142話 幸せのつかみ方
毎日が苦しい。
「あのさぁ!! 電車の遅延ぐらいで遅刻すんなよ!! 分かるだろフツーよぉ!!」
「す、すみません……」
「すみませんじゃねぇだろすみませんじゃよぉ!!」
贅沢もしてない。悪いこともしていない。
「女だからって許されると思ってんだろ」
「い、いえ……そんなことは……」
「口ごたえすんな!! 言っとくけど、俺そーゆーの超嫌いだから」
常に誰かのために、不出来な私にも出来ることを精一杯。
「コーヒー」
「えっ? あ、今課長に呼ばれてまして……」
「あ? チッ……気が利かねー……」
波風立てないように、静かに、丁寧に。ちゃんとした人間になれるように。
「あのさあヒシメギさん。全く同じこと、前にも注意したよね?」
だけど、その“丁寧”が全て裏目に出る。
「勝手なことしないで下さい。他の人のことも考えて」
判断の選択肢は、大抵たかが2択か3択。それらを尽く外す。
「言われなくても分かるでしょ! 学校で習わなかったの!?」
した方がいいのか。しない方がいいのか。聞いた方がいいのか。聞かない方がいいのか。待った方がいいのか。動いた方がいいのか。
「ちょっとさあ、優先順位考えてよー!」
ちゃんとしよう。ちゃんとしなきゃ。簡単なはずなんだ。言われたことを守ればいい。
「言われたことしか出来ないの? 少しだけでもさ、頑張ろうとか考えないわけ?」
出来るはず。みんなやってる。私にも出来る。大丈夫。
「いい加減にしてよ!」
出来る。
「何度言ったら分かるんだ!!」
大丈夫。
「ふざけんなよ!」
ちゃんとしなきゃ。
「もういいよ。俺がやる」
今度こそ
「ねえ、これ何?」
丁寧に。
「こっちの身にもなれ!!」
頑張ろう。
「勝手なことしないで」
普通は出来るんだ。
「ホント役に立たねぇ〜」
出来る。
大丈夫。
出来る。
出来る。
私にだって出来る。
出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る出来る。
「ごめん。君より大切にしたい人ができた」
「………………え?」
「離婚してくれ」
「ちょ、ちょっと待ってよ。どういうこと?」
「ごめん」
「ごめんって……!」
「本当に申し訳ないと思ってる」
「そ、そんなこと急に言われたって……!! アパートはどうするの!? 車だって2人で一緒に買ったんじゃない……!! 子供が産まれても乗れるように、ちょっと無理してでも大きいのをって!!」
「ごめん」
「今の会社だって、貴方の口利きで入れてもらったんじゃない……」
「ごめん」
「家も、車も、仕事も……何もなしで、私は、私はこれから、どうしたらいいの……?」
「ごめん」
今思えば、全部私の所為だった。
彼と付き合ったのも、向こうが強引に寄ってきたのを断りきれなかったから。拒否して嫌な顔されるのが怖かった。
今の会社に入ったのも、彼の友達の紹介を断れなかったから。自分には不向きだと思ったけど、断って彼の評判を下げるのが怖かった。彼の、私が思い通りに動かなかった時に向ける眼差しが怖かった。
結婚したのも、ママとパパの勧めを断れなかったから。2人とも彼のことをいたく気に入っていて、会うたびに孫の顔やら女の務めやらと言われるのが怖かった。実家から電話がかかってくると、会社の呼び出しと同じくらい心臓が縮まった。カレンダーにつけた帰省の2文字が、眠りに落ちる直前までまぶたにへばりついて離れなかった。
会社のプレゼンもそう。接待もそう。社員旅行もそう。飲み会もそう。タクシーの時もそう。卒業式の日もそう。修学旅行の時もそう。席替えの時もそう。私立に行かされたときもそう。ピアノや、習字を習わされたときもそう。全部そう。
ずっと馬鹿な妄想ばっかりしてたんだ。いつかちゃんと全部が出来るようになって、誰からも頼られるちゃんとした人になれるって。
もっと早く気づけばよかった。
今はもう。
全てが手遅れ。
「捕まえました」
「よし、連れて行け。くれぐれも傷つけるなよ。代わりはいないんだからな」
〜診堂クリニック 第一診堂中央総合病院〜
煉瓦造りの二階屋。尖塔が幾つも突き出た石壁の教会。幾何学模様を描いた石のタイルが広がる大通りに、城壁のように背の高い白塗りのマンション群。そこかしこで真っ黒な排ガスを撒き散らす重機が唸りを上げ、大量の土砂や瓦礫を積んだガソリン車が車軸を軋ませ土埃を巻き上げる。国内での技術成長を待たず、国の外から取り入れた高度な技術と有り余る資源によって、風船を膨らますが如く急激に発展した都市国家。“診堂クリニック”。
