぼぼっ!!!」
研究員の1人の腕が、真っ二つに切断されて水中を舞う。使奴の残骸を背負った何か達がその研究員に群がり、不気味な破砕音と共に赤い水を煙のように撒き散らした。その時、研究員達はその中に見覚えのある”鋏“を見た。
この何かの正体は、冥淵の海の固有種である蟹。”ハナサキモクズショイ“である。
本来この生物は非常に臆病で攻撃性は全くと言っていいほど無い。モクズショイの名の通り、藻や海綿などを背負い周囲の景色に擬態し、その上身体中に花が咲いているかのような荒々しい棘まで生やして己の身を守っている。
しかしこの臆病な生物は、廃棄された使奴の残骸から漏れ出た高濃度の魔力によって奇怪な突然変異を遂げた。
藻屑を背負う代わりに使奴の残骸を背負い、それを魔力電池として使うことで節足動物とは思えぬほど莫大な魔力を得た。防衛のために生やしていた棘はさらに鋭く歪に伸びて、空間と肉体の接触面積を増やすことで魔力をより効率的に体内外で循環することを可能とした。性格は獰猛に、凶悪に、そしてより臆病になった。
こうして、ハナサイモクズショイ達は気付く。自分達の恐れる敵は、“殺してしまえば二度と襲ってくることはない”と。たった1匹で師範代レベルの魔術師に匹敵する威力の魔法を放つこの蟹は、後に“シドカブリ”の名で恐れられることとなる。
「ごぽっ……!!! ごぽぽぽぽっ……!!!」
魔力の刃で忽ちバラバラにされていく男。研究員達は血相を変えて水を掻き、涙と涎を水に溶け込ませて逃げ出した。足元では未だに波導光がチラついているが、もうそれを見ている余裕も度胸もない。
今彼等を守っているものは、年代物の潜水スーツ1枚のみ。防刃や防魔なんて贅沢な加工は当然ない。それどころか、指一本であっさりと破けてしまうほどに脆い、耐圧魔法の媒介としてしか意味のない薄布。しかし、この薄布が少しでも破けてしまえば、耐圧魔法に罅が入り肉体は忽ち水圧で押し潰されてしまうだろう。
時間をかけてでも浮上用のエアーボールを用意するんだったという後悔の中、少しでも早く水面に辿り着けるように岩肌を蹴って浮上を急ぐ。幸い蟹達の歩みはそれほど速くはなく、このまま休まず逃げ続ければ追いつかれることはないように思えた。
少しずつ水温が上がっていく。心なしか目に光を感じる。それは希望の光にも思え、段々と明るくなっていくブルーホールの出口を楽園への入り口に錯覚しながら、胸を高鳴らせ昇っていく。その時、楽園の入り口に突如魚影の大群が現れた。
研究員達の目の前に現れた魚群は、円を描くように頭上を遊泳している。しかし、ハナサキモキズショイに追われている今そんなことを気にしている場合などなく、魚達の間を抜けて通り過ぎようとした。
その時、”斧のような形の巨大な吻を持つ魚“は、研究員の眼前で突如膨大な波導を放出した。
“オノベラチョウザメ”。ハナサキモキズショイと同じく冥淵の海の固有種であり、使奴の残骸の魔力に当てられた突然変異種である。
サメとよく似た外見のチョウザメだが、チョウザメとサメは全くの別種であり、自分より大きな体の生き物を襲う習性はなく、歯すら持たない。通常のチョウザメよりも幅の広い巨大な吻を持ち、一見凶暴そうに見えるオノベラチョウザメとて例外ではなく、突然変異を起こした今もその部分は変わらない。
しかし、この冥淵の海で起こった死亡事故の原因の7割は、このオノベラチョウザメによるものである。
互いに示し合わせたかのように波導を放出したオノベラチョウザメの群れは、研究員達を囲んで雷魔法を発動し、ブルーホールの出口を封鎖するように電流の檻を作り上げた。
