115話 竜の棲む山
〜バルコス艦隊 竜宮山〜
標高4000mを超える霊峰、竜宮山。旧文明での名称は“パナ・キャ・アヤマハマ”。遥か昔から多くの人々に愛された休火山である。その天を貫く猛々しさとは裏腹に、観光事業が始まって以来観光客や登山家の行方不明や事故死が一件もなかったことから“慈悲深き帝王”の異名を持つ。
そんな慈悲深き帝王も今は昔。ハザクラ達に吹き付ける霧がかった暴風は竜の息吹の如く体力を奪い、泥濘んだ地面は侵入者を拒むように足を絡めとる。地上から10km程登った辺りでシスターは足をもつれさせて転び、倒れ込む寸前にラデックに支えられた。
「す、すみません……」
「無理もない。そも装備が登山用ではないし、寧ろハザクラのハイペースによくついてきた」
「いえ……これくらい出来ないと……」
「無理するな。ここからはアレだぞ、あの、高いところに行くとキツイやつになる」
「………………高山病、ですか?」
「そう。それだ。高山病」
「お気遣いありがとうございます……。でも、私はまだ大丈夫……」
シスターの異変に気づいたハザクラが、途中で踵を返して2人の元へと歩み寄る。
「俺の異能で補助しよう。シスター」
「大丈夫です……。この程度で根を上げていては……」
「苦しむことで強くなれると思っているなら、それは大間違いだ」
「…………」
「強くなることと苦しむことは表裏一体じゃない。無論、強くなることは往々にして苦しいことではあるが、苦しいことが強くなる方法じゃない」
「……そういう訳ではないんですけどね」
「今の貴方を納得させるなら今の説明で十分だろう」
「…………」
『下山するまで気圧と温度の変化による異常を受け付けるな』
「……‥…はい」
シスターは返事をした途端に容態が好転していくのを感じた。自分の中の不快感が忽ち消えていくことを不気味に感じ、改めて異能というものの異質さを認識した。
「ラデック、余裕があればシスターを背負ってやってくれ。俺じゃ体格が合わない」
「ああ、分かった。シスター」
「い、いや、そんなことまで……」
「気にするな。ハピネスなんか手を差し伸べる前におぶさってくる」
「あの人を引き合いに出されましても……」
嫌がるシスターをラデックは半ば強引に背負い、急勾配の岩肌を軽やかに登っていく。すると、そのすぐ後ろをゾウラが楽しそうに登ってきた。
「私、山登りって初めてです! まだ登ってちょっとしか経ってないのに景色が綺麗ですね!」
「初めて? さっき機械を運ぶのに登ってきたんじゃないのか?」
「地下水脈が山頂の池まで続いていたので! 異能でビュンッと飛んできました!」
「ああ、そうか。なら先に行っているといい。別に、無理して俺達に合わせる必要はないぞ」
「そうですか? 皆さんと一緒だと楽しいです!」
「そうは言ってもな……。あ、さっき見たかも知れないが、頂上はもっと景色が綺麗だぞ」
「本当ですか!? 先行ってます!」
ゾウラは顔を輝かせて岩肌を滑り降り、水魔法で水の槍を召喚して思い切り地面に突き刺す。その直後、ゾウラの姿は一瞬で消滅し水の槍は形を崩してバシャリとその場に落下した。ラデックはゾウラを見届けた後、再び山頂を見上げて斜面を登り始めた。
「……元気な子だ」
「急に頂上なんかに行って、気圧で苦しくなったりしないんでしょうか」
「さっきも一人で行ってきたと言っていたし、大丈夫だろう。それよりも心配なのは俺だ。ゾウラは自分の面倒を自分で見られるだろうが、俺は俺の面倒を一人で見られない」
「それは頑張ってください……」
〜バルコス艦隊 竜宮山頂上〜
「はぁ……はぁ……」
「ラ、ラデックさん。大丈夫ですか?」
「お、恐らくは……大丈夫かも知れない……。多分、改造を間違えた……。俺にも医者の知識があれば……」
登山を開始して10時間。日はとっくに落ちて、辺りは闇に包まれている。普段であれば旧文明の絶景100選にも選ばれた満天の星々が一帯を照らしているはずだが、今は真っ黒な暗雲が立ち込め、月が出ているのかどうかも分からなくなっている。シスターが炎魔法でランプを作り、下がった体温を温めようとラデックの顔を覗き込んでいる。
「お、俺もハザクラの異能を受けていればよかった……。頭が痛い……」
「循環器系の改造は行えないのですか? ゆっくりと身体を気圧に慣らして……」
「そ、そんなの、服の繊維一本一本に文字を書き込んでいくようなもんだ……! 辛過ぎる……!」
そこへハザクラが平然と歩み寄り、何かを探すように辺りを見回してから一点を指差す。
「恐らく向こうだ。先を急ぐぞ」
そう告げてハザクラは足早に暗闇へと消えていってしまった。その後ろ姿をシスターとラデックは呆然と見送り、小さく溜息を吐いた。
「人道主義も何もあったものじゃないな……」
「私たちも行きましょうラデックさん。竜の棲家であれば、大きな洞窟とかかも知れません。今は風を凌げるところを目指しましょう」
「それもそうだな……ゾウラはどこだ?」
「見つけるよりも見つけてもらう方が早いですよ。行きましょう」
「……そうだな」