この国の起源でもあり文明発展の中枢、国の中心に位置する巨城――――――――基、第一診堂中央総合病院。その構内は、連日大勢の患者と医療従事者でごった返しており、今日も怒号と悲鳴が飛び交っている。
「アモリガイさんの検査結果まだかよ!!」
「22番調剤担当の方、大至急受付までお願いします――――」
「だぁからウチの子は大っきい錠剤なんか飲めないの!!」
「痛いぃ〜! 痛ぁい〜!! 看護婦さん早くぅ〜!!」
「フィズリース先生の手術はまだ終わんないの!?」
「今朝からね! しゃっくりが止まらんのですわ! ガハハ!」
「おじいちゃん勝手に点滴触っちゃダメ!!」
「今日ニジェスさんの胃カメラやるっつったじゃん!!」
「勝手に受け入れんな!! ベッドどうすんだよ!!」
「おいおいおいおい何で両替機に診察券入れた!?」
「ちょっとぉ!! 私の番号まだぁ!? 夫が車で待ってんのよぉ!!」
「道開けてください!! ベッド通ります!! 道開けてください!!」
「ナースコースはテレクラの発信ボタンじゃねぇんだぞジジイ!!!」
「うわあああああん!! お母さんどこー!?」
「発券機から紙出ないんですけどー」
「今日の麻酔担当が遅刻してんだってば!!」
「”せーけーげか“なんて言われても分かんないわよお!!!」
「エンリンさん!? 院内でお酒はダメってあれほど――――!!」
「ブッキングしたぁ!? どうすんだよもう管入れちまったんだぞ!!」
今際の際を彷徨う重症患者。限界寸前で奮闘する医師。意味もなく医者を引き止める患者。現実逃避から姿を消す医師。冗長に診察を引き伸ばす者。手心もなく突き放す者。道理を叫ぶ者。何も考えていない者。医者と患者と賢者と愚者が十重二十重に交差する阿鼻叫喚の坩堝。
「おかーさーん!! おかーさーん!!」
苦痛と苦労の間隙を、ひとりの子供が駆けていく。時折人や物にぶつかりながらも、その足は決して止まることはない。
「っだぁ!! 危ねぇなこのガキ!!」
「痛っ! ちょっともう何〜!?」
「ごめんなさいくらい言ったらどうだい!! 全くもう……!」
「ちょっとボク!! 院内では走らないで!!」
逃げ惑う子供の前に、看護婦が立ちはだかって受け止める。
「はい捕まえた!! お母さんとはぐれちゃったの? お名前は?」
「うわぁぁあああん!! あああああああああっ!!」
優しい看護婦の言葉にも子供は泣き止まず、それどころか激しく足をバタつかせて拘束を振り解いた。
「あっ! ちょ、ちょっと!! 待って!!」
「ああああああああっ!!! おかーさーん!!! おかーさーん!!!」
子供はそのまま病院の奥へと逃げて行く。否、駆けて行く。
「足が、足が痛いよぉっ……!!! おかーさーん!!! 足が痛いよぉ!!!」
子供の叫びに、院内が凍りつく。足が痛いと叫ぶにも拘らず、走ることを決して止めない子供。その声に、子供を追いかけていた看護婦も、部下を怒鳴りつけていた医師も、受付に食ってかかっていた老人も、息を呑んで押し黙った。一瞬だけ時間が止まったかのような院内で、誰かが思わず呟いた。
「し、疾走症……?」
刹那。止まっていた時間が動き出す。
「うわああああああああああっ!!!」
「“疾走症”だっ!!! 逃げろっ!!!」
「押さないで!! 押さないで下さい!!!」
杖をつく老人も、車椅子の若者も、点滴を引き摺る女性も。その場にいた者達が一斉に出口へと走り出す。躓いて転んだ者を跨ぎ踏みつけ、歩みの鈍い者を突き飛ばし、我先に前へ前へと逃げて行く。
診堂クリニックは世界で最も優れた医療技術を持っているにも拘らず、国を出入りする者は他国に比べて圧倒的に少ない。その理由がこの“大疫病”にある。
走ることへの強迫観念から、死ぬまで走り続けてしまう”疾走症“。
喉が白く硬化し、内部が裂けて自らの出血で溺れ死んでしまう”溺死病“。
予測不可能なタイミングで、発狂するほどの激痛と呼吸困難を引き起こす非致死性の偶発性多臓器不全。通称“拷問病”。
鮮明な虫の幻覚を伴う強烈な蟻走感と非現実的な被害妄想。そして、それらから逃れる為には食事と排泄が有効だと信じ込んでしまう“暴食症”。
怪我をした際に周囲の物体を薬だと思い込んでしまう薬への執着と、それによって怪我が治ったと思い込んでしまう”イシャイラズ“。