「がぼっ!? がぼぼぼぼぼっ!!!」
不意を突かれた研究員達は全身を痙攣させ、雷魔法に阻まれその場に閉じ込められる。すると、1匹のオノベラチョウザメは1人の研究員に近づき、酸素ボンベから伸びるホースを咥えて引っ張り始めた。研究員は慌ててチョウザメを追い払おうとするが、そこへ他のチョウザメも集まってきて、研究員のゴーグルやマウスピースを引っ張って外そうとしている。まるで、それが何のためについているのかを知っているかのように。
突然変異したオノベラチョウザメの最も変異した生態は、主に魔力。次いで脳の肥大化に伴い芽生えた“好奇心”である。今のオノベラチョウザメの知能は人間の4歳児に相当し、特に元々得意としていた魔法に関しては人間以上に緻密な術式を操る。
この、恐ろしく狡猾で無邪気で幼稚な賢者は、変わり映えしない湖の中で常に遊びに飢えている。
研究員の潜水スーツに、オノベラチョウザメが反魔法を押し当てる。耐圧魔法はシャボン玉が割れるように消え去り、水深200mの水圧が研究員を押し潰す。研究員の口から僅かに泡と血が漏れ、程なくして力無く緩やかに落下していく。
そして、下の方にいるハナサキモキズショイが烈火の如く魔法を乱発し、落下してきた研究員の肉をミンチ状に引き裂いた。そこには人型だった面影はどこにもなく、ただの赤い紐となって海中を漂うのみ。
研究員達は血相を変えて電流の檻を突破しようと反魔法を唱える。しかし、雷魔法が解除されるや否や、別のオノベラチョウザメが再び魔法を発して檻を再構築してしまう。この抵抗を、玩具が無様に足掻くのを、オノベラチョウザメ達は決して邪魔せず、静かに眺めるばかり。
「がぼっ……ぼぼぼぼっ……!!!」
研究員達は堪らずオノベラチョウザメに攻撃魔法を放つ。だが、チョウザメ達はそれを嘲笑うかのように優雅に避け、偶に防御魔法で跳ね返し、それどころかわざと被弾して回復魔法で即座に治療してみせた。獲物が滑稽に足掻き、必死で藻掻く様を、蟻を捕まえた子供のように眺めている。子供が蟻の足を捥ぐのも、触覚を引き抜くのも、単なる無邪気な好奇心に過ぎない。このオノベラチョウザメの生死を弄ぶちょっかいも、全ては無意味な興味本意である。
そしてとうとう、ハナサキモキズショイが研究員達に追いついてしまった。チョウザメ達のお遊びとは比較にならない高威力の電撃が、明確な殺意を伴って研究員の身体を貫く。
頭上には無邪気な悪魔が。足元には邪悪な獄卒が。もう200mほどで辿り着ける水面が、こんなにも遠い。研究員達の中から希望の灯火が消えかけた時、眼前の電流の檻が突如として消え去る。
そして代わりに、夥しい数のクラゲが現れた。
“ヒョウザンクラゲ”。体長30cm程度から100mと、個体差が著しい白色のクラゲである。小魚を追い払うための微弱な反魔法を放ちボートの運搬魔法や検索魔法を妨害することから、“フナユウレイ”の別名を持つ。
オノベラチョウザメが呼び寄せたヒョウザンクラゲは実に数百匹。淡水に適応したこのヒョウザンクラゲは、特に使奴の残骸によって突然変異を起こした種ではない。しかし、それでも研究員達の発狂を煽るには充分だった。
ヒョウザンクラゲが帯びている反魔法は、極めて原始的で微弱なもの。しかし、研究員達の着ている潜水スーツは大昔の安物。簡素な耐圧魔法は到底耐えられない。更には、ヒョウザンクラゲの持つ毒は決して強いものではないが、患部に強い腫れと鋭い激痛を及ぼす。