辺りは歩くにつれ足場が脆くなり、乾ききった急斜面は少し爪先が当たるだけでボロボロと崩れて削られていく。そしてシスターの予想は大きく外れ、洞窟どころか道幅はどんどん狭くなってより頂上らしい景色になっていく。
「シ、シスター……! 全然洞窟じゃないぞ……!」
「あくまで“かも知れない”なので……」
「寒い……! 息が苦しい……! 身体中が痛い……! 登山家なんて職業が存在するのが信じられない! こんな苦しい思いをして達成感もクソもあるか! こんなの山頂に金銀財宝が眠っていたとしても割に合わない!! 暗いし寒いし苦しいし痛いし酸っぱいし……!! レジャーにハイキングなんか含めるな!! ちょっと楽しそうに思っちゃうだろう!!」
「…………ラデックさんて苦しい時饒舌になりますよね」
「苦しみと向き合いたくないだけだ!!」
ラデックは体を抱きながら歯を食いしばって辛うじて前へと進んでいく。既に霧も強風も止んでいたが、ラデックは自己改造では凌げない低気圧と低温と低酸素に依然として体を震わせていた。とっくにハザクラの姿など見失い、最早ラデックは当初の竜を探すという目的など忘れ、今はひたすらに暗闇の中で安定した足場のみを求めて足を引き摺っている。
そんな情けないラデックの姿を、シスターは真後ろから困惑の表情で見守っている。自分では彼の助けにはなれない、どちらかと言うと助けになりたくないと思いながら、早くハザクラかゾウラが来ないかと他人任せなことを考えて辺りを見回した。
すると、少し後ろに妙な気配を感じた。パッと振り向くと、そこは依然として何も見えない暗闇であったが、その闇の中に確かに生物のような何かの波導を感じることができた。
「ラデックさん……」
「ああ寒い……あったかいコーヒーが飲みたい……ラーメン……シチュー……カレー……ポトフ……」
「ラデックさん!」
「ポトフ?」
シスターの呼びかけに漸く気がついたラデックは、シスターの方を向くと同時に彼と同じ違和感を抱いた。
「…………誰か……いるな」
「はい……。ゾウラさん……では、ありませんね」
敵意ほど鋭くなく、興味ほど柔くもない。形容するのであれば、恐怖か困惑。そんな感情が読み取れる波導が、壊れた蛇口が水溜りを広げていくが如く流れ出してきていた。シスターはその“何者か”を怖がらせぬように、緩慢な動きで方向を変えて口を開く。
「私は、グリディアン神殿の魔導外科医。シスターと言う者です。後ろにいるのは仲間のラデック。決して貴方に危害を加えません。どうか、姿を見せていただけませんか?」
シスターの問いかけは暗闇に消え、静かな風音だけが鼓膜を揺らしている。しかし、依然として何者かの気配は消えず、今もまだ暗闇の中からこちらを窺っている。
そして、暗闇が次第に“波打つように”変化し、今まで景色だと思っていた闇がその巨体を表した。その姿に、シスターは思わずラデックの元まで数歩下がり口を開く。
「なっ…………りゅ、“竜”…………!?」
暗闇から現れた巨大な影。猛々しい熊のような四つ足だが、脇腹からは巨大な翼が天幕のように広がっており、太く短い首の先には鋭い牙を輝かせる蜥蜴の頭部がこちらを睨んでいる。左右で大きさの違う群青色の瞳のすぐ上には曲がりくねった歪な角が2本生えており、その姿はファンタジー作品によく出てくるドラゴンそのものであった。
シスターはあまりにも衝撃的な光景に、息を呑んで立ち尽くす他なかった。立ち尽くしていたのはラデックも同じであったが、彼が目を見開いていた理由は竜が現れたことではなかった。
「そ、そんな…………!!!」
ラデックは血相を変えてふらりと一歩踏み出す。突然動き始めたラデックに、竜は驚いてほんの少し後退るが、ラデックは構わず竜の身体を舐め回すように見つめた。
「そんな、そんな馬鹿な…………何故…………何故っ…………!!!」
シスターも流石のラデックの異変を感じ、警戒している竜に近寄らせないよう彼の手を引いた。
「ラ、ラデックさん! どうしたんですか!? 竜が怖がってますよ!」
「一体、どうしてっ……! どうしてこんなことを……!」
「何に気がついたんですか!?」
「あ、あれは、君は、“竜じゃない”……!!!」
「え……!?」
ラデックの呟きに、竜は小さく呻き声のようなものをあげて身体を強ばらせる。
「ラデックさん……!? 竜じゃないって……どういうことですか……!?」
「俺なら、俺ならこうする……!!」
「俺なら……?」
「お、“俺が竜になろうと思ったら、そうやって自分を改造する”……!!!」
竜が大きく目を見開く。
「開きっぱなしの翼……爬虫類の顔に哺乳類の皮膚……左右で大きさの違う目玉……。体の作りが生物の基本に従っていないのは、君が生物学に詳しくないからだ……! 君は、人間だろう……!? 俺と同じ、生物改造の異能を持った、人間だ……!!!」
ラデックの声に、竜は息をも止めて静止する。そして、目の前の見知らぬ2人のことなど忘れて遠い昔のことを思い出していた。
まだ自分が人間として生きていた、10年前のことを。