上半身、特に末端の指や耳が裂傷を伴って膨れ上がる“柘榴腫脹“。
好意と殺意の区別がつかなくなる“義殺衝動”。
単語が理解出来なくなる“鸚鵡症”。
単独での妊娠を引き起こす”不知懐胎“。
舌が充血によって肥大し硬化する”舌勃起“。
顔面が溶ける”溶顔病“。
万人を愛してしまう”博愛譫妄“。
感染力が強く、原因不明、治療法が存在しない。そして、その全てが200年前の大戦争後に発見されている。診堂クリニックは、この大戦争後に発見された原因不明の病を“大疫病”と呼び、200年間研究し続けてきた。しかし、未だ明確な治療法は確認されていない。ただ一つの方法を除いて。
「おかーさーん!!! ゲホッ!! ああっ!!! ううううう……!!!」
「1-4C通路、封鎖します!!」
館内放送を合図に、子供のいた廊下の前後に紫色の防壁魔法が展開される。防壁は徐々に狭くなり、走る距離を奪われた子供はその場に倒れ込んで激しく足をバタつかせる。
「うっ、うっ、うっ、うっ。おかあ、おかあさ、お、おかあ、おかあさ、お」
疾走への強迫観念から、身動きの取れない子供は血が出るほど喉を掻き毟って身を悶える。そこへ、ひとりの白衣を着た白い髪の女性が息を乱れさせながら走り寄る。
「はぁっ。はぁっ。管制室、現場到着しました」
「確認しました。防壁一部解除。"レシーバー"接続します」
合図と共に防壁に小さい穴が開き、天井から電線のような紐が垂れ下がる。
「もう大丈夫。すぐに良くなるからね……」
白衣の女性は防壁に開いた穴から腕を入れ子供の額に手を触れ、もう片方の腕で天井から垂れ下がる紐を握る。そして暫し目を瞑ると、子供の苦しみに染まっていた表情が段々と穏やかになり落ち着きを取り戻していく。
「気分はどう? どこか痛いところはない?」
子供は薄く目を開け、譫言のように呟く。
「お母さんは……?」
「そうだね。お母さんを探しに行こうか。ひとりで立てる?」
子供は小さく頷き、床に手をついて起き上がろうとする。
「痛っ!」
しかし、力を入れた途端に足が痛み、姿勢を崩す。白衣の女性は咄嗟に受け止め、駆け寄ってきた看護婦に声をかける。
「レントゲン室の手配を。それとヨクァ先生に連絡を取って下さい」
「は、はい!!」
〜診堂クリニック 第一診堂中央総合病院 貴賓室〜
「入ります」
白衣の女性が貴賓室の扉を開ける。中には豪華な家具や美術品の類が整然と飾られており、とても病院内とは思えない煌びやかな光景が広がっている。椅子には数人の年老いた男女が数人座って談笑しており、そのうちの1人の男性が白衣の女性を見て笑顔で手を振った。
「おっ。ホウゴウ先生! いやあ聞きましたよ聞きましたよ!」
他の者たちも大きく頷いて彼女を褒め称える。
「大疫病を治せるなんて、ホウゴウは先生がいてくれて本当に良かったわぁ〜」
「そうじゃなぁ! ホウゴウ先生はこの国の宝ですじゃなぁ!」
「使奴だっちゅうに謙虚だしのお! 顔もええで声もええで、気品もあって! それより何よりホウゴウ先生の”異能“でワシらは生かされとる! 頭があがらんでおい!」
白衣の女性――――ホウゴウは静かに頭を下げて感謝を表す。
「いえいえ、支部長の皆様方のご支援あってのものです」
「いやいやいやいや! その診堂病院支部も! ホウゴウ先生の寛大な心で運営が出来てるんじゃあありませんか!」
「そうよそうよ。私達なんて、いていないようなものだもの!」
「お褒めいただき大変恐縮です。それで、今回の疾走症の件ですが……」
「おーおー、わかっちょう、わかっちょう! 自治体の方にもうまぁく話しとくでの!」
「全く、患者共はホウゴウ先生の有り難みをちーっとも分かってないからのお!」
「いやそうなのよぉ〜。うちの院でもねぇ?」
「あーウチでもあったなぁそんなこと!」
「ほんにどーしよーもない連中じゃなぁ!」
老人達は頻りにホウゴウを褒めちぎり、そのまま流れで談笑に戻ってしまった。ホウゴウは話を邪魔しないように深々と頭を下げ、静かに部屋を出て行く。
「ホウゴウ先生!」
すると、廊下の端でホウゴウを待っていた看護婦が声をかけてきた。
「あの、先日あった入国申請の件ですが……」
「分かっています」
ホウゴウの半ば苛ついたような低い声に、看護婦はビクッと体を震わせる。
「あんな奴らに邪魔させるもんか……。至急、バシルカンに連絡を」
「え、あ、はっ、はい!!」