水面までを隙間なく埋め尽くすヒョウザンクラゲの群の中を突っ切るのは、縫い針で満たされたプールを泳ぎ切るのに等しい覚悟が必要だった。
それでも、研究員達は進むしかない。
迷って立ち止まれば、ハナサキモクズショイによる確実な死。進めば、想像を絶する痛みと引き換えに微かな生存の可能性が生まれる。そして何より、彼等にはもうマトモに考えられる判断力は残されていなかった。
1人がクラゲの群れに手を突っ込み、掻き分けて浮上して行く。また1人、また1人と昇っていく。それをオノベラチョウザメ達は黙って眺め、未だ足踏みしている研究員達を急かす様子もなく見つめている。そしてクラゲの中に進むのを躊躇った数人は、ハナサキモクズショイの放った魔法で切断され水底へと落ちて行った。
クラゲを掻き分ける研究員達は、必死に防御魔法を全身に掛け続けながら浮上を急ぐ。ヒョウザンクラゲの毒は、発症までに僅かなラグがある。毒の効きは個人差が激しく、早くて数秒。遅ければ数分。中には、数時間後に痛み出す者もいる。彼等は痛みが来ないことを天に祈りながら、猛毒のヒョウザンクラゲを押し退け、水圧に抗い水面まで必死に藻掻く。
「がぼっ!!! がぼぼぼぼぼぼっ!!!」
それでも、化学反応は無慈悲に研究員を襲い、1人ずつ地獄の渦へと吸い込み切り刻んでいく。通常であれば、少し触れただけで激痛が発生するヒョウザンクラゲの触手。それを恋人のように頬擦りをしてしまえば、訪れる痛みは図鑑通りでは済まされない。
「がぼぼぼぼぼっ!!!」
「ばばばばばばばばばばばっ!!!」
「ごぽ……。こぽ………………」
視界の端で、誰かが体を抱いて悶え苦しんでいる。クラゲの隙間から、尋常じゃない量の泡を吐く同僚の姿が見える。自分の先を泳いでいた後輩は、痛みを恐れて自ら喉を裂いてあの世へ逃亡した。遠くでチョウザメがこちらを見ている。こんなことなら、大人しく使奴に殺されていたらよかった。
それでも、それでも、それでもそれでもそれでもそれでも。
私は、生き延びたい。
「ぷはぁっ!!! はっ!!! はぁっ!!!」
1人の研究員が水面から顔を出し、渇望していた天然の空気を肺いっぱいに吸い込む。幸い毒の効きは遅かったようで、指先が多少痛む程度で済んでいる。減圧による苦しみも、まだ襲ってきてはいない。水面には自分1人。どうやら、他の者はダメだったらしい。それでも、生の喜びに心は打ち震えた。生きていてよかった。諦めないでよかった。そして、岸まで泳ごうと振り向いた時――――
「おめでとー! やるじゃなーい!」
あの使奴が、目の前の水面に立っていた。
「ひっ……!!!」
「いやあ意外と何とかなるもんだね! チョウザメが舐めプしてくれてよかったねー」
「あ、あ……!!!」
「やだなあ、そんな顔しないでよ。ちゃんと見逃してあげるってば! 私は今からあっちでカニ鍋やるんでね。じゃ、ばいばーい!」
使奴は満足そうに笑い、そのまま水面をスキップして岸の方へ去って行った。そこで、生き残った研究員は気付く。
岸が、遠い。
200年前の大戦争で、冥淵の海の面積は40%程広がっていた。そのせいで、昔はブルーホールから岸まで100m程だったのが、今は最短部分で1km以上離れている。
「ああ……ああああっ………………」
指先の痛みが広がってきた。足先にクラゲの柔い感触がする。
「そ、そんな…………」
水面からオノベラチョウザメが長い吻を覗かせ、じっとこちらを見ている。
「頼む、お願いだ……」
足首にクラゲの触手が絡まり、僅かに水中へ引っ張られる。
「たす、けて……」
「実験体が命乞いした時、お前は助けてやったのか?」




